年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1839 | 0歳 | 1月19日 | エクス=アン=プロヴァンスのオペラ街28番地に生まれる。父ルイ=オーギュスト・セザンヌはイタリア人の血を引く帽子製造業者で、母アンヌ=エリザベート=オノリーヌ・オーベールはこの地方の椅子職人の家の出身。その後、マリー、ローズの二人の妹が誕生する。 | 父ルイ=オーギュスト・セザンヌ |
2月22日 | サント・マドレーヌ教会で洗礼を受ける。 | |||
1844 -49 |
. | . | エクスのエビノー街の小学校に通う。 | |
1844 | 5歳 | 1月29日 | 両親が正式に結婚する。 | |
1848 | 9歳 | 6月1日 | 父が、エクス唯一の銀行であるセザンヌ=カバソル銀行を設立する。 | |
1849 -51 |
. | . | サン・ジョゼフ学校で半寄宿生として学び、のちの彫刻家で生涯の友人となったフィリップ・ソラリや、セザンヌが1896年に親交を結ぶ詩人ジョアシャン・ガスケの父親、アンリ・ガスケと出会う。 | |
1852 -58 |
. | . | エクスのブルボン中学校で学び、のちに理工科大学数授となったパティスト・バイユや、とくにエミール・ゾラと親しく交わる。彼らは「仲良し3人組」として知られるようになり、絵画、詩、音楽に対するそれぞれの才能に身を任せる。彼らはしばしばエクス近郊の野山へ遠足に出かけ、アルク川では水浴を楽しみ、野山を歩き回っては詩を詠んだ。セザンヌほ学校でギリシア語やラテン語、科学や歴史でよく賞を貰ったが、絵の賞ほ一度しか受けていない。 | 《詩人の夢》 |
1858 | 19歳 | 2月 | ゾラはパリに去ったが、夏の間はエクスに戻る。以後、エクスに住むセザンヌとの間で親しく文通が行われる。 | |
11月12日 | 大学入学資格試験に合格する。 | |||
1859 | 20歳 | . | エクス大学で法律の勉強を始めるが、同時にジョゼフ・ジベールが指導するエクスのデッサン教室にも通う(1859年11月から1860年8月まで)。油彩の人物習作で2等賞を受ける。 | |
夏 | ゾラがエクスを訪れる。 | 1860年頃のセザンヌ |
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9月15日 | 父ルイ=オーギュネト・セザンヌがジャ・ド・プファンを購入し、セザンヌはそこにアトリエを作る。ジャ・ド・ブファンはエクスの西に位置する広大な地所で、 18世紀の堂々たる邸宅があり、以前はプロヴァンス州知事の住居であった。 | |||
1860 | 21歳 | . | 法律の勉強を続け、また1860年11月から1861年春までデッサン教室で学ぶ。 ジャ・ド・プファンの大広間の4つの壁板に《四季》を描き始め、それらにアングルと署名する。 |
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1861 | 22歳 | 4月-9月 | 絵の勉強のため初めてパリに出る。サロン(官展)を訪れる。エコール・デ・ポザール(官立美術学校)の入学試験に失敗し、画塾アカデミー・シュイスに通い、ピサロやギョーマンに会う。 | |
9月 | エクスに帰り、父の銀行で働き始める。 | |||
11月 | 再び市立のデッサン教室に通い出し、冬の間ずっと続ける。のちの歴史家でジャーナリストのニュマ・コストと親しくなる。 | 《新聞を読む父の肖像》 |
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1862 | 23歳 | 1月 | 父の銀行を辞め、絵画に専心する。 | |
11月 | 再びパリに出て、アカデミー・シュイスに戻り、ギュメやオレルに会う。バジール、モネ、ルノワールとも出会ったらしい。 | |||
1863 | 24歳 | 1月 | 父がパリのセザンヌを短期間訪れる。この年、セザンヌは1年間ずっとパリで過ごしたようである。 | |
5月15日 | 「落選展」が開幕し、カタログに記載はないが、セザンヌも1点出品した。 | |||
11月20日 | 美術批評家エルネスト・シェノーの弟子として、ルーヴル美術館で模写する画学生許可を申請する。 | |||
1864 | 25歳 | . | サロンに落選する。 | |
4月19日 | ルーヴルにあるプーサンの《アルカディアの羊飼い》の模写を始める。 | 《ドメニコ教団の修道士 (ドミニック叔父)》 |
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夏 | エクスに帰る。エクス生まれの素人画家で、のちにマルセイユ大学の動物学教授となったアントワーヌ=フォルテュネ・マリヨンや、ドイツの音楽家ハインリヒ・モルシュタットと親しくなる。 | |||
1865 | 26歳 | 3月15日 | 数日間、サン=ジェルマン=アン=レーに滞在した後、サロンに応募するためパリに戻り、オレルと共にポートレィイ街22番地に住む。 | |
. | アカデミー・シュイスで勉強を続ける。サロンに再度落選する。 | |||
10月15日 | ゾラが「クロードの告白」を出版し、セザンヌとバイユに捧げる。 | |||
秋 | エクスに帰り、マリヨンやモルシュタットに再会しただけでなく、のちの美術批評家アントナン・ヴァラブレーグとも会い、彼の肖像画(V126)を描く。 | |||
1866 | 27歳 | 2月 | 冬をエクスで過ごした後、パリに戻る。 審査員のドービニーの支持にもかかわらず、セザンヌの《ヴァラブレーグの肖像》を含む2点の絵がサロンに落選する。セザンヌのほか、マネ、ルノワール、ギュメ、ソラーリなどが落選する。 |
《ピアノに向かう娘》 |
4月初旬 | セザンヌがマネを訪問する。マネはセザンヌの静物画をギュメの家で見て、「力強さがある」と評価していた。 | |||
4月19日 | 美術総局長ニウウェルケルク伯爵に抗議文を送り、落選者展の再開を要求する。 | |||
5月 | ゾラは、「エヴェヌマン」誌に発表した1866年のサロン評を集めた「私のサロン」を出版し、セザンヌ宛の長文の手洗を序文として掲げる。 | 《ゾラに原稿を読んで聞かせる ポール・アレクシス》 |
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夏 | パリからおよそ30マイル離れたセーヌ河畔の村ベヌクールで、ゾラ、バイユ、ソラリ、ヴァラブレーグらと過ごす。大きな油彩画を何点か計画する。 | |||
9月 | バティニョール街のカフェ・ゲルボワに、マネを中心としてアストリュック、デュランティ、ゾラなどの文筆家や、ドガ、ルノワール、ギュメなどの画家が集まり、互いに意見を交わす場ができ、セザンヌも時々、参加している。 | |||
10月-11月 | ギュメがエクスにセザンヌを訪れる。 2人の画家はその活動ぶりをゾラとピサロ宛の手紙でそれぞれ報告している。 |
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1867 | 28歳 | 1月-6月 | 再びパリに戻り、ポートレィイ街22番地に住む。 《ぶどう酒のグロッグ〉と《酩酊》の2点がサロンに落選する。 |
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4月 | フランクフルトの新聞で、ジャーナリストのアンドレ・モルティエがサロンに落ちたセザンヌの絵を嘲笑する。 | 《強姦》 |
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4月12日 | ゾラは「フィガロ」誌の投書欄でセザンヌの作品を擁護する。 | |||
夏 | 冬から春にかけてパリで過ごしていたセザンヌはエクスに戻る。 | |||
秋 | パリに戻り、ゾラのアパルトマンで《強姦》(V101)を描き、これを若き小説家に贈る。 | |||
1868 | 29歳 | 2月13日 | ルーヴルで模写する画学生許可を更新する。 セザンヌの作品は相変らずサロンの審査を通らない。 |
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5月16日 | パリを離れて、エクスに戻る。 | |||
5月-12月 | エクスで過ごす。しばしばマリヨンと一緒に制作する。 若い作家のボール・アレクシスに会う。 |
《アシル・アンプレールの肖像》 |
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1869 | 30歳 | 年初 | ジュラ県サリネイ出身の年若いモデル、オルタンス・フィケと出会い、一緒に暮らし始める。彼女は後にセザンヌの妻となるが、長くその関係は父ルイ=オーギュストに隠された。 | |
. | サロンに再び落選。 | |||
4月 | エスタックを訪れる。ここで、水彩画《エスタックの工場》を描き、それをゾラの恋人に贈る。 | |||
1870 | 31歳 | 1月-6月 | パリのノートル・ダム・デ・シャン街153番地に住む。 | |
3月20日 | サロンの組織改革により、画家たちの選挙で審査員が選出されたが、セザンヌの《アシル・アンプレールの肖像》と《横たわる裸婦》はサロンに落選。 2点ともストックにより漫画にされる。 | |||
5月31日 | ゾラの結婚式で立会人をつとめる。 | 《エスタックの雪解け》 |
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7月19日 | 普仏戦争が起り、その直後、パリを離れてエクスに戻り、両親に内緒でオルタンス・フィケと一緒に、マルセイユ近郊の小さな漁村エスタックで過ごし、《エスタックの雪解け》を制作する。 ゾラの家族も同行し、1ヶ月間セザンヌらとともに滞在する。 |
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9月4日 | 第三共和政が布告される。父がエクス市議会議員に選ばれ、セザンヌはエクス学校の美術委員会の一員となる。 | |||
1871 | 32歳 | 1月28日 | フランス・プロシア間に休戦協定成立。 | |
晩夏 | パリに戻り、しばらくの間ソラリと同じ家に住む。 | |||
12月 | ワイン市場の向かい側にあるジェシゥー街に移り、アシル・アンプレールが彼のところに滞在する。 | 《首吊りの家》 |
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1872 | 33歳 | 1月4日 | パリでオルタンスとの間に、長男ポールが生まれる。 | |
夏 | ピサロが移り住んだばかりのポントワーズへ家族と共に赴き、オワーズ川を挟んでポントワーズとは反対側のサン・トゥーワン・ローモーヌにあるオテル・デュ・グラン・セールに滞在する。 | |||
秋 | セザンヌがしばらく腰を落ち着けたオーヴェール・シュル・オワーズで、ポール=フェルディナン・ガッシェ博士に会う。 | |||
1873 | 34歳 | . | この年の大半をオーヴェール・シュル・オワーズで過ごす。 | |
. | 《首吊りの家》を含む風景画を措き、静物画も何点か制作する。ギョーマン、ピサロとともに、ガッシェ博士からエッチングの手ほどきを受ける。セザンヌは5点のエッチングを制作したが、以後この技法には手をつけなかった。ピサロを通してパリの画材商タンギー爺さんに紹介されガッシェ博士が《モデルヌ・オランピア》を購入する。 | 《モデルヌ・オランピア》 |
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. | ゾラが「パリの腹部」を出版する。(小説のなかの画家クロード・ランティエはセザンヌをモデルにしたもの) | |||
12月 | ピサロがデュレに、独創的な作品を描く画家としてセザンヌを推薦する。 | |||
1874 | 35歳 | 年初 | オーヴェールを去ってバリに行き、ヴォジラール街120番地に滞在する。 | |
4月15日 -5月15日 |
第1回印象派展に《モデルヌ・オランピア》《首吊りの家》など3点を出品する。ドリア伯爵は《首吊りの家》を100フランで買う。 | |||
夏 | エクスに帰る。 | 《ショケの肖像》 |
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9月 | パリに戻り、ヴォジラール街120番地に住む。 | |||
1875 | 36歳 | . | パリのアンジュー河岸15番地に移り住み、ギョーマンの隣人となる。 2人の画家は時おり一緒に制作をする。 | |
. | ジョルジュ・リヴィエールののちの証言によれば、ジャ・ド・プファンの水彩画がサロンに落選したという。 | |||
. | 税関役人で、ドラクロワ作品の熱心な収集家であるヴィクトール・ショケが、タンギーからセザンヌの絵を1点買う。ルノワールからショケを紹介され、《ショケの肖像》(V283)を描く。 | |||
1876 | 37歳 | 2月 | セザンヌとショケがアルジャントゥイユに住むモネに招待される。 | |
. | サロンに落選する。 | 《自画像》 |
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4月-5月 | エクスに帰る。第2回印象派展には出品しなかったが、彼の許にショケが印象派展の批評記事を送る。 | |||
6月-8月 | エスタックを訪れ、ショケのために地中海風景を2点描く。 | |||
9月-10月 | パリ近郊、イシー・レ・ムリノーでギョーマンと一緒に制作する。 | |||
1877 | 38歳 | . | パリのルウェスト街67番地に住む。 | |
. | ル・ベルティエ街6番地で開かれた第3回印象派展にセザンヌは《ショケの肖像》など油彩画14点と水彩画3点を出品する。若い美術批評家ジョルジュ・リヴィエールがセザンヌを絶賛する。 | |||
夏 | ピサロと一緒にポントワーズ、オーヴェール、シャンティイなど、パリ郊外で制作する。 | |||
1878 | 39歳 | 1月-2月 | パリに住む。 | 《赤いひじ掛け椅子の セザンヌ夫人》 |
3月初 | パリを去ってエクスとエスタックに向かい、1879年3月までそこに留まる。セザンヌがエスタックに着いてすぐ、父はオルタンス・フィケとその息子の存在に気づき、セザンヌへの月々の仕送りを200フランから100フランに減額される。 | |||
. | オルタンスと息子は、画家アドルフ・モンティセリがいるところからさほど遠くないマルセイユに移る。 | |||
7月8日 | セザンヌは母と共にエスタックに滞在する。 母がエクスに戻ってからは、昼間はエスタック周辺で数多くの絵を制作し、夜は妻子のいるマルセイユに戻る生活を送る。 |
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9月 | 気管支炎のひどい発作に襲われる。 | |||
11月初 | オルタンスはパリに戻るが、セザンヌは息子と暮らし、エスタックで制作を続ける。 | |||
12月15日 | オルタンスがパリからマルセイユに戻るが、父との確執は続き、セザンヌは南仏を離れ静かな生活を送りたいと望む。 | |||
1879 | 40歳 | 1月-2月 | エスタックで制作を続ける。 | 《ポントワーズのクルーヴの 粉ひき小屋》 |
3月 | エクスを経由してパリに戻る。 | |||
4月10日 -5月11日 |
第4回印象派展が開催されるが、サロンへの出品を望むセザンヌは参加を断る。以後、印象派展には作品を出品していない。この年もサロンに落選する。 | |||
5月 | フォンテーヌブローの森に近いムランに腰を落ち着け、周辺の風景画を描き、冬には寒さの中で雪景色を制作している。1880年3月まで滞在する。 | |||
9月 | メダンを初めて訪れ、そこに大きな田舎家を購入したばかりのゾラに会う。 | |||
10月6日 | パリで上演されたゾラの「居酒屋」を観る。 | |||
1880 | 41歳 | 1月-4月 | パリのルウェスト街32番地に住む。 | |
2月26日 | ローズ・セザンヌがエクス出身の弁護士マクシム・コニルと結婚する。 | 《エスタックから眺めた マルセイユ湾》 |
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5月-10月 | ポントワーズのポテュイ河岸31番地に移り住み、ピサロ、ギョーマン、ヴィクトール・ゲィニョンと一緒に制作する。 | |||
6月 | 短期間パリに戻り、妹ローズとその夫を歓迎する。 | |||
11月-12月 | エクスに滞在する。 | |||
1881 | 42歳 | 5月16日 | タンギーがショケにセザンヌの作品を売る。 | |
7月 | オーヴェールとパリを訪ねる。 | |||
10月 | メダンにゾラを訪ねる。 | |||
1882 | 43歳 | 1月-2月 | イタリア施行から帰ったルノワールはエスタックにしばらく滞在したが、肺炎に罷り、セザンヌとその母に看病される。 | |
3月-9月 | パリ、ルウェスト街32番地に戻る。 | 《果物鉢、ナプキン、 コップ、りんご》 |
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春 | ショケ夫人の生地、ノルマンディーのアタンヴィルで制作する。 | |||
9月-10月 | メダンのゾラの許で5週間過ごし、アレクシス、コスト、デュレらに会う。 | |||
10月 | 「ギュメの弟子」として《L・Aの肖像》がサロンに初めて、そしてただ一度だけ入選する。ジャ・ド・プファンに滞在する。 | |||
1883 | 44歳 | . | 大半をエクスとエスタックで制作して過ごす。 | |
3月 | 数日間をエスタックで過ごす。マルセイユのアドルフ・モンティセリを頻繁に訪れる。 | |||
7月 | ゴーガンがタンギーの店から、セザンヌの風景画を2点購入する。 | |||
11月 | エスタックに住む。 | |||
12月 | モネとルノワールがジェノヴァからの帰途、エスタックに寄る。 | |||
1884 | 45歳 | . | 1883年と同様、この年もエクスとエスタックで制作して過ごす。 | 《オワーズの谷》 |
3月 | サロンに肖像画を送るが落選する。 | |||
7月 | ミュレルが収集したセザンヌほか、ピサロ、シスレー、ゴーガンなどの作品がルーアンのミュレル邸で展示される。 | |||
12月初 | 後期印象派の若い画家シニャツクがセザンヌの風景画《オワーズの谷》を、タンギーから買う。 | |||
1885 | 46歳 | 春 | ジャ・ド・プファンにいる女中の一人に突然愛着を抱き、セザンヌの生活は完全に破綻する。 | |
6月-7月 | エクスから逃れ、最初はルノワールと共にパリから30マイルほど離れたセーヌ河畔のラ=ロシュ=ギュイヨンに、次いでもっと下流の、モネのいるジヴェルニーに近いヴェルノンに住む。 | 《セザンヌ夫人》 |
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7月末 | メダンにゾラを訪れ、これが最後の訪問となる。 | |||
8月-12月 | 南仏に戻り、ガルダンヌの風景を描く。 | |||
12月22日 | ゾラの「作品」の連載第1回目が「ジル・ブラ」誌に掲載される。 | |||
1886 | 47歳 | . | この年の大半を妻子と共にガルダンヌで過ごす。 | |
4月4日 | 3月末に刊行されたゾラの「作品」で、二人の過去の思い出を記述されたことに感謝を伝える手紙を送るが、セザンヌはゾラと絶交する。 | |||
4月28日 | オルタンス・フィケとエクスで正式に結婚する。 | |||
10月23日 | 父死去、享年88歳。遺産によりセザンヌは残りの生涯、経済的な心配をしなくてすむようになる。義弟のマクシム・コニルがベルヴュの屋敷を購入する。 | 《パレットを特った自画像》 |
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1887 | 48歳 | . | この年の大半をエクスで過ごす。シャトー・ノワールに小さな部屋を借りたようで、1902年までそこで制作する。再びサロンに落選する。 | |
1888 | 49歳 | 1月 | ルノワールがエクスに滞在し、 2人で一緒に制作する。 | |
夏 | パリのアンジュー河岸15番地に戻る。シャンティイやアルフォールのマルヌ河畔で制作する。 | |||
8月4日 | ユイスマンスがセザンヌの作品について「ラ・クラヴァシュ」誌に短い記事を発表する。 | |||
1889 | 50歳 | 1月-3月 | ロジェ・マルクスとショケの尽力で《首吊りの家》が万国博覧会に展示される。 | |
6月 | アタッヴィルのショケを訪れた後、エクスに戻る。 | |||
夏 | ルノワールとその家族は、マクシム・コニルからベルヴュの家を借り、そこに数週間滞在する。 | 《水浴図》 |
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11月-12月 | パリに住む。オクタープ・モーの訪問を受け、ブリュッセルの「20人会」展への出品を要請される。 | |||
1890 | 51歳 | 1月18日 | プリュッセルの第7回「20人会」展覧会に3点出品する。《水浴図》のスケッチと2点の風景画で、そのうちの1点は《首吊りの家》であったようである。 | |
夏 | 妻子と共にスイスのレマン湖畔のヴェヴェイで約5か月過ごす。その後、ヌーシャテル、ベルン、フリプール、ジュネーヴ、ヴヴェー、ローザンヌを訪れるが、セザンヌには楽しい旅ではなかったようで、セザンヌがフランス国外に出たのは、このときだけである。 | |||
11月 | オルタンスはパリへ、セザンヌはエクスへ戻る。このころ、糖尿病の徴侯が初めて現われる。《カード遊びをする人たち》の連作に取りかかったようである。 | 《カード遊びをする人たち》 |
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1891 | 52歳 | 1月-2月 | エクスに住む。アレクシスは時どき彼と会い、この頃、熱心なカトリック信者となる。 妻子をジャ・ド・プファンに落ち着かせた後、すぐにパリへ戻り、この年の残りをパリで過ごす。 |
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4月 | ショケがノルマンディーのイヴトで死去する。 | |||
1892 | 53歳 | . | エクスとバリで半々に過ごす。パリでは以後、リヨン・サン・ポール街2番地に住む。フォンテーヌブローの森、とくにアルフォールで制作する。 | |
. | パリの画商アンプロワーズ・ヴォラールは、タンギーの店でセザンヌの作品を初めて見る。 | |||
. | エミール・ベルナールが「今日の人々」誌(387号)にセザンヌ論を書く。 | 1894年 ドラクロワの作品の 前に立つセザンヌ |
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1893 | 54歳 | . | エクスとパリに住み、フォンテーヌブローにも出かける。 | |
1894 | 55歳 | . | パリに住みパリの南、コルベイユ近傍のアヴォンやメヌシーで制作する。 | |
3月25日 | ギュスターヴ・ジェフロワがパリの日刊誌「ジュルナル」にセザンヌ論を書く。 | |||
9月7日-30日 | ジヴェルニーのオテル・ポーディに滞在し、モネとしばしば会う。 | |||
11月14日 | モネの54歳の誕生日の祝いに出席し、そこで初めてロダン、クレマンソー、オクターヴ・ミルボー、ジェフロワ、メアリー・カサットと会う。 | |||
1895 | 56歳 | 1月-6月 | パリ、ボナパルト街に住む。 | |
3月 | ルノワールがエクスを訪問し、セザンヌとともにせいさくに出掛ける。 | |||
4月-6月 | セザンヌの希望で《ジェフロワの肖像》(V692)の制作が始まるが、最後は再開を約束し、未完のままエクスに戻る。 | 《ジェフロワの肖像》 |
||
7月 | 年老いた母が一人で暮らすエクスに戻り、年末まで同地に滞在する。 | |||
11月 | パリではヴォラールが、ピサロ、モネ、ルノワールに励まされて、セザンヌ最初の個展を開き、ラフィット街39番地にある自分の画廊に100点以上の作品を展示する。 | |||
12月 | エクス芸術友の会主催の第1回展に2展の風景画を出品する。 | |||
1896 | 57歳 | 1月-6月 | エクス、ビベミュの石切場で制作する。 | |
4月 | 若い詩人で著述家のジョアシャン・ガスケ(セザンヌの学校時代の友人アンリ・ガスケの息子)に会い、その肖像画を描く(V695)。 | |||
6月 | ヴィシーで療養する。 | |||
7月-8月 | アヌシー湖畔のタロワール(オート・サヴォワ県)に滞在する。 | |||
9月-l2月 | パリ、モンマルトルのダム街に住む。 | 《4人の水浴の女たち》 |
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1897 | 58歳 | 1月-4月 | パリ、サン・ラザール街73番地に住む。 | |
5月 | メヌシーで制作した後、エクスに戻る。 | |||
6月 | ル・トロネに小屋を借り、シャトー・ノワール、ビべミュの石切場で制作する。 | |||
10月25日 | 母が享年82歳で死去するが、その葬儀にセザンヌはあえて出席せず、風景画の制作に出掛けたとされる。 | |||
1898 | 59歳 | 1月-9月 | エクス、シャトー・ノワールで制作する。 | |
5月9日 -6月10日 |
ヴォラールがセザンヌの2回目の個展を開き、60点の作品を展示する。展覧会の招待状には《4人の水浴の女たち》によるリトグラフが印刷されている。 | |||
夏 | モンジュルーやマリヌ(ポントワーズ近郊)を短期間訪れ、若い画家ルイ・ル・バイユと時どき一緒に制作する。 | 《アンブロワーズ・ ヴォラールの肖像》 |
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7月29日 | パリを離れて、フォンテーヌブローの森に近いマルロットやモンティニィ・シュル・ロワンで制作する。 | |||
1899 | 60歳 | . | パリとその近郊で制作する。 この年、数ヶ月かけて《アンブロワーズ・ヴォラールの肖像》に取り組む。 | |
4月23日 | ショケの未亡人が死去。 | |||
7月1日-4日 | ショケ・コレクションの売立てが行われる。 | |||
秋 | エクスに戻る。 | |||
11月25日 | ジャ・ド・ブファンを売却し、ブールゴン街23番地にアパルトマンを借りるが、妻子は同居せず、以後、家政婦プレモン夫人の世話を受ける。 | |||
. | アンデパンダン展に初めて静物画2点と風景画1点を出品する。 | モーリス・ドニ画 |
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12月 | ヴォラールがセザンヌの3回目の個展を開く。 | |||
1900 | 61歳 | . | 1年中エクスで過ごす。 | |
5月 | 油彩画3点、かつてゴーガンが持っていた《果物容れ、コップ、りんご》(V351)、《ジャ・ド・プファンの池》(V167)、描かれた場所が不明の風景画が、パリ万国博のとき開かれた「フランス芸術百年展」に展示される。 | |||
. | アンデパンダン展に再び出品。 | |||
11月 | モーリス・ドニが《セザンヌ礼讃》を描く。 | 《カーテンと水差しと果物の皿》 | ||
1901 | 62歳 | . | この年もずっとエクスで過ごす。画家シャルル・カモワンと詩人レオ・ラルギエに会う。 2人ともエクスで兵役中であった。 | |
1月-2月 | ヴォラール画廊で36点の油彩画を展示する。 | |||
3月1日-31日 | ブリュッセルで行われた第8回自由美術展に、セザンヌの静物画とドニの《セザンヌ礼讃》が出品される。 | |||
4月20日 -5月21日 |
アンデパンダン展に風景画と静物画を1点ずつ出品する。 | |||
11月16日 | エクスの北のシュマン・デ・ローヴに土地を買い、数室の小さな部屋と大きなアトリエからなる家を建てる。 | ローヴのアトリエ |
||
1902 | 63歳 | 1月 | ヴォラールがセザンヌを訪れる。 | |
2月 | パリの画商ガストン・ベルネーム=ジュヌがセザンヌを訪れる。 | |||
3月29日 -5月5日 |
ドニの勧めによりアンデパンダン展に油彩画を3点出品する。 | |||
6月 | 1894年設立のエクス芸術友の会に2点出品する。 | |||
7月 | ジュール・ポレリーがセザンヌを訪れる。 | |||
9月1日 | ローヴのアトリエが完成する。セザンヌはこのアトリエに満足し、意欲的に制作を続ける。 | |||
9月26日 | 息子ポールを唯一の相続人とする遺言書を作成する。 | 《庭師ヴァリエ》 |
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9月29日 | ゾラが死去の報を聞き、1886年の絶交以来2人は会っていなかったが、悲嘆に打ちひしがれる。 | |||
1903 | 64歳 | . | 1年中エクスに滞在し、新しいアトリエで制作する。 | |
1月-2月 | ウィーンで開かれた分離派による印象派展に、7点の作品を出品する。 | |||
3月7日 | セザンヌの初期作品を含むゾラ・コレクションの売立てが行なわれる。 | |||
5月 | ベルネム=ジュヌ画廊で開催された印象派展に、《ジェフロワの肖像》を含む3点が出品される。 | |||
11月13日 | パリでピサロ死去。 | |||
1904 | 65歳 | 2月 | エミール・ベルナールがエジプト旅行の帰りにエクスを訪れ、以後、文通が始まる。 | 1904年《大水浴》の前のセザンヌ |
7月 | ベルナールのセザンヌ論が「オクシダン」誌に掲載される。 | |||
秋 | 1903年創設のサロン・ドートンヌがセザンヌの回顧展を催し、《パイプの男》をはじめ、油彩画30点、デッサン2点が展示される。 | |||
. | パリを訪れ、これが最後の訪問となる。その後しばらくフォンテーヌブローの森で制作して過ごす。 | |||
1905 | 66歳 | 1月 | 2人の若い画家H・P・リヴィエールとJ・F・シュネルプがエクスを訪れる。彼らは2年後にこの体験を雑誌に発表している。 | |
1月-2月 | デュラン=リュエルがロンドンでグループ展を開催し、セザンヌ、ドガ、マネ、モネなどの作品が展示される。 | 1905年頃 セザンヌ夫人 |
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3月末 | ベルナールがナポリからの帰りにエクスに寄り、セザンヌと妻子に会う。このとき、ベルナールとセザンヌはマルセイユに出掛ける。 | |||
春 | アンデパンダン展に出品。ヴォラールがセザンヌの水彩画展を開く。 | |||
10月1日 | ベルナールが「ポール・セザンヌの思い出」を刊行する。 | |||
10月18日 -11月25日 |
サロン・ドートンヌの第3回展に10点の油彩画が展示される。 | |||
年末 | ヴォラールがエクスのセザンヌを訪問する。 | |||
1906 | 67歳 | 1月 | ナビ派の画家モーリス・ドニとK・]・ルッセルがエクスにセザンヌを訪れる。 | |
4月13日 | エッセンのフォルクヴァンク美術館の設立者であるドイツの収集家カール=エルンストオストハウスがセザンヌを訪れ、油彩画を2点買う。 | 1906年頃 ローヴで制作する セザンヌ |
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7月25日 | パリにいるオルタンスの体調が思わしくないことに対し、息子によく手当をするように伝える。セザンヌも糖尿病の具合が悪く、《庭師ヴァリエ》にマッサージをさせるなどの養生をする。 | |||
8月12日 | 病気の痛みからひどく気分が荒れ、ますます孤立した生活を送るようになる。 | |||
8月-9月 | 夕方近くになってから、アルク河畔のトロワ・ソーテ橋付近やグール・ド・マルテリーで制作する。 | |||
10月6日 | サロン・ドートンヌの第4回展に10点の油彩画が展示される。 エクス芸術友の会にシャトー・ノワールの風景を「ピサロの弟子」として出品する。 |
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10月15日 | 戸外で制作中、嵐に打たれて肺炎をこじらせる。 | |||
10月23日 | セザンヌは、朝7時、ブールゴン街の自宅で死去。オルタンスと息子ポールは臨終に間に合わなかった。翌日エクスのサン=ソヴール大聖堂で葬儀が執り行われる。 |