年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1844 | . | 5月22日 | アメリカ東部ペンシルヴェニア州のアラゲイニーに生まれる。父ロバート・シンプソン・カサットは株式仲買や不動産投機を業とする事業家で、母はキャサリン・ケルソー・ジョンストン。姉リディア、アレタザンダーとロバートの兄二人がいる。 | . |
1846 | 2歳 | 1月 | 弟ジョージ生まれるが一か月後に死去。 | |
. | 父がアラゲイニー市の市長になる。 | |||
1849 | 5歳 | 1月 | 弟ガードナー生まれる。 | |
春 | 一家はフィラデルフィアに移転する。 | |||
1851 | 7歳 | 晩夏 | しばらくヨーロッパで生活することにした一家は、アメリカをを出航し、バリに移り住む。 | |
1853 | 9歳 | 技術者を志すアレタザンダーの教育のため一家はドイツに移り、ダルムシュタットに住む。 | 1867年 カサット |
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1855 | 11歳 | 5月 | 次兄ロバートがダルムシュタットで死去。 | |
年末 | 一家はパリに立ち寄り、アメリカに帰国する。 | |||
1861 | 17歳 | 秋 | フィラデルアィアのペンシルヴェニア美術アカデミーに入学し、四年間ここで学ぶが、後半は授業には出席せずに絵を独習するようになる。 | |
1866 | 22歳 | 夏 | パリ留学を決意、父の反対を押し切って、パリに赴く。 | |
. | 短期間、アカデミーの画家シャプランやジェロームのアトリエに入るがすぐにやめ、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品の模写に専心する。 | |||
1867 | 23歳 | . | パリ近郊のクーランス及びエークアンの芸術家村を訪れ、クチュール、ソワイエ、フレールの教えを受け、風俗画の制作へと転じる。 | 《マンドリンを弾く女》 |
クールベとマネの影響を受ける。パリ万国博と同時に開催された二人の個展を見たと思われる。 | ||||
1868 | 24歳 | . | 兄アレグザンダーが第15代米国大統領の姪ロイス・プキャナンと結婚する。 | |
春 | 《マンドリンを弾く女》がパリのサロンで初入選し展示される。 | |||
. | エークアンに近いヴィリエ=ル=ベルに引越し、クチュールに学ぶ。 | |||
1869 | 25歳 | 春 | サロンに応募した作品が落選する。 | |
. | 女友達のゴードンとスケッチ旅行に出掛け、イタリアのピエモンテ地方やフランスを巡る。 | |||
1870 | 26歳 | 夏 | ローマで過ごすが、普仏戦争勃発後、両親の強い主張で帰国を余儀なくされる。 | 《闘牛士にパナルを 差し出す娘》 |
. | 絵の修行を続ける道を断たれ、絵を売る方途もなく、失意の時を送る。 | |||
1871 | 27歳 | 12月 | ヨーロッパに戻り、イタリアのパルマに落ち着き、パルミジャニーノとコレッジオを模写する。 | |
. | パルマ・アカデミーでカルロ・ライモンディに彫版を学び、パルミジャニーノの作品を研究する。 | |||
1872 | 28歳 | 春 | パリのサロンにメアリー・ステイーヴンソンの名でイタリアから作品《カーニヴァルにて》を送り入選する。 | |
1873 | 29歳 | 年初 | イタリアからスペインに赴き、セゲィーリヤとマドリードを訪れる。ゴヤとベラスケスに感服する。 | |
. | 母と共にリユーペンスを見るためアントゥエルペンに旅行、引き続きオランダのハールレムを訪れハルスを見る。 | |||
. | バリに戻ったのち、独りで再びローマに赴く。 | 《お茶のひととき》 |
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1874 | 30歳 | 春 | 3度目のサロン入選、はじめてカサットの名で《イーダ》を出品する。 この出品作にドガが注目、「これは本物だ。私と同じように感じる人間がいるんだな」と友人に語る。 |
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夏 | ヴィリエ=ル=ベルに滞在して制作する。 | |||
秋 | パリに戻り、終生の友となるルイジーヌ・エルダーに会い親交を結び、ドガの作品から感化を受け始め、彼女にドガの作品を買うことを勧める。 | |||
1875 | 31歳 | 夏 | フィラデルフィアで過ごしたのち、パリに戻り、ラヴァル街19番地に居住する。 | |
1876 | 32歳 | 春 | 昨年落選した作品に手を入れ色調を柔らげてサロンに送り入選する。この経験からサロンに愛想をつかし、ドガら印象派のグループの無審査、無賞という主張への同意を強める。 | 《劇場にて:リディアの肖像》 |
1877 | 33歳 | . | 共通の友人である画家トゥルネを同伴したドガの訪問を受ける。グループへの参加を求められ、喜んでこの申し出を受諾する。 | |
春 | サロンに1点送るが落選、以後二度とサロンへは作品を送らない。 | |||
秋 | 両親と姉リディアがバリに移り住み、トゥリュデーヌ通りのアパルトマンに一緒に住む。 | |||
1879 | 35歳 | 4月 | 第4国印象派展に《リディアの肖像》2点など作品11点を出品し、デュランティ、ユイスマンスらに注目される。 | |
夏 | 父と北イタリアを訪れ、アルプスを旅行する。 | |||
. | ニューヨークのアメリカ美術家協会展に2点出品。 | 《自画像》 |
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. | ドガとピサロとともにオリジナル版画入りの新聞『昼と夜』誌を出す計画をたてる。 | |||
1880 | 36歳 | 4月 | 第5回印象派展に『昼と夜』のための版画を出品、再びユイスマンスがモリゾよりも才能があると好意的に批評する。 ゴーガンもモリゾと同じほどの魅力をもち、より力量があるとほめる。 |
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. | 兄アレタザンダーが家族とともに長期滞在のためバリに来る。彼らや4人の子供はたちはいずれも絵のモデルとなり、この頃から母性をテーマにした作品を手掛け始める。 | |||
1881 | 37歳 | 4月 | 第6回印象派展に室内や庭園風景、子供たちの肖像などを出品する。 | |
. | 画商のポール=デュラン=リュエルがカサットの絵を扱うようになる。 | |||
1882 | 38歳 | . | 印象派展の会員問題をめぐって論議が起こり、第7回印象派展にはドガとともに不参加。 | 《桟敷席》 |
. | 取引銀行の破産で財政的危機に陥った印象派のパトロンである画商デュラン=リュエルに金を貸す。また友人や縁者たちに仲間の絵を買ってくれるように頼み、自身も買う。 | |||
11月7日 | 姉リディアが死去。 これをきっかけにカサットは2年近くにわたって制作を中断する。 |
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1883 | 39歳 | 8月 | 親友ルイジーンがヘンリー・O・ハヴマイヤーと結婚する。 | |
12月 | 健康のすぐれない母とともにスペインに旅行する。 | |||
1886 | 42歳 | 5月 | 最後の第8回印象派展に出品する。 | |
同展に参加した版画家たちが「フランス版画家協会」を設立する。会員をフランス生まれに限り、カサットと西インド諸島生まれのピサロを除外する。 | 《孫たちに本を読んで聞かせる カサット夫人》 |
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. | ニューヨークのデュラン=リュエル画廊での印象派展に出品する。 | |||
1887 | 43歳 | 3月 | シャンゼリゼに近いマリニャン街のアパルトマンに転居し、パリ滞在期間の最後まで居住する。 | |
7月 | 兄一家が長期滞在のため訪欧する。 | |||
1888 | 44歳 | 夏 | 乗馬中事故で足を骨折し、制作に支障が生じる。また以後、乗馬を楽しむことができなくなる。 | 《縫い物をする若い母親》 |
1890 | 46歳 | . | パリの国立美術学校で開かれた日本版画展をドガや友人たちと訪れる。 | |
夏〜秋 | オワズ渓谷にあるバシヴィレル城を借り、銅版のプレス機をすえつけて彩色アクアチント10点を制作する。 | |||
1891 | 47歳 | 4月 | フランス版画家協会第1回展がデュラン=リュエル画廊で開催される。同協会の差別的姿勢に抗議すべく、同時期に同画廊の別室で初個展を開き、「10点組」の多色刷り版画と、母性をテーマにしたパステル画2点、油絵2点を展示する。 | |
12月9日 | 父が死去。 | |||
1892 | 48歳 | 夏 | パシヴィレルの城で翌年のシカゴ万国博覧会の女性館のために「現代の女性」をテーマにした壁画の制作を依頼され、制作を始める。 | 《舟遊び》 |
1893 | 49歳 | . | 完成した《現代の女性》をシカゴに送るが、賛否両論さまざまな批判を浴びせられた。 | |
11〜12月 | デュラン=リュエル画廊で98点の作品による大個展を開催し、成功を収める。 | |||
1894 | 50歳 | . | パリから50マイル離れた、オワズ渓谷のメニル=テリビュスに17世紀に建てられた邸宅「シャトー・ド・ポーフレスヌ」を購入し、夏の別荘用に改修を始める。 | |
1895 | 51歳 | 4月 | ニューヨークのデュラン=リュエル画廊でアメリカ初の大個展を開催する。 | |
秋 | 弟ガードナー一家が2年間の長期滞在のためパリに来る。 | |||
10月21日 | ポーフレスヌで母死去。 | 《母カサット夫人の肖像》 |
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1898 | 54歳 | 秋 | 1871年以来はじめて27年ぶりにアメリカを訪れる。姪や甥たちの肖像を描く。 | |
1899 | 55歳 | 3月 | パリに帰る。 | |
. | 兄アレグザンダーがペンシルヴェニア鉄道総裁に就任する。 | |||
1901 | 57歳 | . | ハヴマイヤー夫妻の美術収集のための旅に同行し、イタリアとスペインをまわる。 | |
1903 | 59歳 | . | ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で個展を開催する。 | |
1904 | 60歳 | . | フランス政府からレジオン・ドヌール勲章騎士章を受ける。同勲章は、彼女が辞退せずに受け取った数少ない名誉賞のひとつ。 | |
1906 | 62歳 | 12月28日 | 兄アレタザンダー死去、いまや残る肉親ほ弟ガードナーだけとなる。 | |
1907 | 63歳 | 3月 | ヴォラール画廊で個展を開催する。 | 1909年 シャトー・ド・ボーフレヌ デュラン=リュエル夫人と 一緒のカサット |
夏 | ガードナー一家とともにイギリス、スコットランド、オランダを自動車で旅行する。 | |||
12月 | ヘンリー・ハヴマイヤーが死去。 | |||
1908 | 64歳 | 秋 | アメリカを訪れ、ガードナー一家とクリスマスを過ごす。旅行中、重い病に見舞われた結果、二度とアメリカには帰らないと決心し、これが最後の訪米となる。 | |
1910 | 66歳 | . | ガードナー一家とともに中近東に旅行し、コンスタンティノープルでクリスマスを過ごす。 | |
1911 | 67歳 | 1〜2月 | エジプトに滞在する。旅先でガードナーが発病する。 | |
3月 | パリに帰る。 | |||
4月5日 | パリでガードナ死去。悲嘆のあまり心身ともに打ちのめされて制作から遠ざかる。 | ドガ画 カサットの肖像 |
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1912 | 68歳 | 1月 | 友人のジェイムス・スティルマンとともに保養のためカンヌに滞在する。 | |
6月 | アーシル・セガールがカサットの伝記『メアリー・カサット:子供と母親の画家』執筆に着手する。この執筆に励まされて仕事への意欲を取りもどす。 | |||
11月 | カンヌ近郊のダラースに別荘「ヴィラ・アンジュレット」を借りる。 | |||
1913 | 69歳 | . | パステルで最後の作品群を制作する。 | |
. | 視力が衰え始める。 | |||
1914 | 70歳 | 6月 | デュラン=リュエル画廊で個展を開催する。 | |
. | 第一次世界大戦の勃発により、メニル=テリビュスを離れ南仏に移住し、グラースのアンジェレット荘で過ごす。 | 1912年 庭に立つカサット |
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. | 同地滞在期間中にルノワールを訪ねる。 | |||
. | ペンシルヴェニア美術アカデミーから名誉金メダルを授与される。 | |||
1915 | 71歳 | . | 視力を失い、画家としての制作活動が続行できなくなる。 | |
4月 | ルイジーン・ハヴマイヤーの手になるニューヨークでの婦人参政権運動の資金集め のための展覧会にドガとカサットの作品が展示される。 |
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10月 | 白内障の最初の手術を受ける。 | |||
1917 | 73歳 | 9月27日 | ドガ死去、葬儀に参列する。 カサットは遺産管理を手伝い、ドガとカサットの書簡は廃棄処分された。 |
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12月 | 右目の白内障の再手術を受ける。 | 1913年 庭先でのカサット |
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1918 | 74歳 | 5月15日 | スティルマンが死去。 | |
1919 | 75歳 | 10月 | 3度目の白内障の手術を受ける。 | |
1921 | 77歳 | 11月 | 4度目の白内障の手術を受けるが不成功に終わり、盲目に近い状態となる。 | |
1923 | 79歳 | . | 昔制作した版画のドライポイント原版からの復刻版セットをめぐる意見の対立からルイジーンとの親交が途絶える。 | |
1926 | 82歳 | 6月14日 | シャトー・ド・ボーアレスヌで死去。 | |
. | メニル=テリビュス近郊のカサット家の墓所に埋葬される。 |