年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1834 | 0歳 | 7月19日 | パリのサン=ジョルジュ街8番地に生まれる。父ピエール=オーギュスト=イヤサント・ド・ガスは、その父がナポリに創設した銀行のパリ支店支配人。母セレスティーヌ=ミュッソンは、北アメリカのニューオーリンズに植民したフランス人家庭の出身。ドガには海軍士官になるアシル、ニューオーリンズで母方の綿花取引業を継ぐルネ、モルビルリ公爵夫人となったテレーズ、建築家フェヴルと結婚したマルグリットの兄弟がいる。 | . |
1845 | 11歳 | . | 有産階級の子弟が多く集まる名門校、ルイ・ル・ブラン中等学校に入学、学友のアンリ・ルアールとの長い交友がはじまる。 | |
. | ドガ11歳のころまで、一家はヴィクトール街21番地、サン=トノレ街241番地、ウェスト街24番地、マダム街37番地とパリ市内を転々とした。富裕なブルジョア的環境、特に絵画、音楽の熱烈を愛好家だった父の影響で芸術的雰囲気のなかで育つ。 | |||
1847 | 13歳 | . | 母セレスティーヌ=ミュッソン死去。享年32歳。 | |
1852 | 18歳 | . | 中等学校を修了、デッサン・コンクールで一等賞を獲得する。ド・ガス一家、モンドヴィ街に移転する。 | |
. | 父は少年ドガをルーヴル美術館やラ・カーズ、ヴァルパンソン、ソウツォなど一流の美術蒐集家の家へ連れていく。ラ・カーズの家ではヴァトー、ベラスケス、ルーベンス、フラゴナールの作品にふれ、ヴァルパンソンの家ではアングルの作品が称賛されているのを知り、ソウツォにはエッチングの技法を教わった。 | |||
1853 | 19歳 | 3月23日 | バカロレア(大学入学資格試験)に合格する。銀行業を継ぐためにパリ大学法学部に入学する。 | |
3月27日 | リセ・ルイ=ル=グランを卒業する。 | |||
4月7日 | ルーヴル美術館で模写の登録をする。 | |||
. | 画家バリアスのアトリエに通い、ドガの最初の作品とされる「祖父ジェルマン=ミュッソンの肖像」を描く。 | |||
4月9日 | ドガ家の友人でソマリ国立図書館版画室に働くドヴェリアの便宜でそこに出入りし、デューラー、レンブラント、マンテーニャなど巨匠の作品を模写する。 | 《鉛筆鋏を持つ自画像》 |
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12月11日 | 日付の入った最初の作品、弟アシルを描いた素描を制作する。 | |||
1854 | 20歳 | . | アングルの弟子ルイ=ラモットの画塾に通う。 | |
. | この年から1859年まで絵の勉強のため何度かイタリアを旅行する。ナポリの父方の祖父の家に滞在し、ルネサンスの巨匠たちの作品にじかに接する。この体験が、ルーヴル美術館での古典研究とともに、ドガに大きな影響を与えた。 | |||
. | 画家となるため、ドガはパリ大学法学部を中退、この年から翌年の冬にかけ、父のアパルトマンを出て屋根裏部屋生活を始める。 | |||
10月31日 | ルーヴル美術館でフランチアビジオ作《若い男の肖像》の模写を始める。 | |||
1855 | 21歳 | 4月6日 | パリ国立美術学校『エコール・デ・ボザール』の絵画・彫刻科に、ルイ・ラモットの生徒として入学するが、アカデミックな授業に嫌気がさし、あまり出席しなくなる。 | 《ルネ・ド・ガス》 |
5月 | アングルのアトリエを、学友ポールの父親であり、自身著名なコレクターであったヴァルパンソンと共に訪れる。アングルから「線を引きなさい、多くの線を」と教えられ、ドガはこの助言を一生涯守ることになる。 | |||
5月−7月 | 万国博覧会を見学し、そこで何点かの素描による模写、特にアングルの模写を行なう。 | |||
7月−9月 | 新古典派の画家フランドランが、ルイ・ラモツトを助手にして、サン=マルタン=デネのフレスコ画に取り組んでいたリヨンを訪れる。 | |||
9月16日 〜22日 |
ボナ、ファンタン=ラトゥールらと知り合い、アルル、セート、ニーム、そしてアヴィニョンと南フランスの横断旅行をする。アヴィニョンでは、カレヴェ美術館所蔵のダヴイッド作《若きバラの死》を模写する。 | |||
10月 〜翌年7月 |
ルーヴル美術館で模写に励む。また、このころからオペラに足繁く通い、女優リストーリの舞台に熱中する。 | 《海軍士官候補生アシル・ ド・ガス》 |
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1856 | 22歳 | 2月15日 | ノートにスゾーの風景画を模写する。 | |
7月17日 | 初めてのイタリア旅行に、マルセイユから海路ナポリに到着し、10月7日まで滞在する。国立美術館で多くの模写をしたり、親戚の《ジョヴァンナ・ベルレッリの肖像》《窓から見たナポリの眺め》を制作する。 | |||
10月7日 〜翌年7月 |
ナポリを発ち、チヴィタヴェッキアとローマへ向かい、ローマに長期間滞在中に、マラリアが流行したため、フィレンツェ、オルヴィェト、ナポリに旅行し、各地の美術館や教会でルネサンス美術を見学する。 | |||
1857 | 23歳 | 1月−7月 | ローマでは、フランス留学生会館「ヴィラ・メデイチ」を頻繁に訪ね、モロー、トゥルネー、デュボワ、音楽家ビゼーらと交際「カルダロステイ(栗の実)の会」を結成する。 | |
教会やヴァチカン美術館などで模写を行ない、街頭をスケッチして歩いた。また、ダンテの『神曲』から採った主題に取り組む。《乞食の女》《イタリアの老婆》を油彩で制作する。 | 《ルネ・イレール・ド・ガス》 |
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8月1日 | ナポリに着き、10月末まで滞在する。カポディモンテにある祖父の別荘で、《祖父イレール=ルネ・ド・ガスの肖像》などドガ一家の肖像を描く。 | |||
10月末 | ローマに戻り、1858年7月まで滞在する。過去の巨匠たちの作品を特にシスティーナ礼拝堂、ドーリア・パンフィーリ美術館、カピトリーノ美術館で模写を続ける。 | |||
1858 | 24歳 | 7月未 | 貸し切り馬車でフィレンツェからローマに向かい、ヴィテルボ、オルヴィエート、ペルージア、アッシジをまわり、ルカ・シニョレリの作品を模写する。 | |
8月 | フィレンツェのベルレッリ家に滞在、その間に一家をスケッチする。 | |||
9月初め | 祖父ルネ=イレール・ルネ・ド・ガス死去。 | |||
9月21日 | ヴェネツィアにいるモローに宛てた手紙に、ウフィツィ美術館でジョルジョーネとヴュロネーゼの作品を油彩で模写したこと、ボッティチェルリの《春》に感動したことなどが書かれている。 | 《ベルレッリ家の家族》 |
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9月28日 〜29日 |
シエナに旅行する。 | |||
11月11日 | パリにいる父は、《ダンテとヴェルギリウス》を含む油彩や素描の詰まった箱を一つ受け取り、息子に激励の手紙を送る。 | |||
11月中旬 | 《ベルレッリ家の家族》の制作を開始する。 | |||
1859 | 25歳 | 3月上旬 | モローと共に、シェナとピサを訪れ、カンポ・サントでゴッツオリのフレスコ画を模写する。 | |
3月末 | フィレンツェを発ちパリに向かう。1856年7月からのイタリア滞在中−ほぼ3年間に渡る、自ら課した修業期間の間に、ドガは特別、教師に師事することなく、モローの個性と、思想そして技術から多大の影響を受け、自らの糧とした。 | 《エフタの娘》 |
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4月2日 | ジェノバのパラッツオ・ロツソで、ヴァン・ダイクから深い感動を受ける。 | |||
4月6日頃 | 父の数度にわたる催促に応じてイタリアからパリに戻り、父親と共に、モンドヴィ街4番地に住む。 | |||
4月24日 | サロンを見学し、ドラクロワの作品、《埋葬》と《スキュティア人のもとに流刑されたオヴィディウス》に深く感動し、そのいずれもスケッチブックに模写を残している。 | |||
5月−8月 | イタリア滞在中のモローの友人たち、特にレヴィ、ラヴァル街にアトリエを構えていたクルシーらと頻繁に会う。 | 《エプソムの騎手たち》 |
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8月26日 | 《肘掛け椅子に座る女、縫物》にこの日の年記を入れる。 | |||
10月10日 | ラヴァル街にアトリエを構え、1860年代の間、使用することになる。ラモツトと口論する。最初の大画面の歴史画《エフタカエドガー・ドガの娘》を制作する。 | |||
1860 | 26歳 | 1月−2月 | パリで、ドラクロワの作品2点《ガリラヤ湖のキリスト》、《ミラボーとドルー=グレゼ》から、素早く描かれた模写を制作。 | |
3月21日 | 船でマルセイユからナポリに向かう。ナポリでは、祖父の死後、伯母のチチエラーレ侯爵夫人のファニーのもとに滞在。二人の妹、テレーズとマルグリットにも会う。 | |||
4月2日 | ナポリからフィレンツェに向かい、ベルレッリ家に月末まで滞在する。 | |||
7月9日 | ロッシーこの歌劇「セミラーミデ(バビロンとアッシリアの女王セミラミス)」がパリ・オペラ座で上演される。ここから歴史画《セミラミス》のヒントを得た。 | 《競馬》 |
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1861 | 27歳 | 9月 | レヴィを師として、ルーヴル美術館で模写の登録をする。ノルマンディーのメニル=ユベールにあるヴァルパンソン家の別荘に滞在中、馬と競馬の魅力に目を開かれ、馬の動きをとらえる習作を始める。 | |
1862 | 28歳 | 4月 | ルーヴル美術館でマネに会い交友を始める。彼は、鋼板に直にベラスケスの《マリア・マルガリタ王女》を模写していた。 | |
リシュリュー街66番地のカダールの出版社アルフレツド・カダールで、マネのエッチングの展覧会が開かれる。 | 《バビロンを建設するセミラミス》 |
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5月31日 | 友人の版画家ブラックモンは、「腐蝕銅版画協会」を創設するが、ドガは会員にならなかった。ブラックモンの案内で、リヴォリ街にある東洋美術専門店「支那の門」に出入りし、北斎、広重、歌麿などの版画を蒐集する。 | |||
9月18日 | 画家ティソは、ヴェネツィアからドガに手紙を書き、彼の大画面の歴史画《バビロンを建設するセミラミス》の進行状態を尋ねている。 | |||
1863 | 29歳 | 4月16日 | 妹テレーズは、従兄弟のモルビルリと、パリのマドレーヌ教会で結婚する。 | 《ポリーヌ・ドゥ・ メッテルニヒ王女》 |
5月15日 | 落選展覧会が開催されるが、この悪名高い展覧会に出品された、ドガの作品はない。 | |||
6月18日 | 叔母のミュッソン夫人は、娘のエステルとデジレを伴い、南北戦争を逃れて、ニューオーリンズからパリに到着する。彼女らはほとんど、マコン東部のブール=アン=ブレスに、1年6ヶ月滞在する。 | |||
11月 | 18歳の弟ルネが父の銀行をやめてアメリカで独立することを励ます。 | |||
12月29日 | 新年を叔母といとこたちと共に祝うために、パリからブール=アン=ブレスに向かう。 | |||
1864 | 30歳 | 1月 | ブール=アン=ブレス滞在中に、従兄弟ミュッソンの幼い娘ジョー・パルファーの素描を何点か描く。ノルマンディーのメニル=エペールで3週間過ごす。 | |
5月 | ドガはサロン展示のメソニエの作品に描かれた数頭の馬を模写している。 | |||
1865 | 31歳 | 1月 | ブール=アン=ブレスを再び訪問する。そこで、記載と1865年1月6日の年記がある、叔母と二人のいとこの肖像画を描く。 | 《菊のある婦人像》 |
5月1日 | ドガは、初めて、サロンに《オルレアン市の災禍》を出品する。シャヴァンヌの絶賛を受けたが、これはドガの歴史画では最後のものとなった。 | |||
6月1日 | 23歳の妹マルグリットは、建築家フェヴルと、パリのマドレーヌ教会で結婚する。 | |||
. | クリシー通りの『カフェ・ゲルボワ』に通い、アカデミックな美術に反旗をかかげて革新芸術を実践するマネ、ルノワール、モネ、ピサロ、デュランティなど、若い画家たちのグループと交わる。 | |||
8月 | メニル=エペールのヴァルパンソン家に滞在し、そこで、誤って《菊のある婦人像》と題された、ヴァルパンソン夫人の肖像と思われる油彩を描いた。 | |||
10月26日 | ルーヴル美術館で、セバスティアーノ・デル・ピオンボの《聖家族》を模写することが正式に許可される。 | 《芸術愛好家》 |
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1866 | 32歳 | 5月1日 | サロンに《障害物競馬》を出品するが、評論家から、批評はほとんどなかった。 | |
11月12日 | パリ・オペラ座で、フィオクル嬢が主演する、バレエ作品「泉」が初演される。この頃から舞台をテーマにした分野を開拓し、《芸術愛好家》、バレー《泉のなかのフィオクル嬢》の制作を始める。 | |||
1867 | 33歳 | 1月14日 | 尊敬していたアングルが死去する。パリ国立美術学校において、アングルの大規模な回顧展が開催される。 | |
3月13日 | サロンに出品した2点の作品を手直しする許可を求めて、美術総監に手紙を書く。 | |||
4月15日 | サロンに2点の油彩、《ベルレッリ家の家族》《ジョヴァンナとジュリア・ベルレッリの肖像》と思われる作品を出品する。 | 《ジョヴァンナとジュリア・ ベルレッリの肖像》 |
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5月〜6月 | 開催中の万国博覧会にしばしば出向き、とりわけ英国画家の作品に注目する。 | |||
8月3日 | バレエ作品「泉」のヌレッダ役の場面の衣装を付けた、フィオクル嬢を描いた素描には、ドガがすでに、翌年のサロンに出品する作品について考えていた。 | |||
12月24日 | 入浴する若い姪、セレスティーヌ・フェヴルを、パリ、マレシェル大通りの両親のアパルトマンで描く。 | |||
1868 | 34歳 | 3月26日 | ルーヴル美術館で最後の模写登録をする。師は、まだエミール・レヴィである。 | |
春 | パティニョル大通りの、カフェ・ゲルボワに頻繁に通い、作家で批評家のデュランティーを知る。カフェ・ゲルボワは、文学と絵画における〈近代生活〉の指導者たちが、活発な討論を行う場となった。その常連には、マネ、モネ、ピサロ、バジール、ルノワール、ファンタン=ラトゥールそしてゾラがいた。 | |||
5月 | サロンに、《バレエ「泉」に主演する、フィオクル嬢の肖像》を出品する。これは、バレー「泉」が歴史劇であり、彼の歴史への関心を残していながらも、同時にオペラ座の舞台を描いたものであり、さらに実在する人物の肖像画ともなっている点で、ドガの方向転換を象徴的に示している。 | 《オーケストラ席の楽士たち》 |
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. | ティソ、アルテ、モロー、ヴァレルヌ、カミュ博士など友人や画家の肖像画をしきりに描く。また舞台やバレーに対する関心は旺盛で、《オーケストラ席の楽士たち》など制作する。 | |||
1869 | 35歳 | 2月 | ブリュッセルで作品に買い手がつき旅行し、ベルギーの画商からの契約の申し出を受ける。 | |
5月 | サロンに《ゴジュラン夫人》を出品し入選する。ゴジュラン夫人はオペラ座の踊り子で、後にジムナーズで女優になった。彼女は、しばしばドガ初期の踊り子の絵でモデルになっている。しかし、《ピアノの前のカミュ夫人》は落選する。 | |||
5月下旬 | 画家モリゾと会い親しくなったが、マネと違い、ドガは彼女を描こうとはしなかった。ドガはベルトの姉イヴに心を奪われた。彼女は、ゴビラール夫人であった。フランクリン街にあるモリゾのアパルトマンで、ドガは、油彩を制作するつもりで、イヴの素描を描いた。 | 《ゴビラール・モリゾ夫人の肖像》 |
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6月下旬 | イヴの素描とパステルで彼女の習作を描く。結局、それら多くの習作から、1点の油彩《ゴビラール・モリゾ夫人の肖像》が生まれている。 | |||
6月17日 | 弟ルネがニューオーリンズの従姉妹エステル・ミュッソンと結婚する。 | |||
7月〜8月 | マネに誘われて英仏海峡沿いの海岸、エトルタ、ヴィリエ=シュル=メールやサン=ヴァレリ=アン=コーの海岸に滞在し、そこで、海、砂浜、海岸、空を描いた水彩とパステルによる一連の風景画を制作する。また、この頃から洗濯女やアイロン掛けをする女のシリーズを描き始める。 | |||
1870 | 36歳 | 4月12日 | デュランティーは、日刊新聞『パリ=ジュルナル』紙に、「サロン審査員諸氏」へ宛てたドガの抗議の手紙を公表した。それは、絵画は二段掛け以上にしないこと、各作品の間は20〜30cmの間隔をあけること、素描と油彩を並陳することなどである。 | 《赤い服のカミュ夫人》 |
5月1日 | サロンに肖像画《赤い服のカミュ夫人》《ゴビラール夫人の肖像》の2点を出品、デュランティは黙殺し、デュレは絶賛する。これはサロンに出品するようになって5年目にして、彼が受けた最初の賞賛である。彼は以後サロンには出品していない。 | |||
5月 | アレヴィーが『ラ・ヴィー・パリジェンヌ』誌に《カルディナル夫妻》を発表する。これはパリのオペラ座につとめる二人の踊り子の生活を描いた、いくつかの短いスケッチからなっている。 | |||
9月 | 7月1日開戦の普仏戦争に、ドガは国防軍に志願兵として登録する。 | 《引き潮の海岸》 |
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10月 | ドガは、ヴァンセンヌの森の北方で、学校時代の友人で砲兵隊中隊長のルアール指揮下のバスティオン12隊に配属される。以来、2人の友情は1912年のルアールの死まで続き、アマチュア画家だったルアールはドガに誘われて印象派の展覧会に出品したこともあった。終生独身で、晩年は世間からも孤立したドガにとって、この『生涯の交遊』は大きを心の支えとなった。 | |||
11月 〜翌年2月 |
ドガはマネとともに、砲兵隊に従軍し続ける。 | |||
1871 | 37歳 | 3月 | ドガは三重肖像画《ジャントー、リネ、レネ》の年記をこの時としている。 | 《オルタンス・ ヴァルパンソンの肖像》 |
3月18日 | パリ・コミューンが成立し、ドガはメニル=ユペールのヴァルパンソン家を訪問する。そこで《オルタンス・ヴァルパンソンの肖像》を制作した。 | |||
7月1日 | ヴァルパンソン家に滞在した後、ドガはパリに戻る。 | |||
7月14日 | ドガはマネ夫妻のアパルトマンで夕べを過ごす。そこで有名なスペインの歌手・ギター奏者パガンが歌い、マネ夫人がピアノを演奏した。 | |||
8月31日 | ドガの叔母オディール・ミュッソンがニューオーリンズで死去。 | |||
10月 | ロンドンを訪れ、ゴールデン・スクエアのオテル・コントに滞在する。 | |||
1872 | 38歳 | 1月 | パリの画商ポール・デュラン=リュエルが初めて、ドガの絵画を3点購入する。 | 《ダンスのレッスン》 |
2月 | デュラン=リュエルによって組織されたロンドンの、フランス美術家協会の第4回展に《スタートの失敗》《悪魔ロベール》の2点を出品する。 | |||
春 | 1859年以来のアトリエのあったラヴァル街からブランシュ街に移転する。 | |||
10月初旬 | 綿花取引業を営む弟のルネとパリを発ち、母方の親類を訪ねて、ニューオーリンズに向かう途中で、ロンドンに立ち寄り、ホイッスラーと出会う。 | |||
10月〜 翌年3月 |
ニューオーリンズに滞在中、ルネの家庭に親しく接したドガは、結婚生活にあこがれる。《ダンスのレッスン》、《若い婦人と花瓶》、《窓辺にすわるゲィェソト夫人》など家族の肖像を描く。 | |||
11月2日 | ロンドンでデュラン=リュエルが企画した第5回フランス美術家協会展が開催される。ドガの作品は《田舎の競馬》と《オペラ座の稽古場》の2点が出品された。両作品ともに、『ポール・モール・カゼット』誌上でコルヴィンによって賞賛される。 | 《オペラ座の稽古場》 |
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1873 | 39歳 | 3月末 | ドガはニューオーリンズを発ち、パリのブランシュ街のアトリエに戻る。この頃から、彼はビガール広場にあるカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル=アテーメに通うようになる。カフェ・ゲルボワ以来の彼の友人たちも、このカフェにやって来るようになるが、さらに新たな常連として、画家で版画家のデブー夕ンが加わる。 | |
5月7日 | 事業家でコレクターでもあるオシュデが、デュラン=リュエルから、ドガの作品、《スタートの失敗》を購入する。オペラ座の歌手フォールも、デュラン=リュエルのロンドン画廊から、ドガの競馬に題材を得た作品3点を入手する。さらにフォールは、おそらくこの時、ドガに《ダンスの試験》を注文している。 | 《洗濯女》 |
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6月上旬 | デュラン=リュエルはドガから《オーケストラの楽師》と《洗濯女》を購入する。これ以後1880年まで、デュラン=リュエルはドガから作品を購入していない。 | |||
10月29日 | 制作のため足繁く通っていたル・ベルティエ街のオペラ座が焼失したが、仮の建物に移ると、ドガもそこに行ってスケッチを続けた。 | |||
11月 | 父オーギュストがパリを発ってナポリに向かうが、旅先で病に伏せ、ドガは看護のためトリノに行く。 | |||
12月27日 | 未来の〈印象派〉となるモネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、セザンヌ、モリゾらとともに、ドガは「画家・彫刻家・版画家などによる共同出資株式会社」に参加する。 | 《競馬の馬たち》 |
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1874 | 40歳 | 1月13日 | オテル・ドルオでのオシュデの売り立てで、ドガの《スタートの失敗》が300フランで売れる。 | |
2月16日 | フォールはデュラン=リュエルから《競馬の馬たち》を購入する。 | |||
2月23日 | ドガの父オーギュストが、ナポリで66歳で死去。 | |||
4月15日〜 5月15日 |
パリの写真家ナダールのスタジオで第1回印象派展(キャプシーヌ大通り35番地)が開催される。入場者数は約7,000人であった。ドガは競馬やバレエ、洗濯女などを主題にした10点を出品した。批評家たちは、展覧会全体に対して、特に『印象主義者』たちに反感を抱いたが、ドガに対しては、一般に好意的だった。 | |||
11月 | ロンドンでの第9回フランス美術家協会展にドガは、《バレエの舞台》を出品する。 | 《バレエの舞台》 |
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12月10日 | サン・ジョルジュ街のルノワールのアトリエで開かれた「芸術家株式会社」の会合に出席。負債を背負いこんだために、株式会社の破産が決定されることになった。 | |||
1875 | 41歳 | 2月24日 | 芸術家デブー夕ンとデ・ニッチイスはドガのドライポイントの肖像画を制作する。 | |
2月28日 | ドガの叔父アシルがナポリで死去。 | |||
3月 | ドガは叔父の葬儀のためナポリに行き、遺産相続について話し合う。彼は4月中旬までナポリに留まったようである。 | |||
3月24日 | ドガがイタリアに赴いて不在の間に、モネ、シスレー、ルノワール、モリゾは、パリのオテル・ドルオーで彼らの73点の作品のオークションを開く。 | |||
8月19日 | 弟アシルは前の恋人であるテレーズ・マロの夫ルグランにパリの証券取引所で襲われる。アシルはその報復としてピストルを2発撃ち、ルグランにわずかな傷を負わせる。テレーズ・マロはオペラ座の〈バレエ団〉に属する踊り子で、アシルとの恋愛は1870年頃に始まった。ドガはテレーズ・マロを油彩とパステルで描いている。 | 《テレーズ・マロ》 |
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9月24日 | アシルは懲役6カ月という有罪判決を受ける。しかし11月20日に、この判決は懲役1カ月、罰金50フランにまで軽減された。 | |||
. | 第11回フランス美術家協会展がロンドンで開催される。ドガはバレエの絵画1点を出品する。 | |||
12月 | アシルが投機に失敗、弟たちの事業が経営危機におちいる。父の遺産や愛蔵していたコレクションの一部を売却せざるをえなくなり、初めて稼ぐために描くことになる。このことがドガ家の名誉を深く傷つけたと思いこむ。 | |||
1876 | 42歳 | 4月11日〜 5月9日 |
デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展(ル・ペルティエ通り11番地)が開催され、ドガは24点を出品するが、批評家ヴォルフは『ル・フィガロ』紙上で第2回展を酷評する。ドガはバレエあるいは劇場を描いた絵画は7点のみ出品する。これは恐らく、「踊り子の画家ドガ」という単純な評判を意識したものと思われる。対照的に肖像画8点とカフェの光景、夕刻入浴している女、婦人帽子店など、主題は他のどの出品者よりも多岐にわたっている。技法に関しても同様である。このためデュランティはドガを弁明するために『新しい絵画(ラ・ヌベール・パンチュール)』という小冊子を著して、ドガの立場を弁明した。 | 《アプサント》 |
4月20日 | ドガはブランシュ街のアパルトマンを離れ、フロショ街に移り住む。 | |||
4月 | デシャンはロンドンで第12回にして最後のフランス美術家協会展を開催するが、そこにはドガの4点のバレエの練習風景の絵が含まれていた。このうち3点はブライトンのヘンリー・ヒル大尉が購入した。 | |||
5月〜6月 | ドガはデシャンに、《バレエの支度をする踊り子》《ニューオーリンズの綿花取引所》などの作品を売りに出すため、ロンドンに送る。 | 《アプサント》 |
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7月 | ドガはモノタイプの作品制作に没頭し、デブータンなどに批判される。 | |||
8月31日 | 弟アシルはこユーオーリンズにいる叔父のミシェル・ミュッソンに手紙を書き、パリの銀行が閉鎖されたことを知らせる。 | |||
9月 | ブライトンで開かれた第3回冬期現代絵画展に、ヘンリー・ヒル大尉はドガのバレエの絵画1点と《アプサント》を貸し出す。 | |||
9月30日 | 象徴主義の詩人にして著述家のマラルメは、ロンドンの『月刊美術批評と写真集』に発表された「印象派とマネ」という記事の中でドガの作品を賞賛する。 | |||
1877 | 43歳 | モンマルトルのフロショ街4番地に転居。 | ||
4月4日 〜30日 |
デュラン=リュエル画廊の近くのアパートで開催された第3回印象派展(ル・プルティエ通り6番地)に、ドガは踊り子、カフェ・コンセール、裸婦など、主にパステルで制作した24点を出品。また、ピッツバーグの銀行家の娘で、印象派の画家たちと親交が深かったカサットにグループに加わるよう勧誘している。 | 《競馬場》 |
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ビガール広場の「カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル=アテーヌ」を集会場所としてマネ、デュランティなどと親交を続け、作家リュドヴィク・アレヴィとも知りあう。 | ||||
10月 | ドガはモンマルトルのルピック街50番地に新しいアパルトマンを見つける。 | |||
10月31日 | フォールに手紙を書き、期限の過ぎた油彩画《競馬場》《洗濯女》を届けるつもりであることを知らせるが、ドガは約束を守らない。 | |||
1878 | 44歳 | 1月 | ドガはポーで毎年開かれる芸術家協会のサロンに《ニューオーリンズの綿花取引所》を出品する。 | 《ニューオーリンズの綿花取引所》 |
2月 | エルダーが新しく手に入れた《バレエのリハーサル》をニューヨークのアメリカ水彩画協会の第11回展に貸す。これはアメリカ合衆国で展覧された最初のドガの作品である。 | |||
3月19日 | ボーの美術館は《ニューオーリンズの綿花取引所》を2000フランで獲得する。これはドガの生存中に美術館に入った最初の作品となった。 | |||
3月 | ピサロとカイユポットは、パリの万国博覧会と時を同じくして印象派展を組織しようと試みるが、考えを放棄せざるを得なくなる。ドガはこの計画中の展覧会のために出品作家のリストを作成するが、その中にはカサットの名前も含まれていた。 | |||
4月13日 | 弟ルネはニューオーリンズの仕事と盲目の妻エステルとの家庭を棄てる。彼はその後ニューヨークに落ち着き、最終的にレオンス・オリヴィエ夫人と結婚し、第2の家庭を持つ。ドガは弟の行動を非難し、二人は20年間接触を失うことになる。 | 《カフェの前の婦人たち》 |
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夏 | ドガは恐らくこの頃ファン・フートヘムをモデルに使い始める。当時14歳のこのベルギー生まれの踊り子は、ドガの有名な彫刻《14歳の小さな踊り子》のモデルを務めることになる。フアン・フートヘム嬢は、ドガの他の素描やパステル画や油彩画のモデルともなっているが、それらはすべてバレエと結び付いている。 | |||
1879 | 45歳 | 1月 | フエルナンド・サーカスで幾晩かを過ごし、そこで白人と黒人の混血である軽業師のララ嬢の一連の4点の素描習作を制作する。これらの素描からドガは《フエルナンド・サーカスのララ嬢》の油彩画を制作する。 | 《フエルナンド・サーカスの ララ嬢》 |
4月10日〜 5月11日 |
第4回印象派展(オペラ座大通り28番地)が開催され、ドガは《フエルナンド・サーカスのララ嬢》など、油彩、パステル、扇面画あわせて25点を出品した。5点の扇面画は展覧会の新しい構成要素を成す。ドガが主として力を入れたのは《デュランティー》肖像画であった。2、3の異議を唱える声を除いては、批評家は好意的であった。15,000人以上の観客を惹きつけ、芸術家はそれぞれ439.50フランの利益を得た。ドガはグループにつけられた侮蔑的を名称「印象主義者」を「独立派展(アンデパンダン)」に変えるよう要求する。 | |||
5月13日 | ドガはブラックモンに手紙を書き、カイユポットに「雑誌」について話したと語る。これは『昼と夜』と名付けられる計画中の出版物のことで、本質的に版画制作に捧げられる月刊の挿絵入りの雑誌である。これに加わった他の芸術家はピサロ、カサツト、ラファユリ、デブー夕ン、フォラン、ブラックモンらであった。 | |||
6月20日 | ドガに最後に残された叔父、アンリがナポリで死去。叔父アンリのナポリの財産の持ち分はドガの従兄弟リュシーのものとなる。 | 《緑の衣装の踊り子》 |
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秋 | ドガは『昼と夜』のために準備している版画のことでブラックモン、カサット、ピサロと定期的に接触がある。彼は版画制作に集中的に打ち込み、約16にのぼる版を制作する。 | |||
1880 | 46歳 | 3月 | 印象派グループの第5回展覧会が計画されている最中に、ポスターに参加者の名前を入れるかどうかでドガはカイユポットと喧嘩する。 | |
4月1日 〜30日 |
ドガの発案によって「独立派展(アンデパンダン)」と命名された第5回印象派展(ピラミッド街10番地)が開催され、ドガは8点の油彩画およびパステル画、カフェ・コンセールを主題とした素描、一群のエッチング、《14歳の小さな踊り子》の彫刻1点である。ドガはユイスマンスとシルヴェストルから賞賛を受けた。 | |||
4月9日 | デュランティーが47歳で死去し、ゾラとドガは遺言執行者に指名される。ドガは自分の《デュランティーの肖像》を展覧会に加える。 | 《バレエ教室》 |
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8月 | 3人の若い殺人犯アバディー、キラーユ、クノブロックの公判を傍聴し、ノートブックに彼らの素描を描く。 | |||
9月 | ドガは、パリの西15マイル、ブージヴァルの対岸のセーヌ河畔にあるクロワシーとラ・グルメイエールで休暇を過ごすことを二つの理由から延期する。一つは家政婦のサピーヌ・ネイが彼に付き添うことを断わったということ、もう一つは制作の重圧である。 ドガはリュドヴィック・アレヴィーに、バレエの場面を描かざるを得ないのだと不平を漏らしている。これらのバレエの絵画の中に、彼がメアリー・カサットの兄のために制作していた《バレエ教室》も含まれていた。 |
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12月27日 | ポール・デュラン=リュエルが1874年以来初めて、ドガから「第4回絵画展(印象派展)」に出品された《騎手たち》を購入する。これ以後、デュラン=リュエルはドガから作品を購入し続ける。 | 《騎手たち》 |
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1881 | 47歳 | 1月 | ドガは、デュランティーの死後、未亡人ブルジョワを手助けするために開かれたデュランティーの売り立ての中心的なオーガナイザーとなる。彼は、デュランティーの肖像画のパステルと《双眼鏡を覗く女》、トウシューズをはいている踊り子の素描の3点の作品を寄付する。 | |
1月24日 | 第5回展のポスターの件でカイユポットと喧嘩したことから、ドガは改めてカイユポットの考えと反対の立場に立っていることに気づく。彼らの不一致点は次の2つのきわめて重要な問題に集中している。一つは「アンデパンダン」か「印象派」かというグループ名の問題。もう一つは出品作家の選択の問題である。ピサロはドガを支持し続けた。そしてカイユポットは展覧会から身を引いた。 | |||
4月2日 〜5月1日 |
第6回印象派展(カピュシーヌ大通り35番地)が開催され、ドガは8点を出品する。その中には4点の肖像画、《11歳の小さな踊り子》の彫刻、法廷でスケッチした若い殺人犯、アバディーとクノブロックの2点の習作が含まれている。批評はほとんど彫刻に集中した。ドガは、前年に続いて後輩のラファエリを印象派展に参加させたが、これがゴーガン、ギョーマンの批判を浴び、ついには、来年もラファエリを参加させるなら自分たちは出品しないと彼らが主張するようになった。 | 《犯罪者アバディーとクノブロックの人相》 |
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6月上旬 | ドガの妹マルグリットの娘、マリー・フェヴルが死去。 | |||
9月27日 | 『ル・グローブ』紙に載ったイギリス人写真家マイブリッヂの連続写真で、疾駆する馬の姿勢を知る。 | |||
10月13日 | ドガは《サロンの片隅》をデュラン=リュエルに1,500フランで売り、美術批評家で『ガゼット・デ・ボザール』の編集者エフリュッシが手に入れる。 | 《サロンの片隅》 |
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1882 | 48歳 | 2月1日 | カトリックの銀行ユニオン・ジェネラルの倒産によってデュラン=リュエルは深刻な影響を蒙る。それにもかかわらず、彼は1年を通じてドガの作品を買い続ける。 | |
3月1日 〜4月2日 |
第7回印象派展(サン=トノレ街251番地)が開催されるが、反サロンの同志であるモネ、ルノワールらがサロンに出品したことに憤慨したドガは、印象派展への参加を拒否する。 | |||
3月16日 | ドガは、前年の夏のパリ滞在の後、ナポリに戻っている従姉妹リュシーに、彼女がモデルになった薄浮き彫り《林檎つみ》において、彼女の代わりになる「同じプロポーションの」少女を発見したと語る。 | |||
5月1日 | ドガはサロンのオープニングに出席し、ホイッスラーを手放しで褒め、またシャヴアンヌとマネに関しては条件付きで賞賛する。 | |||
6月 | デュラン=リュエルは、ロンドンのキング通り13番地のE.F.ホワイトの画廊に印象派の作品の小グループを送る。その中に4点ドガの作品が含まれていた。 | 《ベルトを直す踊り子》 |
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6月15日 | ビガール街21番地の新しいアパルトマンで、ドガは引越し祝いのパーティーを開催する。そこでもサピーヌ・ネイが家政婦および料理女として仕える。招かれた客の中にはエフリュッシ、ルアール、そしてデュラン=リュエルがいた。 | |||
9月9日 | ドガは友人の芸術家バルトロメに、ジュネーヴの近くのヴェイリエから手紙を書く。 | |||
11月 | カサットの姉のリディアが亡くなる。ゴーガンはピサロに宛てた手紙の中でドガは彫刻で馬を制作している。 | |||
1883 | 49歳 | 1月 | デュラン=リュエルは、ブーダンから始まってピサロ、モネ、ルノワール、シスレーと続いていく連続的な個展を彼のパリの画廊で企画することを決定する。ドガは参加するように招かれるが断わる。 | |
3月 | アイルランド人の劇作家ワイルドとイギリス人の芸術家シッカートがパリ訪問中で、オテル・デュ・ケ・ヴォルテールに滞在している。シッカートは初めてドガに会う。 | 《ルーヴル美術館の マリー・カサット》 |
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4月23日 | デュラン=リュエルがロンドンのダウズウェルズ画廊で印象派の展覧会を催し、ドガの作品が7点展示される。 | |||
4月30日 | マネが51歳で死去。マネの死に深い衝撃を受け、「彼は、僕らが考えている以上に偉かった」と友人に洩らす。このころより、ますます孤立してゆく。 | |||
8月 | メニル=ユベールのヴァルパンソン家でドガはしばらく過ごしたと思われる。 | |||
10月16日 | ドガは沈んだ調子でヴェネツィアのルアールに手紙を書く。学校時代の友人であるニオデが最近亡くなったことに促されて、ドガは約18ヶ月前のギターの夕べを思い出すが、そこに居合わせた27人のうち4人が今や故人となっている。 | |||
12月4日 | ドガは芸術家のアンリ・ルロールに手紙を書き、アルカザールにカフェ・コンセールの歌手テレサの歌を聞きに行くことを勧める。 | |||
1884 | 50歳 | 1月 | マネの作品の回顧展がパリ国立美術学校で開かれる。 | 《婦人帽子店の二人の婦人》 |
2月4〜5日 | マネのアトリエの売り立てでドガは3点の作品を手に入れる。 | |||
8〜10月 | ル・アーヴル、デイエップに旅行。その後、メニル=エペールのヴァルパンソン家の娘オルタンスの等身大の胸像を制作する努力を続けるる。しかし、後にまもなくこの彫刻は崩壊する。 | |||
11月15日 | 美術批評家オクターヴ・ミルポーが新聞『ラ・フランス』のために、芸術家を選んで書いている人物評のシリーズの一つとして、ドガについて書く。 | |||
1885 | 51歳 | 1月 | 一年前の回顧展から一周年の記念として、レストラン、ペール・ラトユイーユで開かれたマネに捧げられた宴にドガは出席する。 | |
6月 | ドガのパステル画3点を含む印象派の作品を、デュラン=リュエルはブリュッセルで展示する。ドガの作品を手に入れようと熱心なモネは、自分の作品の一つを、画商ポルティエが所有しているドガの作品と交換しようと考える。しかしモネが実際に初めてドガの作品を手に入れるのは1887年のことである。 | 《オペラ座のダンス》 |
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6月12日 | ドガは、友人のレイエルのオペラで、プリマドンナのローズ・カロンがブリュンヒルデを演じる「シグルド」のドレス・リハーサルに臨席する。カロンに夢中になり、ドガはほとんどすべての上演に出かけ、数点の素描と2つの扇面画を制作している。 | |||
8月22日 〜9月12日 |
ドガはアレヴィー家の客として3週間をディエツプで過ごす。ドガはパステルで、シッオート、アレヴィー、その息子のダニエル、プランシュ、ジェルヴエックス、プーランジェ=カヴェの肖像画を描いた。このディエツプ滞在中に、ドガはゴーガンに会う。 | 《婦人帽子店の娘たち》 |
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9月12日 | パリに戻ってくると、ドガは再びオペラ座に足繁く通い始め、「シグルド」を聞く。 | |||
1886 | 52歳 | 1月 | ドガは、妹のテレーズ、まもなく成年に達するいとこのリニシーニ家族の相続問題を話し合うためにナポリに旅行する。その途中ジュネーブに立ち寄り、弟のアシルを訪問する。 | |
1月30日 | パリに戻ると、ドガはオペラ座に「シグルド」を見に行く。 | 《左脚をこする女》 |
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4月〜5月 | デュラン=リュエルはドガの作品23点をはじめとする「パリの印象主義者展」をニューヨークで開催、成功をおさめる。ただ『ザ・サン』紙は、ドガのデッサンは下手だと批評する。 | |||
5月15日 〜6月15日 |
最後の第8回印象派展(ラフィツト街1番地)が開催され、ドガは婦人帽子店を描いた数点のパステルと《裸婦》シリーズ10点を出品する。多くの批評、なかでもジェフロワ、ユイスマンス、フェネオンによる批評は裸婦に言及しており、「近代的」裸婦について、またドガの道徳と芸術的態度について議論を呼んでいる。 | |||
6月 | ビガール街に移転するが、大衆やジャーナリズムの無理解、嘲笑を怒り、作品公表を拒むようになり、ますます世間から孤立していく。 | |||
11月30日 | 初めてのロンドン滞在後、パリに戻ってくるとゴーガンとの友情を新たにする。 | |||
1887 | 53歳 | 2月15日 | ドガの家政婦サピーヌは、ピーガル街において67歳で死去。彼女は1873年にドガがニューオーリンズから戻って以来、一緒で時折、彼女はドガのモデルになった。その後すぐに、クロジュがドガの世話をするようになり、彼が死ぬまで付き添う。 | 《脆く裸婦》 |
7月22日 | ドガは《花瓶の前で肘をつく女》をヴァラドン画廊のテオ・ヴァン・ゴッホに売る。これはドガとテオの間で行なわれた、最初に記録に残っている取引である。その他多くの取引が次の2年間に続くことになる。 | |||
12月 | バルトロメの妻のべリが死去。悲しみに打ちひしがれたバルトロメは絵を棄て、ドガに励まされて彫刻に取り組み始める。 | |||
1888 | 54歳 | 1月 | テオはヴァラドン画廊でドガの作品の小さな展覧会を企画する。このときの作品はほとんど裸婦であった。そのうち数点をゴーガンは模写している。ドガはデュラン=リュエル画廊でも踊り子を展示する。 | |
2月 | フェネオンは『ルヴュ・アンデパンダント』において、ヴァラドン画廊とデュラン=リュエル画廊に出品されたドガの作品の幾つかについて記述している。 | 《スタートの前の騎手》 |
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4月 | テオの要請で、芸術家ソーンリーは、ドガの油彩画とパステル画に基づく15点のリトグラフの連作を手掛け始める。そのうち4点がテオによってヴァラドン画廊で展覧された。夏の初めに、テオはそれらをオランダのダッチ・エッチング・クラブの展覧会に送る。 | |||
6月8〜9日 | ドガは小さな油彩画《スタートの前の騎手》と2点の馬と騎手をテオに売る。 | 《カフェ・コンセール ”アンバサドゥール”》 |
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7月 | ドガがこのとき馬の彫刻に取り掛かる。彼は1887年のエドワード・マイブリッジの『動物の運動』の出版だけでなく、バリーの作品展にも刺激を受けていた。 | |||
8月 | 気管支炎を病み、ドガはピレネー山脈のコートレで治療を受けることに決める。 | |||
9月15日〜 | コートレを離れ、オロロン、トゥールーズに向い、美術館でアングルの作品を見るため、トウールーズからモントーバンまで列車に乗る。その後パリに戻る。 | |||
11月13日 | テオのもとで、ゴーガンが1888年の2月から10月にかけて制作したブルターニュの絵を見て大変熱狂する。 | |||
1889 | 55歳 | 1月23日 〜2月14日 |
デュラン=リュエル画廊で版画展が開かれ、ドガのリトグラフが2点出品される。 | |
2月 | モネの風景画の展覧会と同時に、騎手、踊り子、化粧する女を描いた数点の作品がテオのもとで展示される。フェネオンとオーリエが雑誌の中でこれらに言及しているほか、マラルメとモリゾは暖かい賞賛の言葉を述べた。 | 《舞台稽古》 | ||
4月3日 | ドガの作品に基づく15点のリトグラフ集を完成させたソーンリー、およびその版画の出版者であるペックは、それをパリの国立図書館に寄贈する。 | |||
4月〜5月 | ドガは《踊り子、コントラバス》と2点のバレエの絵画をテオに売る。 | |||
5月25日 | ロンドンのクリスティーズで開かれたブライトンのヘンリー・ヒルのコレクションの競売で、ドガの6点のバレエの絵画が売却される。 | |||
8月13日 〜9月2日 |
治療を受けるため、再びコートレに滞在する。 | 《バーで練習する踊り子たち》 |
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9月 | 友人であるシェルフィス家の人々とポーに滞在し、その後ビアルリッツに行き、そこで「乗合馬車の屋上席にいた」ボナに出会う。ボルディーニと共に列車でマドリッドに行く。 | |||
9月8日 | ドガとボルディーニは午前6時半にマドリッドに到着し、オテル・ド・パリに滞在する。午前9時から正午までプラド美術館を訪れベラスケスに感動する。 | |||
9月18日 | ドガとボルディーニはドラフロワも滞在したモロッコで数日を過ごし、グラナダ経由でパリに戻る予定であった。 | |||
1890 | 56歳 | 1月17日 | 踊り子の絵画をテオに売る。ドガのアトリエをテオが妹のウイルを伴った。 | |
4月28日 | ヴイクトル・マッセ街の新しいアパルトマンで最初の夜を過ごす。 | 《舞台の袖の踊り子》 |
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5月上旬 | ブリュッセルを訪問し、「サランボ」に出演するローズ・カロンを見に行く。 | |||
5月〜6月 | 男性の肖像画と2点の女性の肖像画をテオに売る。 | |||
7月10日 | ドガの妹のマルグリット・フェヴル、その夫で建築家のアンリ・フェヴル、その子供たちはフランスを離れてアルゼンチンへ赴く。彼らはルアーヴルから出航し、ブエノスアイレスに8月3日に到着する予定であった。 | |||
7月 | ドガはパリの画商の娘、ガブリエル・ディオの肖像画に年記を記す。 | |||
8月4日 | 再び治療のためコートレに行き、オテル・ド・フランスに滞在する。 | |||
9月1日 | コートレを離れてポーでシェルフィス家の人々と共に数日を過ごす。 | |||
9月3日〜7日 | ジュネーヴに病気の弟アシルを見舞う。 | |||
1891 | 57歳 | 1月21日 | ドガはオペラ座で「シグルド」をもう一度見る。その後アレヴィーと食事をする。 | 《舞台の袖の踊り子と観客》 |
7月6日 | ドガはヴァレルヌに長い手紙を書き、彼の視力が悪いことを弁明する。それにもかかわらず、彼はリトグラフの連作を制作することを計画していた。最初のシリーズは化粧する裸婦、2番目のシリーズは裸体の踊り子であった。 | |||
7月31日 | デュランのレストランで、シュラミーの主催したディナーが催され、そこでドガはオペラ座の総監督の一人、ベルトランに会う。 | |||
8月上旬 | ドガは眼科医のランドルに相談する。 | |||
8月26日 | ドガはオペラ座を訪れ、1887年以来10回目のヴェルディの「アイーダ」を見る。 | |||
10月26日 | ワグネリアンではなかったものの、ドガは「ローエングリン」を聞きに行く。恐らくローズ・カロンがエルザ役を歌ったためと思われる。 | |||
1892 | 58歳 | 3月25日 | ドガはラフオンと共に再びポーを訪れる。 | 《ビリヤード室》 |
3月26日 | ジュネーヴに「不幸な」弟アシルを見舞い、グルノーブル、ヴアランス、アヴィニョン経由でカレベントラに向い、そこでヴァレルヌを訪問する。 | |||
3月28日 | カルベントラを去った後、ドガはリヨンで一夜を過ごし、ジュネーヴを再訪する。 | |||
4月13日 | マネの弟でモリゾの夫であり、ジュリーの父親であるウジェーヌが56歳でパリで死去する。これ以後ドガはジュリーの生活に「父親のような」関心を抱くことになる。 そしてその多くは彼女の『日記』に記録されることになる。 |
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8月 | ドガはパリを離れてメニル=ユベールのヴァルパンソン家の城に赴き、そこで彼は《ビリヤード室》を描いた2点の油彩画と自分用の着替えの部屋を描いた作品とを制作する。 | |||
9月4日〜8日 | カルベントラでヴァレルヌと過ごし、再びジュネーヴに弟のアシルを見舞った後パリに戻る。 | 《髪を梳く裸婦》 |
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9月9日 | 批評家のアレクサンドルが日刊新聞『パリ』で、デュラン=リュエルの画廊で展覧されているドガの一連の21点の風景画について「自然の感覚を呼び覚まし、自然の記憶を喚起するものを展示している」と批評する。 | |||
12月4日 | ブエノスアイレスにいる妹のマルグリットに手紙を書き、彼の一連の「想像的風景画」について言及している。 | |||
1893 | 59歳 | 3月 | ロンドンのグラフトン画廊の展覧会で、ドガの《カフェにて》が、《アプサント》という新しいタイトルのもとに展覧される。一方におけるヴィクトリア朝盛期の道徳とイギリスの島国性の代表者と、他方におけるムーア、マッコール、シッカートのようなフランスびいきのより進歩的な著述家との間に、長い間にわたって批判的な応酬が繰り広げられた。 | |
6月18日 | ドガは義弟のアンリ・フェヴルに手紙を書く。 | 《ロシアの三人の踊り子》 |
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9月15日 | シヤヴアンヌと共に、パリでポール・デュラン=リュエルの娘ジャンヌの結婚の証人となる。 | |||
10月13日 | 長い間にわたる病の末、ドガの弟アシルが死去。 | |||
11月4日 | ドガに励まされ、デュラン=リュエルは自分の画廊でゴーガンのタヒチの作品展を開く。ドガはゴーガンの《月と大地》を購入する。 | |||
1894 | 60歳 | 3月17日 | ド・ヴィルジュ街のモリゾ宅でマラルメ、ルノワール、バルトロメと食事をする。 | |
3月19日 | デュレのコレクションの売り立てに際して、ドガは、デュレが友人の芸術家の作品を売却することで、自ら栄誉を得たことを非難する。 | |||
4月25日 | ミレーが収集した作品のコレクションの公開売り立てで、かつてミレーのベッドの上に掛かっていたエル・グレコの《聖イルデフオンソ》をドガは入手する。 | 《膝を折って座り左の肘を拭く女》 |
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5月31日 | マラルメ、ルノワール、モリゾがドガと共に食事をする。 | |||
7月 | ドガは画家のヴァラドンに、最近サロン・ド・シャン・ド・マルスに出品された彼女の素描について手紙を書く。その1点を彼は購入した。 | |||
10月 | ドガの親友であったヴァルパンソンが60歳で死去。 | |||
10月25日 | ドガはポール・ラフオン夫人をディナーに招待する。 | |||
11月 | ドガはヴァラドンに手紙を書き、前日にルバール・ド・ブートヴィルの画廊で見た彼女の素描の一つを購入したいと申し入れる。 | |||
12月 | ドガの義弟のエドモン・モルビルリが60歳で死去。 | |||
1895 | 61歳 | 8月 | 気管支炎の治療を受けるため、オーベルニュ地方のモン=ドレを訪れる。 | 1895年頃 パリの自宅にて |
10月 | 妹のマルグリットが53歳でブエノスアイレスで死去したという知らせに大変驚く。彼はマルグリットの遺体をフランスに戻させ、モンマルトル墓地の一族の地下納骨所に納める。 | |||
11月20日 | 11月20日 ジュリー・マネがバルトロメ、マラルメ、ルノワールら他の客と共にドガの家で食事をする。 | |||
12月28日 | アレヴィー家でのディナーの後でドガは何校かの写真を撮る。 | |||
1896 | 62歳 | 1月1日 | ジュリー・マネはマラルメに「ドガの撮影した写真は成功している」と言う。 | |
1月23日 | ドガのために、デュラン=リュエルは1823年に制作されたアングル作の《ルブラン夫妻の肖像》を買う。 | |||
2月20日 | ドガはジュリー・マネに、彼女の母親モリゾの約300点の作品による記念展のために、デュラン=リュエルが「小さな部屋」を用意するだろうと言う。 | 《舞台の袖で支度する 四人の踊り子》 |
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3月5日 | ヴァレルヌが80歳で死去。ドガはそのニュースを聞くとすぐにカルペントラでのヴァレルヌの葬儀に出席するためにパリを離れる。 | |||
11月18日 | ドガはアレヴィー家の人々に、彼の肖像写真の幾枚かの拡大写真を見せる。 | |||
1897 | 63歳 | 2月10日 | ジュリー・マネはドガを訪れ、肺疾患で苦しむ彼を見る。 | |
3月20日 | ドガは夕食に画家のブラッカヴァルと夫人及びドガの弟のルネとその家族を招く。 弟ルネとは長らく仲たがいの状態にあったが、ドガは弟アシルとマルグリットの死以後、しばしば弟ルネと会い始め、和解する用意をしていた。 |
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8月22日 〜25日 |
ドガはモン=ドレを離れてモントーバンへ行き、そこでバルトロメと一緒になり、アングル美術館を訪れる。 | |||
11月 | ドガとアレヴィーとの関係が徐々に不安定になっていく。その理由はアレヴィー家の人々がもつリベラルな信念と著しく対照的な反ユダヤ、反ドレフュスの感情をドガが強めていくことになったからである。 | 《踊り子》 |
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12月8日 | ジュリー・マネは彼女のいとこと一緒にルーヴル美術館へ模写に行き、そこでドガに会う。その時、ドガの紹介で、ジュリーがやがて彼女の夫となるルアールと初めて出会った。 | |||
12月23日 | ドガはアレヴィーとそれが最後になった晩餐をする。二人の亀裂はあまりにも深く気がやすまらない。そして親しい終生の友情は破壊される。 | |||
1898 | 64歳 | 6月30日 | 作品収集に夢中になって、ドガは画商ベルネームを訪ねるため、ルアールに相談する。そしてドラクロワの花のスケッチ3点と、2点のコローがよいという彼の見解を伝える。 | 1898年頃 アトリエのドガ |
8月 〜9月上旬 |
保養のためにモン=ドレへ行くかわりに、ドガは英仏海峡沿いの海岸にあるサン=ヴァレリー=シェル=ソンムを選ぶ。彼はそこへ弟のルネと一緒に行き、芸術家のブラッカヴァルと共に過ごし、数点の村の風景画を制作する。 | |||
11月3日 | ジュリー・マネはドガを訪ね、ドガはルアールとの結婚問題について、ふざけて彼女を叱る。 | |||
12月28日 | ジュリー・マネは夕食にドガを含めて15人の客を招く。 | |||
1899 | 65歳 | 1月28日 | ジュリー・マネはマラルメの詩集の挿絵に使う素描をドガに依頼するが、彼は出版者がドレフエス支持だという理由で断わる。 | |
3月26日 | ドガは断りなしに展覧会へ彼の作品を含めたことに対し、ロンドンの国際協会の書記官ハワードに抗議の手紙を出す。 | 《うなじを拭く後向きの女》 |
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4月25日 | ジュリー・マネはデフオツセ・コレクションの売り立て下見会で、コロー、マネ、ルノワール、モネ、そしてドラクロワの「すばらしい」《埋葬》を眼に止める。 | |||
8月10日 | ドガはルノワールらとデュラン=リュエル家で晩餐に招かれる。 | |||
11月16日 | ジュリー・マネは日記に、ドガとルノワールとの最近のいさかいを記録している。 これはドガのパステル画をルノワールが売り飛ばしたことから火花が散った。以前から二人は不愉快な気持ちをもっていたが、これほど真剣になったことは決してなかった。 |
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12月14日 | ルアールは「タウロスのイピゲネイア」を聞くためにドガに同伴する。 | |||
1900 | 66歳 | パリ万博「フランス芸術100年展」で印象派の画家たちに一室が提供され、モネ、シスレー、ピサロらとともに、ドガも油彩2点、パステル5点を出品する。 | 1900年頃 フルシー夫妻とドガ |
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5月31日 | ドガは、サン・トレノ・デリイローの教会で、ジュリー・マネとルアール、それにゴビラールとヴァレリーの二組の結婚式に主賓として招かれる。 | |||
8月28日 | ドガは制作し終えたく洗濯女〉の作品について、ジョゼフ・デュラン=リュエルに手紙を出す。そして「あなたは彼女を思い出すだろう」と付け加えた。 | |||
1902 | 68歳 | 9月30日 | バルトロメは彼に対するドガの冷たい態度に不満を洩らす手紙をラフオンに出す。 | |
1903 | 69歳 | 9月 | ピサロが73歳で死去。ドガはドレフェス事件以後ピサロに会わなかった。 | |
1904 | 70歳 | 5月 | 流行性胃炎で2ヶ月間寝込むドガをアレヴィーが訪れる。アレヴィーは「浮浪者のような服装をして、非常に痩せ細り、まるで別人のような彼(ドガ)を見て」ショックを受ける。 | 《休息する四人の踊り子たち》 |
8月23日頃 | おそらくプジョの助言で、ドガは長期の療養のため、ジュラ地方にあるボンタルリエを選ぶ。 | |||
9月7日 | ドガは、ボンタルリエに15日間滞在して、少々健康を取り戻す。彼はパリからエビナル、ゲラルメール、ミュンスター、コルマール、ベルフォール、ブザンソン、オルナンを経て、最後にボンタルリエに行きナンシーを経て戻る。 | |||
1905 | 71歳 | 2月 | ロンドンのグラフトン画廊で、デュラン=リュエルは印象派画家たちの大きな展覧会を組織する。そこにはドガの35点の作品が含まれていた。 | 《バレエの情景》 |
10月7日 | ドガは痛風で苦しんでいた「貧しく不幸な」ルアールに短い手紙を出す。 | |||
1906 | 72歳 | 4月 | ヴエスピオス火山の爆発。ナポリにいるドガの親戚は無事であった。 | |
9月 | ドガは姪のジャンヌ・フェヴルに手紙を出し、自分はナポリへ向かわねばならない、そして彼女に会うためにニースを経て旅行するかも知れない、と知らせる。 | |||
10月22日 | ゼザンヌが67歳でエクス=アン=プロヴァンスで死去。ドガが所蔵していたセザンヌ作品のコレクションは水彩1点と小さな油彩画7点であった。 | |||
10月−11月 | ドガは一家の財産を分けるためにナポリを訪れる。 | 1910年頃 クリシー通りのドガ |
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12月5日 | ナポリから帰ったドガはルアールと夕食を共にする。 | |||
1907 | 73歳 | 2月 | 歯科医で彫刻家のポーランは、ヴィクトール=マッセ街のアトリエで、2作目のドガの胸像を完成する。 | |
次第に悪化してきた肺気腫治療のため、レ・ヴォージュに滞在し静養する。 | ||||
12月26日 | ドガのアトリエにコレクターで美術史家のネラトンが訪れた。ネラトンは浴女のパステル画を制作する芸術家を見い出す。 | |||
1910 | 76歳 | 8月4日 | ドガはルイーズ・アレヴィーからの手紙に暖かい返事を出す。彼はすぐに彼女を訪れようとする。 | |
1911 | 77歳 | 4月 | ドガの絵画12点による存命中2度目の個展がハーバード大学のフォッグ美術館で企画される。 | 1910年頃 バルトロメ家の 庭でのドガ |
5月 | ドガはパリのジョルジュ・プチ画廊で開催されたアングルの大規模な展覧会を見に行く。 | |||
1912 | 78歳 | 1月2日 | 中等学校以来の親友アンリ・ルアールが78歳で死去。この死を深く悲しむ。 | |
20年来住みなれたヴィクトール=マッセ街のアトリエを引き払い、ユトリロの母で、かつてドガのモデルをつとめたこともある女流画家ヴァラドンの紹介で、クリシー大通りのアパルトマンに移る。転居後の彼は、もう生ける屍のようだった。制作活動は途絶え、蒐集したコレクションを鑑賞することもできず、ただひとりパリの街を散策することだけが気晴らしの毎日だった。 | ||||
7月12日 | ドガは、妹のテレーズが72歳でナポリで死んだことをフェヴル家の姪たちに手紙で知らせる。 | |||
1913 | 79歳 | 2月22 | デュラン=リュエルはドガの大きな油彩画類を安全に保管するため、彼の画廊の倉庫にそれらを置く。 | . |
1914 | 80歳 | . | ドガの作品を中心とするカモンド・コレクションがルーヴル美術館に入る。 | |
1916 | 82歳 | . | カサットの知らせで、ジャンヌ・フェヴルが叔父ドガを助けるために、パリへやって来る。 | |
夏 | ドガはオトゥイユにいるバルトロメを訪れる。 | |||
1917 | 83歳 | 9月27日 | ドガは脳溢血により83歳で死去する。 | |
9月28日 | ドガはモンマルトルの墓地にある一家の地下納骨所に埋葬される。哀悼者たちの中には、バルトロメ、メアリー・カサット、ジョゼフとジョルジュ・デュラン=リュエル、ジャンヌ・フェヴル、フォラン、ルイーズ・アレヴィー、モネ、アレクシスとルイ・ルアール、ヴォラール、そしてザンドメーネギがいた。 | . |