年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1848 | 0歳 | 6月7日 | パリのノートル=ダム=ド=ロレット街52番地(現在56番地)に生まれる。父ピエール・ギョーム・クロヴィス・ゴーガンは反君主制主義者・共和系の新聞『ナシオナル』紙のジャーナリスト、母アリーヌ・シャザルは、ペルー生まれの空想的社会主義者の婦人運動家で閏秀作家として著名なフローラ・トリスタンの娘であった。 前年4月25日生まれの姉フェルナンド・マルセリーヌ・マリーがいた。 |
母アリーヌ |
1849 | 1歳 | 7月19日 | 洗礼を受ける。 | |
8月8日 | 2月革命後に大統領となったルイ・ナポレオン・ボナパルト(のちのナポレオン3世)による弾圧を危惧して、ゴーガン一家はル・アーヴルから富裕な母方の祖父の弟ドン・ピオ・デ・トリスタン・モスコソが権勢をふるうペルーのリマに亡命すべく〈アルベール号〉に乗船、故国を離れる。 | |||
10月30日 | この旅行で、最南端の地パタゴニアを通過中の船内で父クロヴィスは動脈腐のため急逝し、マジェラン海峡の小さな港で埋葬される。母アリーヌは、そのままマリー、ポールを連れて旅を続け、ペルーのリマに着く。 | |||
1854 | 6歳 | . | アリーヌはポールと1歳年長の長女マリーを抱え、リマの有力者だった大伯父のドン・ピオ・トリスタン・モスコソ家で温かく迎えられ、1854年までの間、恵まれた幼年期をすごす。 | |
1855 | 7歳 | 4月9日 | 父方の祖父ギョーム・ゴーガン死亡。遺産相続のため一家はフランスに帰国。 父の故郷オルレアンに行き、父の弟イジドール伯父のもとに身を寄せ、オルレアンのサン=マルソー城外のテュデール河岸25番地に住む。 ポールはイエズス会経営のサン=メマン教会堂付属神学校(プティ・セミナール)中等部の寄宿生として勉学する。 新しい環境になじめず凡庸で怒りっぽい性格だった。 彼は自分のなかに閉じこもり、教師たちや、他の者たちを、鋭くほとんど妥協しない感性をもって批判する。 |
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1856 | 8歳 | . | 大叔父ドン・ピオ・デ・トリスタン・モスコソ没。 | |
1859 | 9歳 | . | 母アリーヌは義父が遺産として残した家作、田畑などを売り払い、パリに出て、ショッセ=ダンタン街33番地に洋裁店を開業する。 彼女は実業家のギエスターヴ・アローザと出会い親しくなる。 |
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1862 | 14歳 | オルレアンの神学校をやめ、母の住むパリに出る。 | ||
. | 海軍兵学校の入学試験準備のため、アンフェール街49番地のロリオルが創立した私立学校に寄宿生として入学。ここでフェンシングをおぼえる。 | |||
1864 | 16歳 | . | オルレアンに戻り、公立中学校の最終学年に寄宿生として入る。 母は彼を海軍兵学校に入れようとしたが、学業成績が悪く、教師たちの推薦状をもらえなかった。 |
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1865 | 17歳 | . | 母アリーヌ健康を害し、洋裁店を閉じて、アヴニール村ロマンヴィール街道に移転し、子供達の後見人を友人の資産家ギュスターヴ・アローザに依頼する。 | |
12月7日 | 海軍兵学校の就学年齢を過ぎたため、ポールは月給20フランの見習水夫として650トンの商船〈ルツィターノ号〉に乗船、ル・アーヴルからリオ・デ・ジャネイロに最初の航海をする。乗船前にル・アーヴルで初の女性体験をする。 | |||
1866 | 18歳 | 3月未 | リオ・デ・ジャネイロからル・アーヴルにもどるが、すぐにまた4ヶ月の南米航海に出る。 | |
10月1日 | 母アリーヌは、友人アローザのいるパリの西にあるサン=クルーに移転し、オスビス街2番地に住む。 | |||
10月27日 | 見習い水夫から三等航海士に昇級したゴーガンは、10月29日〈チリ号〉に乗り、ひきつづき13ヶ月半の長期航海に出発、世界各地をめぐり、タヒチにも寄港したらしい。 | |||
1867 | 19歳 | 7月7日 | チリ号の三等航海補佐として世界周航中に母アリーヌ死去(42歳)し、インドに碇泊中、母の訃報に接する。 | |
12月14日 | 世界一周の航海の後、トウーロンで下船する。 | |||
. | 母が遺言状にギュスターヴ・アローザ(実業家で美術収集家)を子供たちの後見人と定める。 | |||
1868 | 20歳 | 1月22日 | 兵役として海軍を選択する。 | |
2月26日 | シェルブール分艦隊の三等水兵となり、巡洋艦〈ジュローム=ナポレオン号〉に乗船し、2ヶ月後に二等信号兵に昇格する。 | |||
6月〜7月 | 東地中海、黒海、エーゲ海、北極海方面を航海、普仏戦争に際しては北海で戦闘を経験する。 | |||
9月 | ロンドンに入港する。 | |||
1869 | 21歳 | 4−5月 | 『ジュローム=ナポレオン号』はコルシュカ島、コルフ島、トリエステ、ヴェネツィアなど地中海、エーゲ海をめぐる。 | |
1870 | 22歳 | 7月1日 | 二等水兵に昇級する。 | |
7月3日 | 『ジュローム=ナポレオン号』は北極圏にむけて出帆したが、普仏戦争勃発のため、航海半ばにして引き返し、バルト海偵察の任につく。 | |||
9月19日 | ナポレオン3世降服、第三共和制樹立にともない、船名は〈ドゼ号〉と変わり、ひきつづき北海、バルト海などの警備を遂行する。 | |||
1871 | 23歳 | 1月 | サン=クルーの母の家がプロイセン軍に焼き払われる。 | |
4月23日 | 海軍を退役により、ル・ドゼ号から下船しトウーロンに上陸したとき、家が灰燵に帰したことを知る。 | |||
. | 母の友人で後見人となった実業家・写真家・美術収集家のギュスターヴ・アローザを訪れ、その世話でパリのラフィット街の株式仲買商ポール・ベルタン商会に勤め始め、パリ株式取引所で仕事をする。同僚にアマチュア画家のエミール・シュフネッケルがいた。彼に勧められアローザの娘マルグリットらと共にアマチュア画家として絵を描きはじめる。 | |||
1872 | 24歳 | . | 仲買人の仕事に熟達する。 | |
. | アローザ父娘のすすめで絵を描きはじめ、やがて同僚で画家志望のエミール・シュフネッケルと繁く交際し、絵画に対する関心を高める。この頃、職場に近いラ・ブリュイエール街15番地のアパルトマンを借りる。 | |||
1873 | 25歳 | . | アローザ家を通じて、デンマーク人の女性メット・ソフィ・ガッドを知る。 | メット・ゴーガン |
11月22日 | 当時23歳のメットとポール・ゴーガン、パリ9区で入籍後、ドルーオ街のパリ9区の区役所およびショーシヤ街のルーテル派教会で結婚式を挙げる。 2人は新居をサン=ジョルジュ広場28番地のアパルトマンにかまえた。 |
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1874 | 26歳 | . | シュフネッケルの紹介でグランド=ショミエール街の私立の画塾アカデミー・コラロッシの夜間部に通う。二人は日曜日どとに絵を描いたり、ルーヴルに通ったりする。また、この頃アローザ家でピサロと知り合いになる。 | |
8月31日 | 長男エミール・ゴーガン誕生。 | |||
9月 | メットはエミールを連れてしばらくの間、郷里コペンハーゲンに戻る。 | |||
1875 | 27歳 | 冬 | 《イエナ橋からみたセーヌ川》のような初期の優品が生み出されはじめる。 | イエナ橋からみたセーヌ川 |
1876 | 28歳 | . | サロン(官展)に前年の夏に制作した油彩の風景画《ヴィロフレの森の下草》を初出品して入選する。 | |
. | 株売買の成功によりセザンヌ、マネ、ピサロ、ルノワールなど、印象派グループの作品を購入する。 | |||
年末頃 | 勤務先の店主ベルタンはガリションという人物に店を譲り引退し、経営が移って以来おり合いの悪くなってきていたベルタン商会をやめる。 | |||
1877 | 29歳 | 春 | セーヌ左岸のフルノー街74番地(現ファルギエール街74番地)のアパルトマンに転居する。 | 長女アリーヌ |
. | 家主の彫刻家ブイヨに就き彫刻を習いはじめる。「メット像」を半占土で作り、ブイヨはゴーガンに手伝わせをがら、それを大理石に刻んだ。彫刻においても進歩はめざましく、その後ゴーガンは独りで大理石の「長男エミール胸像」を彫る。 | |||
. | ピサロを知り、以後いろいろと助言をうける。 | |||
12月24日 | 女児誕生、母の名をとってアリーヌと名付ける。 | |||
1878 | 30歳 | 2月25日 | ゴーガンにとって、私設美術館の役割をはたしていた、ギュスターヴ・アローザの絵画コレクションがドルーオ館で競売に付された。17点のドラクロワをはじめ、クールベ、ドーミエ、コロー、ヨンキント、ピサロをどの作品が含まれており、ゴーガンの芸術を育む肥★な土壌であった。 | 縁なし帽を被った男 (自画像) |
1879 | 31歳 | . | 銀行家アンドレ・プールドンのもとに就職する。 | |
4月10日〜 5月11日 |
第4回印象派展(オペラ座大通り28番地)が開催され、ゴーガンはピサロ、ドガに請われて息子エミールの胸像(大理石)をもって参加する。しかし目録に名前は載っていない。同時にゴーガン所蔵のピサロの油絵5点をも貸し出す。 | |||
. | カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル=アテーヌを頻繁に訪れ、印象主義のマネやドガ、ルノワール、ピサロらとの交友を深める。彼らの作品収集がめざましい。 | |||
5月10日 | 次男誕生、父親にちなみクロヴィスと名付ける。 | |||
7月 | ポントワーズのピサロを初めて訪れ、夏の休暇をポントワーズやオスニーで共に制作に励む。 | 花盛りのりんごの木 |
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1880 | 32歳 | 4月1日 〜30日 |
第5回印象派展(ピラミッド街10番地)が開催され、ゴーガンは油彩7点と大理石彫刻1点を出品する。 | |
7月 | ゴーガンと妻は頻繁に夫婦喧嘩をしていたが、メットは長男エミールを連れてコペンハーゲンに帰ってしまう。ゴーガンは離婚も考えたが、結局7月に妻と子は「許されて」パリに帰ってくる。 | |||
. | 画家ジョベ=デュヴァルからヴォージラール地区カルセル街8番地のアトリエと庭つきの2戸建てを借り転居する。 | 縫い物をするシュザンヌ |
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夏 | リシュリュー街93番地のトムロー保険金融代理店に就職する。 | |||
アルマン・ギョーマンと親交を結び、親交は1880年代ずっと続く。 | ||||
1881 | 33歳 | . | ゴーガンの《村の教会》など3点の作品を画商デュラン=リュエルが、1500フランで初めて購入する。 ゴーガン自身は逆に同画廊から、マネ、ルノワール、ヨンキントなどの作品を購入する。 |
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4月2日 〜5月1日 |
第6回印象派展(カピュシーヌ大通り35番地)が開催され、ゴーガンは油彩8点、木彫1点、円形浮彫(メダイヨン)1点を出品する。《裸婦習作(裁縫するシュザンヌ)》が批評家ユイスマンスに『現代美術』誌上で激賞される。 | |||
4月12日 | 三男ジャン=ルネ誕生。 | カルセル街の庭で憩う 画家の家族 |
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夏 | 休暇を再びピサロとともにポントワーズで過ごし、ピサロを通じてセザンヌを知る。 | |||
1882 | 34歳 | 1月 | 株式相場が大暴落し、フランス全土が経済恐慌に見舞われる。 | |
3月1日 〜4月2日 |
第7回印象派展(サン=トノレ街251番地)が開催され、ゴーガンは油彩とパステル画12点と木彫(愛児クロヴィスの胸像)1点を出品する。 ゴーガンの出品を認めるか否か、ピサロ、ドガ、ルノワール、モネの間でもめる。彼の作品は、今度は、ユイスマンスによって酷評される。 |
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1883 | 35歳 | . | 1880年以来勤めたトムローの店を解雇され職を失い、株式仲買人の仕事に終止符を打ち、絵に専念することを決意するかたわら、画商として生計を立てる道を模索する。 | |
6月15日 〜7月5日 |
ピサロ一家がポントワーズからオスニーに引越し、そこでゴーガンは過ごす。 | クロヴィスとアリーヌ |
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8月 | ピレネー山脈の近くに住むスペインの共和派の人々と接触する。 | |||
12月6日 | 4男ポール=ロラン(愛称ポーラ)誕生。 | |||
1884 | 36歳 | 1月 | カルセル街の屋敷を引き払い、妻と五人の子供たちとともにピサロのいたルーアンに居を移す。 | |
4月 | 南仏を旅行し、モンペリエのファーブル美術館を訪れ、ドラクロワの《混血娘アリーヌ》をスケッチする。 | コペンハーゲンでの ゴーガン家族 |
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再度スペインの共和派の人々と接触。 | ||||
8月 | 妻メットは長女アリーヌと4男ポーラを連れてコペンハーゲンの実家にもどる。 | |||
12月 | ゴーガンも防水布・日除布の製造業者ディリィ商会(フランス)のデンマークにおける代理販売人の職を得て、残った子供たちを連れ、妻の故郷に赴くがうまくいかない。 | |||
1885 | 37歳 | 2月 | 一家はコペンハーゲンのガンメル・コンゲヴェイ区に、家賃は半年で400クーロンの7部屋台所付きのアパルトマンを借りて住む。 | 画架の前の自画像 |
4月末 | ノレガデ51番地に引越す。 | |||
5日1日〜6日 | デンマークの芸術友好協会の展覧会に招待出品するが、何の反響もよばず失敗に終わる。 | |||
6月 | コペンハーゲンで妻とその家族との不和のため孤立し、次男クロヴィス1人を連れてパリに戻るが極貧の生活が続く。 | |||
9月 | クロヴィスを姉マリーにあずけ、ロンドンに3週間ほど旅行する。帰路北仏のディエップに滞在しドガ会う。 | |||
. | パリに帰って、プーラール街29番地のシュフネッケルの家に身を寄せたのち、カイル街10番地に部屋を借りる。防水布販売の仕事もうまくいかず、手持ちのルノワールやピサロのコレクションを売りながら、寒い冬をクロヴィスと共に過ごす。 | 休んでいる牝牛 |
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1886 | 38歳 | 4月 | 生活はますます困窮におちいり、クロヴィスも病気がち、糊口をしのぐため、1日5フランでビラ貼りの仕事までする。 | |
5月15日 〜6月15日 |
最後の第8回印象派展(ラフィツト街1番地)が開催され、ゴーガンは19点、木彫レリーフ1点を出品する。 | |||
6月 | 版画家ブラックモンの紹介で陶芸家エルネスト・シャプレを知る。 シニヤックから一時アトリエを借りるが、事情を知らないスーラに出会い大喧嘩となる。 |
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7月 | クロヴィスをパリ郊外の寄宿学校へ入れてから、画家フェリックス・ジョベ=デュバルの勧めで初めてブルターニュのボン=タヴェンを訪れ、グロアネック夫人の旅館に滞在する。 | 水浴の女たち |
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8月15日 | 若い画家シャルル・ラヴァルやエミール・ベルナールに出会う。 | |||
11月 | パリに戻り、ルクルブ街257番地に滞在。フェリックス・ブラックモンの仲介で陶芸器エルネスト・シャプレに師事し、ブロメ街のアトリエで陶磁器の壷を制作する。 | |||
11月末 | 風邪をこじらせ27日間入院する。 | |||
1887 | 39歳 | 1月18日 | ギョーマンの結婚式で、ゴーガン、ドガ、ザンドメネギが立会人となる。 | ラヴァルの横顔の ある静物 |
4月初旬 | クロヴィスをあずけるため妻メットをパリに呼びよせるが、妻メットは、クロヴィスをパリから連れ去り、同時に、ゴーガンが収集した印象派の画家たちのコレクションをも持ち去ってしまう。 | |||
4月9日 | 友人の画家シャルル・ラヴァルと共にパリをはなれ、翌日サン=ナゼールより姉マリーの住むパナマに向かって旅立つ。義兄ジュアン・ユリブの営む商社で働くがうまくいかず、ゴーガンはタボガ島に移り、コロンで運河掘りの人足仕事をする。 | |||
6月 | 2人はマルティニック島に移り制作に励みすぐれた作品を残したが、この中南米滞在中、2人はしばしば熱病に倒れた。この同じ頃、作家のラフカディオ・ハーン、アメリカから来島し、数ヶ月滞在する。 | |||
11月 | 赤痢を患ったラヴァルを残し、ゴーガン一人、無一文で水夫となって疲れ果ててパリに逃げ帰る。パリではエミール・シェフネッケルのもとに寄宿する。 | ベルナールと妹マドレーヌ |
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フィンセントとテオのファン・ゴッホ兄弟と再開し、マルチニックでの作品を賞賛されフアン・ゴッホと作品交換をする。 | ||||
12月 | 生涯の友人となるジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレーを知る。 | |||
1888 | 40歳 | 2月 | ポン=タヴェンに再訪し、旅館グロアネックに投宿する。 | |
8月 | グロアネック旅館にゴーガンのまわりに若い芸術家たちが集まりはじめ、エミール・ベルナールやセリュジェと再会、共に制作する。 | 説教のあとの幻影 |
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. | ゴーガンはベルナールのもたらした新絵画理論「クロワゾニスム」に触れ、一気に自己の芸術を開花させ、「説教のあとの幻影」(ヤコブと天使の格闘)などの、綜合主義を確立する記念碑的作品を生んだ。この作品をゴーガンはニゾンの教会に寄贈しようとしたが、断られる。印象派から明らかに離脱をする。 | |||
. | 仲間たちの女神的存在になっていたベルナールの妹マドレーヌに、ゴーガンは恋情を寄せる。 | |||
10月23日 | ゴッホから何度も誘いをうけていたゴーガンは、ようやく重い腰をあげ、共同で制作するためアルルに赴き、ラマルティーヌ広場のアトリエ「黄色い家(メゾン・ジョーヌ)」に住むゴッホに会う。ほぼ2ヶ月間にわたる共同生活と制作を始める。 | ヒマワリを描くヴァン・ゴッホ |
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11月 | 画商テオ・ファン・ゴッホにより、モンマルトル大通りのブッソ・ヴァラドン画廊で最初の個展を開く。またテオはゴーガンの作品3点を900フランで購入する。 | |||
12月17 〜18日 |
モンペリエのファーブル美術館をファン・ゴッホと共に訪れる。 | |||
12月23日 | ゴッホとの間にいさかいがおこり、その夜ゴッホは「耳切り事件」をおこす。 | |||
12月26日 | ゴーガンはパリに戻り、シュフネッケルの家に滞在する。 | |||
1889 | 41歳 | 1月 | パリのモンスーリ通り25番地にアトリエを借り、リトグラフ(亜鉛版)連作を制作する。テオの店でヤコプ・メイエル・デ・ハーン(185Z−95年〉に会う。メイエル・デ・ハーンを知る。 | 40歳頃のゴーガン |
2月 | ブリュッセルの前衛芸術家団体「20人展(レ・ヴァン)」に招かれ絵画を12点出品する。 | |||
3度目のボン=タヴェンの旅館グロアネックに滞在する。 | ||||
6〜9月 | パリ万国博覧会期間中、ヴォルピニ氏のシャン・ド・マルスにある「カフェ・ヴォルピニ」を会場にした「印象主義者・総合主義者グループ展」にトゥールーズ=ロートレック、シュフネッケル、アンクタン、エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァルなどと共に作品17点を出品する。一般には嘲笑の的となり、1点も売れなかったが、ナビ派の若い画家たちには影響をあたえる。批評家アルベール・オーリエ、生涯の友となるダニエル・ド・モンフレーなどを知る。ジャヴァの美術に関心をもつ。 | 黄色のキリスト |
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6月 | セリュジェらと共にボン=タヴェン付近のレ・ザヴァンの農家「フュミック」にアトリエを一部屋借り、ブルターニュの沿岸のボン=タヴェンとル・プルデュの間に滞在し、トレマロの礼拝堂のキリスト像をモデルに《黄色いキリスト》を描く。 | |||
10月〜12月 | セリュジェ、メイエル・デ・ハーンとともにル・プルデュに滞在する。マリー・アンリの宿屋「ビュヴエツト・ド・ラ・プラージュ」投宿し、共に食堂を装飾する。海岸近くのモデュイ家の別荘の屋根裏部屋「ヴィラ・モーディ(呪われた家)」をアトリエとして借りる。アンドレ・ジッドがゴーガンたちと同じ旅館に宿泊する。 | 今日はゴーガンさん |
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. | 批評家アルベール・オーリエが創刊した『モデルニスト』誌7月4日、11日号、9月21日号にゴーガンは論評をのせる。 | |||
10月31日〜11月11日 | コペンハーゲンの展覧会に、妻メットの手元にあったゴーガンの旧作および彼の印象派コレクションが展示される。 | |||
1890 | 42歳 | 2月 | パリに戻り、アルフレッド=デュラン=クレイ街12番地のシュフネッケルのもとに寄宿する。 | 母アリーヌの肖像 |
ブッソ・エ・ヴァラドン画廊におけるピサロ展に彫刻1点と陶器数点を出品。 マダガスカル渡航を計画、次いでタヒチ行きを考えはじめる。 |
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6月末 | ル・プルデュに戻る。この年を通じて、ボン=タヴェン、ル・プールデュとパリを往還する。 | |||
7月29日 | オーヴエール=シュル=オワーズでファン・ゴッホの死。秋頃よりお針子のジュリエット・ユエが、ゴーガンのモデルとなり愛人となる。 | |||
11月7日 | ル・プルデュを発ちパリに戻るが、シュフネッケルといさかいをおこし、交友を始めたダニエル・ド・モンフレー宅に移る。 | |||
11月 | 象徴派の画家たちは、彼を新しい絵の巨匠として称え、パリのカフェ・ヴォルテールでしばしば会合を開く。カフェ・ヴォルテールや画家・詩人などの巣「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」で、アルベール・オーリエ、シヤルル・モリス、ステファヌ・マラルメ等の象徴主義の文学者たちとサークルで盛んに交流する。 | ブルターニュの積み藁 |
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1891 | 43歳 | 1月 | ドランブル街のホテルやグランド=ショミュール街10番地に部屋を借り、またモンフレーのアトリエを使わせてもらったりする。また、ピガール街28番地のボナール、ドニ、ヴュイヤールのアトリエを足しげく訪れる。 | |
詩人ステファヌ・マラルメの肖像をエッチンクで制作する。 | ||||
2月 | オクターヴ・ミルボーの記事「ポール・ゴーガン」、『エコー・ド・パリ』紙に掲載する。 ブリュッセルの「デ・ヴアン」展に木彫レリーフ《神秘的であれ》と陶器を出品する。 マネの《オランピア》の模写をリュクサンブール美術館で行う。 |
オランビア(模写) |
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2月23日 | タヒチ渡航の旅費を捻出のため、オテル・ドゥルオ館の競売所で《説教のあとの幻影》、《美しきアンジエール》などを含む油絵31点の競売し、落札金額として9635フランを得て成功する。1点はゴーガン自身が買い戻した。時を同じくして、ゴーガンに関するオクターヴ・ミルポー、オーリエ等の好意的を論評が発表される。売り立てに加えられることを望んでいたエミール・ベルナールと不和となる。 | |||
3月7日 | コペンハーゲンに出向き、家族と対面する。 | |||
3月23日 | パリのカフェ・ヴォルテールにてマラルメ主宰のゴーガンのタヒチ行きを祝う壮行会がカフェ・ヴォルテールで開かれる。 | ゴーガンと エミールとアリーヌ |
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3月31日 | パリを発ち、4月1日、クレマンソーなどの尽力で教育・美術省の「特使」の肩書を得たゴーガンは、マルセイユでフランス郵船の「ロセアニアン」号に乗船し、スエズ、アデン、シドニーなどを経由してヌメア(ニュー・カレドニア)に向かった。ヌメアに9日滞在後軍艦「ラ・ヴィール」号に乗り換え、6月9日にパペーテに到着する。 | |||
5月5日〜 | パリでは国立美術協会展が開催され、ゴーガンの彫刻、陶器の作品4点も展示される。 | マンゴーを持つ女 |
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6月16日 | タヒチ最後の王ポマレ5世の盛大な葬儀に遭遇し参列する。 | |||
8月13日 | フランスでジュリエット・ユエがゴーガンの娘を生んだ。 | |||
9月 | 文明化の進んだ主都パペーテを嫌い、南方45km離れた村マタイエアに小屋を借り、チチという女をパペーテから連れてきたが、相性悪く、すぐに追い返す。13歳のタヒチの少女テハアマナ(テフラ)を現地妻=モデルとして迎える。翌年にかけて彼女は《ヴァヒネ・ノ・テ・ヴィ(マンゴーをもつ女)》、《テ・ナヴェナヴェファヌア(かぐわしき大地)》、《マナオ・トウパパウ(死霊が見ている)》などゴーガンの多くの作品のためのモデルとなる。 | |||
12月 | ほとんど金を使いはたす。 | |||
. | この年、《イア・オラナ・マリア》、《夢》、《たこの木の下で》などを描く。 | ファタタ・テ・ミティ(海辺で) |
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1892 | 44歳 | 1月 | テオのあとを継いでブッソ・ヴァラドン画廊の支配人となったモーリス・ジョワイヤン、ゴーガンの作品を預かることを決める。 | |
2〜3月 | 大量の血を吐き、パペーテの病院に収容される。 | |||
3月 | 1歳8ヶ月で死んだ友人の息子アティティを描くが、母親に受け取りを拒否される。 | |||
パリのデーピル画廊で最初のタヒチ作品展を開催する。 | ||||
6月 | ゴーガンはフランスに戻る手段を考え始める。夏、メット、パリに出てシュフネッケルらとデンマークでコーガンの作品の展覧会を開く算段をする。 《アレアレア(楽しみ)》、《タヒチ牧歌》など多くの作品を制作する。弁護士オーギュスト・グーピルから借りて愛読したポリネシアの民間伝承のムーレンハウト著『大洋洲紀行記』をもとに『マオリの古代信仰』を執筆する。 |
アレアレア(笑い話) |
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タヒチをめぐった際にテハーマナ(テウラ)を知り同棲し、彼女との間に子供ができるが流産する。 | ||||
6月12日 | パリの美術省に本国送還の申請書を出す。 | |||
9月 | タヒチにおける最初の作品《ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ》がプッソ・エ・ヴァラドン画廊で展示される。『アリーヌのための手帖』を書き始める。 | |||
10月 | 秋までにカンヴァスをほぼ使い果たしてしまい、以後は木彫り彫刻を制作する。 | どこへ行くの |
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11月 | ゴーガン、テハアマナと一緒にパペーテに戻る。アルベール・オーリエ「絵画における象徴主義−ポール・ゴーガン」を発表する。 | |||
12月 | 本国帰還が受諾される。 | |||
1893 | 45歳 | 3月26日 | コペンハーゲンの「近代芸術自由展」で、ファン・ゴッホの作品と共にゴーガンの作品50点余りが展示される。 | |
5月 | 内務省から「三等船室使用による」帰国許可証を受け取る。 | |||
6月 | 相当数のゴーガンの作品がパリのバルク・ド・プットヴィル画廊で展示される。帰国の機会を待ちながら『アリーヌのための手帳』を執筆する。 | |||
6月4日 | 絵画66点と彫刻数点を携えて、パペーテを離れ帰国の途に着く。21日ヌメアに着き25日間滞在する。 | 帽子をかぶった自画像 |
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7月18日 | 『「ラルマン・ヴェイック号』に乗り、マルセイユへ出航し、8月30日にマルセイユへ到着する。 | |||
9月 | ジャヴァ女アンナとともにヴュルサンジェトリックス街に住む。 | |||
グランド・ショーミエール街8番地の簡易食堂「シェー・シャルロット」に部屋を借り、同じ建物にいたアルフォンス・ミュシャのアトリエを使わせてもらう。 | ||||
オルレアンの叔父イジドールの死で翌年相当額の遺産が入ることになる。 | ||||
11月 | タヒチ滞在時の作品《イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)》を国立リュクサンブール美術館(近代美術館)に寄贈しようとするが拒否される。 | |||
11月10 〜25日 |
デュラン=リュエル画廊でタヒチ作品41点と3点のブルターニュ時代の油彩と彫刻2点を出品した個展を開く。カタログ序文をシャルル・モリスが書くが、結果は振るわずドガの購入分2点を含む11点のみ売却する。しかし、オクターヴ・ミルボー、タデ・ナタンソンらの好意的な批評を受ける。 | ジャワの女アンナ |
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12月 | シャルル・モリスと『町ノア・ノア』出版を計画し、シャルル・モリスの協力をえて、執筆にかかりきりになる。 | |||
ジャワ女アンナと同棲したヴュルサンジュトリクス街6番地の部屋に、毎木曜若い芸術家たちが集まるようにをる。ストリンドベルリを知る。 アンプロワーズ・ウォラールがラフィット街6番地に画廊を開設、ゴーガンの作品も手掛ける。 |
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1894 | 46歳 | 2月 | ジジ伯父の遺産、13000フランを相続する。 | ブルターニュの農婦たち |
2月16日 〜22日 |
ブリュッセルへ絵画5点を出品したの「自由美学展(リーブル・エステティーク)」展参加のついでに、ブリュージュ、アントワープなどベルギーへ小旅行する。 コペンハーゲンによって妻子と会い、これが最後の面会となった。 |
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4月 | アンナとペットの猿タオアを伴い、ル・プールデュに行き、ポン=タヴェンに落ち着く。 | |||
5月25日 | 港町コンカルノーで漁師たちと喧嘩、踝をくだかれボン=タヴァンで長期間入院する。その間『ノア・ノア』挿絵用のモノタイプを制作する。 | |||
9月 | アンナだけがパリに戻り、アトリエから金目の物を盗み、行方をくらます。 | 雪の下のパリ |
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11月 | パリに戻りアトリエで自作の小展示。シヤルル・モリスがゴーガンのために、カフェ・デ・ヴァリエテにて晩餐会を催す。ゴーガンはフランスの生活に見切りをつけ再びタヒチに渡る決意をかためる。 | |||
12月2日 〜9日 |
アトリエで小展覧会を開く。 | |||
1895 | 47歳 | 2月5日 | スウェーデンの劇作家ストリンドベリとの交友し、作品売り立てのカタログ序文を依頼するが拒絶の返事を受けとる。 | |
2月18日 | 旅費調達のためオテル・ドゥルーオで自作の展覧会と油彩47点の競売を行う。。油絵8点(2455フラン)、デッサン9点〈531.50フラン〉しか売れず失敗に終わる。うち2点はドガが購入。ゴーガンはタヒチ行きを延期せざるを得なくなる。 | ドラクロワの版画の ある静物 |
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. | ズーリーという娼婦から梅毒をうつされる。 | |||
4月25日 | 国民美術協会のサロンに彫像《オヴィリ(野生)》を出品しようとするが拒否され、シャプレの尽力でようやく受理される。『エコー・ド・パリ』誌(5月13日号)にインタヴュー記事が載る。 | |||
6月28日 | 再びリヨン駅から出発する。 | |||
7月3日 | マルセイユで汽船「ローストラリアン」号に乗船。オークランドで下船し、博物館でマオリ族のコレクションを見る。 | |||
8月29日 | 「リッチモンド」号に乗換、パペーテに9月9日到着し、パペーテの変化に驚き、マルキーズ諸島行きの夢を募らせる。 | 自画像 (ゴルゴタの丘の近くで) |
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9月26日 | タヒチの新植民長官ピエール・パピノーに誘われ、ファヒネ島、ボラボラ島など、フランスが併合をねらう離島(イル・スウ・ル・ヴァン)の治安回復のための派遣団に同行し10月6日にもどる。 | |||
11月 | パペーテから12kmほどはなれたプナアウィアに土地を借り、現地風の小屋を建てて定住。すでに再婚していたテハアマナを呼び寄せるが、梅毒と知ったためか、1週間ほどで夫のもとに戻ってしまう。 | |||
1896 | 48歳 | . | 近くに住んでいたパウラという14歳の少女と同棲する。 | |
4月 | 足首の傷に苦しみ、モルヒネを打ちながら意気消沈の毎日が続く。 | |||
7月6〜14日 | 湿疹にかかりパペーテの病院に入院するも入院費を払わずに退院する。 | ナヴェ・ナヴェ・マハナ (かぐわしき日々) |
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8月 | 弁護士の娘《ヴァイテ・クーピル》の肖像を描き、グーピルの娘たちの絵画の家庭教師となる。 | |||
10月 | 孤独と病気と絶望とが次第に耐えがたくなり限度に達する。 | |||
11月 | 病状も小康状態となり仕事を再開し、《ナヴェ・ナヴェ・マハナ》、自画像《ゴルゴタのそばにて》を描く。 | |||
パリのヴォラールの画廊で個展が開かれる。 | ||||
12月 | パウラは女児を出産するが、生後まもなく数週間で死亡。 | |||
12月27日 | 画商ショーデより1200フランが届く。 | 自画像 |
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1897 | 49歳 | 1月18日 | 最愛の長女アリーヌ・ゴーガン、肺炎のためコペンハーゲンで死去(20歳)。 | |
2月 | ブリュッセルの「自由美学展」に絵画6点を出品する。 | |||
4月 | 土地の所有者が死んだため、ゴーガンは農業金庫から金を借り、今までの住居から500mほどはなれたところに土地を買い新居をたて引越す。 | |||
アリーヌの訃報が届き、悲嘆にくれるとともに、梅毒、足の痛み、眼の炎症に借金の重みが加わり、次第に死を思うようになる。 油絵の大作《我々はどこからきたか、我々は何者か、我々は何処に行くか》を制作し始める。 |
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5月 | フナアウイアに土地を購入、木造の大きな家とアトリエを建てる。 | |||
7〜8月 | 『カトリック教会と近代』を書き始める。この頃妻に短い手紙を書き送り、以後通信が途絶える。 | 我々はどこからきたか、 我々は何者か、 我々は何処に行くか |
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11月 | シャルル・モリスにより、『ラ・ルヴユ・プランシュ』誌に『ノア・ノア』の第1章がパリで発表され、12月はじめに同誌が手元に到着する。 | |||
12月 | 心臓病悪化のため病院入り、自殺を決意し、遺書的作品《我々はどこからきたか、我々は何者か、我々は何処に行くか》を描く。 | |||
12月30日 | 砒素を服用して自殺を試みるが、未遂に終る。 | |||
1898 | 50歳 | 1月 | 自筆版『ノアノア』の『デイヴェルス・ショーズ』脱稿。フランスから送金はあったが、農業金庫の借金は払いきれず。 | 白い馬 |
2月 | 若い友人で詩人のジュリアン・ルクレール、スウエーデンでコーガンの作品の展示を企画。第1次タヒチ時代の作品《マナオ・トウパパウ》は猥褻だとして不許可になる。第2次タヒチ時代の作品《テ・アリイ・ヴァヒネ》が展示された。 | |||
4月 | 借金が嵩み、パペーテの公共土木事業局と地籍簿局で製図工として働く。勤務先に近いパオファイに移る。 | |||
7月 | 《我々はどこからきたか、我々は何者か、我々は何処に行くか》をフランスに送る。 | |||
8月 | パフラがゴーガンのもとを去る。 《白い馬》の注文を受けるが、完成した絵を見て注文者は受取を拒否する。 |
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9月 | 足の痛みが酷くなり入院する。 | |||
11月17日〜12月10日 | パリの画商アンプロワーズ・ヴォラールの画廊にて《我々はどこからきたか、我々は何者か、我々は何処に行くか》など9点の絵画を展示する。ヴォラールは全作品を僅か1000フランで買い取るが、これは後にゴーガンを激怒させる。 | 赤い花と乳房 |
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12月12日 | モンフレー宛の手紙で「生きていくための理由を全て失った」と告白する。 | |||
1899 | 51歳 | 1月12日 | モンフレーより《ネヴァーモア》売却代金500フラン他計1000フランを受け取る。 | |
1月末 | パペーテの事業局の仕事をやめ、パウラとともにプナアウイアに戻る。《赤い花と乳房》を描く。 | |||
4月19日 | 一時いざこざがあって別れていたパウラと再び共に暮らし、パフラ男の子を産み、ゴーガンは3男と同じエミールと名付ける。 | |||
6月12日 | パペーテの風刺新聞『レ・ゲープ(雀蜂)』にエッセイを寄稿する。 | |||
8月8日以降 | 自ら執筆、編集、印刷する風刺月刊誌『ル・スリール(微笑)』を刊行し、植民地政策を批判してプロテスタント宣教師や植民地統治官たちを攻撃し、原住民の擁護にあたる。 | 海辺のタヒチの女と 馬上の女 |
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1900 | 52歳 | 1月 | 版画475点、素描10点、絵画10点をパリへ送付する。ルーマニア貴族ビベスコがゴーガンの作品10点を購入する。 | |
2月 | 『レ・ゲープ(雀蜂)』の編集長となる。 | |||
3月 | 毎月300フランの送金と引換えに、絵を1点200フランで売る契約をアンプロワーズ・ヴォラールと結ぶ。 | |||
4月 | 『ル・スリール(微笑)』紙の終刊号を出す。 | |||
5月16日 | コペンハーゲンでで次男3男クロヴィス死去(21歳)するが、ゴーガンには知らされなかったものとみられる。 | 二人の子供とタヒチの女 |
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6〜7月 | ヴォラールよりカンヴァスと絵の具が届く。 | |||
12月18日 | 収集家ファイエから送金を受け取る。 | |||
12月 | 足の湿疹治療のため病院に入院する。この年は、春から秋にかけて病気のためほとんど仕事ができない。 | |||
1901 | 53歳 | 2〜3月 | パペーテの病院に三度入院。「生活が簡素で費用のかからない」マルキーズ諸島へ移住を考える。 | |
5月1日 | シャルル・モーリスが『ラ・プリユム』紙に『ノア・ノア』の第1章を掲載する。 | |||
8月7日 | マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島移住のため、プナアウイアに所有の土地、家屋を4500フランで売却する。 | 黄金色の女たちの肉体 |
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9月10日 | 汽船「南十字星」号でパペーテを離れ、マルキーズ諸島のヒヴァ=オア島(ラ・ドミニカ島)に向かう。 | |||
9月16日 | ヒヴァ=オア島のアトウォナに上陸する。安南系人ヌエン・ヴァン・カム(キードン)と友情を結ぶ。 | |||
9月 | マルタン司教から土地を650フランで譲り受け、アトウアナに「歓楽の家(メゾン・ド・ジュイール)」を建て、自分で装飾を施す。 | |||
10月 | ファン・ゴッホの『手紙』が『メルキュール・ド・フランス』誌に掲載されはじめる。 | 扇子を持つ娘 |
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10月31日 | ジュリアン・ルクレール、貧困のうちに死去する。 | |||
11月18日 | 現地人の料理人、召使、犬、猫などと共に新居に移り住み、力トリックの寄宿舎にいた14歳の少女マリー=ローズ・ヴァエオホを愛人にする。 | |||
1902 | 54歳 | 4月 | 一時平穏な暮らしが続くものの、税金支払いを拒否し、現地人たちの抵抗をも誘発したために、島の官憲やカトリック教会と対立が次第に激化する。 | |
4月初頭 | 油彩画20点をヴォラールに送る。植民地統治当局との不和が深まる。1898年頃に書きあげた『カトリック教会と現代』をもとに『現代精神とカトリシスム』を執筆。 | |||
6〜7月 | 腸の潰瘍悪化、湿疹が悪化、心臓も衰弱するなど、その治療にパリに帰ることを考えたが、モンフレーに反対され思いとどまる。病状は悪化し、絵の制作や歩行困難となり馬を購入する。プロテスタントの牧師ヴュルニュと親交、治療をうける。 | |||
9月 | 『ヘボ絵描きの無駄話』題するエッセイを執筆脱稿、批評家アンドレ・フォンテナスに送り『メルキュール・ド・フランス』誌掲載を依頼するが、同誌からは拒否される。 | 二人の女(母と子) |
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9月14日 | マリー=ローズ・ヴァエオホが実家に戻り、娘タヒアチカオマタを出産する。 | |||
1903 | 55歳 | 1月 | サイクロン(台風)が襲い、隣人ティオカの家は倒壊、ゴーガンは援助する。 『アヴァン・エ・アプレ(前後録)』執筆脱稿。画商ヴォラールに近作10点を送るが、何の返事もこない。 |
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2月 | 飲酒で起訴された現地人たちの支援のため、法廷に出頭する。 | |||
3月27日 | 原住民に対する官憲の仕打ちに抗議し、憲兵への名誉毀損を訴えられ裁判官オルヴィルの前に出頭する。 | |||
3月31日 | 3ヶ月の禁錮と罰金500フランの判決をうけ、告訴のためタヒチ行きを計画する。 | 最後の自画像 |
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4月2日 | パペーテで上告するが、結局月末に1か月の禁錮刑の判決を受ける。 | |||
5月8日 | 午前11時、ゴーガンの容体悪化、多量のモルヒネを服用した後、おそらく心臓発作により死去する。享年55歳。 | |||
. | 5月9日 | ヒヴァ=オア島のカトリック教会墓地に埋葬される。 | ||
9月2〜3日 | ゴーガンの所有していた作品他の品々の競売がパペーテで行われる。 | |||
10月31日〜12月6日 | サロン・ドートンヌでゴーガンを記念した1室が設けられ、《黄色いキリストのある自画像》他、計8点の油彩が飾られた。 | |||
11月4〜28日 | パリのヴォラール画廊で50点の油彩と27点の素描によるゴーガン回顧展が開催された。 |