1847[パ  リ]  1903[ヒヴァ=オア島]

フランスのポスト印象派を代表する画家、彫刻家。ゴーガンは余暇に絵画と彫刻を始め、印象派の画家との交流を通じて、ピサロと友人になり、印象派の展覧会に参加した。

 「ゴッホの耳切り事件」に結末をみるアルルでのゴッホとの共同生活をはさみ、ゴーガンは印象主義を捨て、反自然主義的な象徴主義に傾倒し、総合主義を確立し芸術的に大きく飛躍した。《説教のあとの幻影》は、総合主義誕生の記念碑的な作品である。総合主義の主な役割は、ブルターニュの土俗芸術の復興、浮世絵版画の研究、色彩の象徴的価値の追求であった。《黄色いキリスト》など一連の象徴主義的な傑作に見られるゴーガンの生み出した斬新なスタイルは、その後の象徴主義の発展に決定的な影響を与えた。

 1890年からはル・プールテュで、《カフェのジヌー夫人》《美わしのアンジェール》など地元の人びとを極めて神秘的な人物のシリーズとして描いた。いわゆる「ポン・タヴェン派」はゴーガンを中心にブルターニュで結成され、メンバーにはベルナール、セガン、セリュジェ等がいた。

 純粋無垢で腐敗していない文化を求めて、1891年、タヒチに旅立つ。タヒチの美しい自然と人びとに魅了されたゴーガンは、《海辺の女》などポリネシア人の日常の姿を描き、彼らから受けた感動を『ノア・ノア』など多くの文章に残した。
 1893年、ゴーガンはパリに帰国したが、西欧文明への反発心が強くなり危機的状況に陥る。

 1895年、タヒチに戻ったゴーガンは孤独感と借金を抱え、憂鬱な気分に打ちひしがれながら、《我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか》など、人間の運命をテーマに寓意画の大作を描く。タヒチの女性像《白い馬》《2人のタヒチの女》などはゴーガンが終生好んで描いた主題の一つであった。

ゴーガンのタイトル・カラーは、画面を彩る真紅をイメージしました。】