1845[アラゲイニー]1926[メニル=テリピュス] |
フランス印象派のなかで活躍した唯一のアメリカ人女性画家。 ピッツバーグ郊外に生まれ、少女時代を家族とともにフランスとドイツで過ごす。ペンシルヴェニア美術アカデミーを卒業後、1866年パリに渡りルーヴル美術館で過去の巨匠たちを研究する。 普仏戦争のためいったんフィラデルフィアに帰るが、1871年イタリア経由でパリに戻り、サロンに初めて《マンドリンを弾く女》を出品し、以後も出品しつづける。77年、ドガと出会い大いに影響され、カサットはパリでオペラ観劇を楽しんだ。ドガと違ってオペラの舞台やオーケストラではなく、《オペラ座の黒衣の女》《桟敷席》など観客、それも知り合いの人物を描いている。 1879年の第4回印象派展に《真珠の首飾りをつけた桟敷席のリディア》などを出品し、《お茶のテーブルについた婦人》《縫い物をする女性》など、主に日常的な情景における女性の姿や母子像を抒情に描写した。これは、1878年に知り合った印象派女流画家のモリゾによって、自分の「女性らしさ」を利用するよう励まされていたものと推定される。 1880年秋、兄のアレグザンダー・カサット夫妻が、4人の子供を伴ってパリを訪れたのがきっかけとなって《眠たがる子の体を洗う母親》《母と子》母子像を数多く描く。1886年の最後の印象派展までドガとともに出品しつづけ、ドガ、マネの影響の濃い作品を描いた。 1890年代から独自の様式による母子像を描き、〈マテルニテ(母性)の画家〉として敬愛された。 1890年エコール・ド・ボザールで開かれた浮世絵展を見て刺激され、《手紙》《髪を洗う女》《髪結い》など、その線と空間を生かした日本趣味の作風を探り入れた版画連作を残している。没するまでフランスで過ごし、晩年に失明。彼女がアメリカで高く評価されるようになったのは第2次大戦後のことである。 |
【カサットのタイトル・カラーは、母と子の優しさをイメージしました。】