年齢 月日 主な出来事 画像
1853 0歳 3月30日 ベルギー国境に近いブラパント地方のフロート・ズンデルトに生まれる。牧師の父テオドルス・ファン・ゴッホと、母アンナ・コルネリア・ファン・ゴッホ(旧姓カルベントゥス)との間には長子フィンセント・ウィレムがいたが死産であった。従って、画家フィンセント・ウィレムは、実質上の長男である。弟のテオドルス(通称テオ)は生涯にわたって、兄フィンセントに精神的、物質的支援を与えることになる。家族としてはその他に、姉アンナ・コルネリア、妹エリザペト・フベルタ、妹ウイルヘルミーネ・ヤコバ、弟コルネリス・フィンセントがいる。
父テオドルス・ファン・ゴッホ
1864 11歳 10月1日 フロート・ズンデルトの小学校を出たのち、北ブラバントのゼーフェンベルへンの寄宿学校に入り、ここでフランス語、英語、ドイツ語を学んだ。
1866 13歳 9月15日 テイルプルフのウィレム二世国立中等学校に進学する。
1868 15歳 3月19日 成績上の理由あるいは家庭の経済上の理由から、同校を中退し、フロート・ズンデルトへ戻った。
1869 16歳 7月30日 美術商グーピル商会のハーグ支店に就職する。グービル商会は、パリに本店を、ハーグ、ブリッユセル、ロンドンに支店を置く大美術商であった。
ゴッホがそのハーグ支店に就職したのは、以前グービル商会のオランダにおける代理入を務めていたセント伯父の紹介によるものであった。
ゴッホはセント伯父の後継者であるH.G.テルステーフの下で、主に複製画の販売にあたった。余暇は美術館通いと読書に費した。親戚の中では父の叔父コルネリス・マリヌス・ファン・ゴッホも画商であった。

母アンナ・コルネリア・
ファン・ゴッホ
1871 18歳 1月29日 父テオドルスは、ヘルフォイルトの牧師に任命される。
1872 19歳 ヘルフォイルトの両親のもとで休暇を過ごす。
8月 オイステルウェイクの学校に通っていた、当時15歳のテオがハーグを訪れたが、これを機に4歳違いの兄弟の間の生涯にわたる文通が始まる。
1873 20歳 1月1日 テオも、やはりセント伯父の紹介により、グーピル商会のブリュッセル支店に就職する。
1866年 ファン・ゴッホ
5月1日 フィンセントはロンドン支店勤務を命ぜられ、しばらくパリに滞在する。
6月13日 パリを経てロンドンに着任する。ロイヤー夫人の経営する下宿に暮す。その娘ユジェニーに恋するが、彼女には婚約者がおり、この愛は報われない。
1874 21歳 6月 ヘルフォイルトで休暇を過ごす。この頃から、アーシエラへの失恋による生活の変調が顕著になる。
10月-l2月 失恋による精神的打撃のため生活に変調をきたし、セント伯父の手配により、一時パリの本店で働くことになる。
1875 22歳 5月 パリの本店に正式に転勤する。しかし店の仕事には身が入らず、支配人や他の店員との関係は悪化する。友人もなく、自分の世界にこもり、聖書を耽読する一方、 17世紀オランダ絵画やバルビゾン派の作品にひかれる。
1871年 グーピル商会の
ハーグ支店時代
10月22日 父テオドルス、エッテンの牧師となる。
12月 クリスマスの際、商会に無断でエッテンの両親のもとへ帰郷する。
1876 23歳 3月 グービル商会の後を継いだブッソとヴァラドンは、4月1日をもってゴッホに解雇を通告する。
4月 ゴッホは両親の住むエッテンへ戻る。
4月16日 新聞広告を通じて職を得たゴッホは、イギリスのラムズゲイトで、トークス氏の経営する学校でフランス語とドイツ語を教える。
6月11日 学校の移転に伴い、ロンドン近郊のアイズルワースへ移ったが、周囲の貧民街の様子に心打たれ、メソジスト派のジョーンズ師の下で宗教活動に参加する。
11月4日 補助説教師として、最初の説教を行なう。
《絹を織る人》
12月 学校の休暇で、エッテンへ帰郷し、そのままイギリスへは戻らない。
1877 24歳 1-4月 ドルトレヒトの書店に勤めるが、仕事には全く身が入らず、聖書の研究に熱中する。
5月9日 大学で神学を勉強するため、アムステルダムへ赴き、海軍造船所長をしていた伯父ヨハネスの家に下宿する。入学準備として家庭教師についてギリシャ語、ラテン語を学んだ。
1878 25歳 7月 大学入学を断念して、エッテンへ戻る。
8月25日 宗教の道をあきらめきれず、ブリュッセルの伝道師養成学校に入り、 3ヶ月の教育を受けたが、伝道師の資格を得ることはできなかった。
《ジャガイモを食べる人々》
11月 エッテンへ戻る。
12月 ベルギーのポリナ-ジュ炭鉱地帯へ赴き、悲惨な生活を送る炭鉱夫たちの間で献身的な活動を行なう。
1879 26歳 1月 ゴッホの努力を認めた伝道師委員会は6ヶ月間に限って、彼にポリナ-ジュのワムで伝道活動を行なうことを許可した。しかし、常軌を逸した熱心な活動のゆえに、その期間が切れたのち、資格の更新は認められなかった。
8月 ポリナージュのクエムへ移り、自ら貧困と絶望の中にありながら、 鉱夫たちの間で生活する。テオがクエムを訪れたが、フィンセントの生活方針を批判したため、以後、兄弟の文通が中断する。
1880 27歳 7月 テオとの文通を再開、フィンセントは、ここで、画家になる決意を表明する。パリのグーピル商会(ブッソ=ヴァラドン商会)に勤めていたテオは、以後、画家としてのフィンセントを全面的に支えてゆくことになる。
フィンセントは、自習ながら、猛烈な素描の練習を始める。

《ジャガイモを掘る農夫》
10月 ポリナージュを去り、ブリュッセルに落ち着く。
ブリュッセルのアカデミーで解剖学と遠近法を学び、素描を描く。
11月 同じくブリュッセルで絵の勉強をしていた同郷人アントン・ファン・ラッパトトと知り合い、親交を結ぶ。彼との交友は約5年間続き、互いに相手を訪問したり、手紙を交したりしている。
1881 28歳 4月12日 エッテンへ戻り、以後、自然と農民を相手に制作する。父は彼が画家になることに反対したが、彼はしばしばハーグを訪れて、テルステーフや、従兄にあたる画家アントン・マウフェから、画業についてのアドヴアイスを受けている。
《褐色の頭巾の農婦の顔》
両親の家にしばらく滞在していた、従姉で、子持ちの寡婦カーテ・フォス=ストリッケル(通称ケー)に恋し、求婚するが、拒絶される。
11-12月 ハーグで約1ヶ月、マウフェから油彩と水彩の手ほどきを受ける。
12月30日 クリスマスに父と激しい口論をしたフィンセントは、エッテンを後にしハーグへ向かう。
1882 29歳 1月 ハーグで部屋を借りたフィンセントは、マウフェとテルステーフを頼り、前者について本格的な画業を開始する。マウフェもテルステーフも最初は協力を惜しまなかったが、1月末に、フィンセントが娼婦タラシーナ・マリア・ホルニク(通称シーン)と知り合い、同棲を始めるに及んで、次第にゴッホから離れてゆく。
シーンは子持ちの娼婦で、性病にかかっており、しかも、妊娠していた。彼女との同棲には、彼女を立ち直らせようという献身的な気持が大きく働いていたようである。
6月7日
 -7月1日
ハーグの病院に入院し、淋病の治療を受ける。
7月 シーンはレイデンの病院で子供を生む。
精神的に悩むが、他人には変人としか見えない。最初の油絵を制作するが、色調は暗く、厚塗りであった。
8月 父テオドルス、ヌエネンの牧師に転ずる。
ハーグ時代の作品の中心は人物素描であり、その多くはシーンや養老院の老人などをモデルとしている。また1882年夏ごろから本格的に油彩画にも手を着けたが、習作的なものがほとんどである。
1883 30歳 テオが来訪し、シーンとの生活を清算するよう強く勧める。
《パイプをくわえた自画像》
9月11日 シーンを残してハーグを去り、オランダ東北部のドレンテのホーへフェーンに赴く。
10月初め ニウ・アムステルダムへ移る。フィンセントはこの地で、泥炭地帯の風景やそこで働く人々の姿を描いたが、孤独な生活に耐え切れず、また彼の経済的基盤であったテオからの仕送りの受取りが非常に面倒だったこともあり転居を考える。
11月30日 孤独に耐えきれず、テオからの仕送りが滞り、ドレンテでの生活を切り上げる。
12月1日 ヌエネンの両親の家へ帰る。これから2年ほどのヌエネン時代は、いよいよ画家としてフィンセントが全力で独自の道を探り始める時期であり、油彩画が多くなる。主題の主なものは、農民、職工、そしてヌエネン付近の風景である。
1884 31歳 1月 足を骨折した母を熱心に看病する。
隣家に住む、 39歳のマルゴット・ベーへマンとの恋愛関係は、双方の両親の反対に会う。彼女は悲観して服毒自殺をはかる。
《ほどいた髪の女の顔》
10月22日 ラッパルトが来訪する。
1885 32歳 3月26日 父テオドルス、脳卒中で急死する。
4月 以前から進めていた≪ジャガイモを食べる人々≫を完成する。自信作であったが、テオやラッパルトの反応はかんばしくなかった。ラッパルトとの関係は、彼がゴッホを厳しく批判した結果、終りとなる。
10月6-8日 アムステルダムを訪れ、美術館を見る。
11月27日 ヌエネンを去って、アントウェルペンへ向かう。彼がモデルとして使っていた農家の娘の妊娠問題が原因で、ヌエネンでモデルを得ることが難しくなったという外的情況と共に、色彩に目覚めかけた彼の絵画の新しい展開が、新しい世界を求めたのである。彼は以後、オランダの地を踏むことはない。
11月28日 アントウェルペンに着く。
《銅器のあみがさゆり》
1886 33歳 1月18日 アントウェルペンの美術学校に入学するが、教師としばしば衝突し、より自由な空気を求める。
3月1日頃 ゴッホはラヴァル街のテオの住居に転がりこむ。当時テオは、グーピル商会のモンマルトル通りの支店の支配人をしていた。
4-5月 モンマルトルのコルモンめアトリエに通い、ここで、ベルナール、ロートレック、アンタタン、ラッセルらと知り合う。
6月 テオと共にルピック街に転居する。パリでの最初の年に描かれた作品は、モンマルトル周辺の風景画七花を扱った静物画に大別されるが、特に後者に大胆な色彩の実験がうかがわれる。
カフェ「ル・タンブラン」の女主人アゴステイーナ・セガトーリと知り合い、親密な関係となる。
弟テオ
1887 34歳 2月又は3月  「ル・タンブラン」で日本の浮世絵版画の展覧会を開き、ベルナールやアンクタンに影響を与える。フィンセント自身の様式は、モネやピサロの作風、ドガやロートレックの作風、さらにはシニャックを通じて知った新印象派の点描技法まで、多くのものを摂取しながら急速に変化していった。
アニエールで描かれた風景画は、印象派を越えた大胆な色彩と筆触を見せ、次のアルル時代を予告する。
年末 クリシー大通りのレストラン「デュ・シャレ」で、ベルナール、ロ-トレックらと展覧会を開く。しかし、大都会の喧騒の中でフィンセントは次第に神経をすり減らし、特に冬場は体調を崩して、アルコールに依存するようになる。テオにとっても、神経質で自分勝手な兄との生活は限界に近付く。
1888 35歳 2月19日 新しい生活を求めて、南仏アルルへ向け、パリを去る。
《洗濯女のいるアルルの
ラングロワ橋》
2月20日 アルルに到着し、「レストラン・カレル」に下宿する。
5月 下宿先を「カフェ・ド・ラ・ガール」にかえると共に、同じラマルティーヌ広場に≪黄色い家≫を借り、アトリエ兼住居としての整備にとりかかる。
5月30日
 -6月3日
地中海岸のサント=マリー=ド=ラ=メールへ小旅行する。
6月まで 作品は風景画がほとんどであり、春の果樹園風景、夏の麦畑の風景が二つの大きなグループを形成している。
7月以降 肖像画が増えてくる。以後、アルルでの彼の友人たち、郵便局員ルーランの一家、「カフェ・ド・ラ・ガール」の経営者であるジヌー夫人、アルジェリア歩兵連隊の少尉ミリエ、ベルギーの画家ボックなどが、彼のカンヴァスにその姿を残すこととなった。
9月 《黄色い家》に移る。彼は南仏のアトリエでの画家たちの共同生活を夢見ていたが、その最初の相手として、ゴーガンの名が次第にのぼってくる。ゴーガンは当時経済的に非常に困窮しており、テオの援助を期待できるアルルでの生活に魅力を感じるようになっていた。
《黄色い家》
《夜のカフェ・テラス》を制作する。
10月23日 ゴーガンがアルルに到着する。二人の共同生活はうまく行くかのように見えたが、両者の強い個性は次第にぶつかり合う。
12月中旬 ゴーガンはパリへ戻ることを考える。
12月23日 ゴーガンとの激しい喧嘩の後、彼は自分の左耳の下部を切り取り、翌朝、意識不明のままアルルの病院に運ばれる。ゴーガンは事件をテオに知らせ、テオはアルルへ急行する。
《包帯をした自画像》
1889 36歳 1月7日 退院し、《黄色い家》へ戻る。彼を支えたのは、病院の医師やアルルの新教の牧師サル、そしてルーランやジメーらの友人であった。《包帯をした自画像》を描く。
2月7日 再び発作を起して入院。一時退院したものの、付近の市民の要請もあって、以後、病院暮しを余儀なくされる。
3月23日
 -24日
ポール・シニャックがアルルの病院に彼を見舞う。
4月17日 テオはオランダで、ヨーンナ・ボンゲルと結婚。彼らはパリで新婚生活を始める。アルルで制作を続行することは最早不可能であったが、パリへ戻ってテオの生活を乱すわけにもゆかないという立場に追い込まれたフィンセントは、さらに、次にいつ神経の発作が襲ってくるかという不安をかかえて、自らを精神療養院の中に閉じ込める道を選ぶ。
5月8日 フィンセントはサル師に付き添われて、サン-レミのもと修道院の精神療養院へ向かった。この療養院の建物の中にゴッホは、自室の他に制作室を与えられた。
《アルルの療養院の庭》
5月中 行動範囲を療養院の庭の内に限られた。
6月 戸外で自由に制作することが許された。夏の陽射しの中で、彼は、オリーヴ園、麦畑、糸杉などをモティーフとする傑作を次々と制作した。彼の生涯の中でも最も充実した制作期である。
7月初め テオの妻ヨハンナ(通称ヨ-)の妊娠を知らされる。
7月6日 アルルを訪れる。
7月10日頃 激しい発作に襲われる。 7月いっぱい錯乱状態が続く。
8月 全く制作ができないまま過ぎる。
《星月夜》
9月 他の画家の作品(ミレー、ドラクロワなど)や自作の模写を主体とし、制作を再開。
12月 クリスマスの頃、再び発作。
1890 37歳 1月 アルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌に、ゴッホの芸術を賞賛する評論を発表する。
1月18日 開幕されたブリュッセルの「レ・ヴァン(20人会)」展にゴッホの《赤いブドウ畑》などが展示され、ようやく彼の作品に注目する人々が現われる。
1月29日頃 激しい発作に襲われる。
1月31日 テオとヨーに息子誕生、画家と同じ、フィンセント・ウイレネという名が与えられる。
《糸杉のある麦畑》
2月24日頃
 −4月中旬
発作に襲われ、 ほとんど仕事ができない。
3月20日 開催された第6回「アンデパンダン展」に出品された10点のゴッホの作品は、画家たちの間で大好評であった。
ゴッホの作品はようやく評価されつつあった。しかし彼自身は精神療養院にあって、発作の恐怖と向かい合っていた。すでに1889年7月の激しい発作の後、彼は療養院の環境がかえって自分の精神状態にとって良くないと判断し、転地を希望するようになっていた。
5月16日 サン=レミを離れる。この期間《糸杉》《アルルの療養院》などを制作する。
《自画像》
5月17日 パリに到着し、テオ宅に数日滞在する。テオの妻ヨーに初めて会う。
5月20日 オーヴェール=シェル=オワ-ズに到着。神経科の医師、ポール・ガッシェを訪ねる.オーヴェールのガッシェのもとでの療養を提案したのは、カミーユ・ピサロであった。ガッシェはピサロをはじめとする多くの画家と付合いがあり、芸術に深い理解を示していた。
オーヴェールではゴッホはラヴー夫妻のレストランに下宿することになった。風景画を中心に制作も順調に進んだ。
6月8日 テオの一家が日曜日にオーヴェールを訪れる。
7月 ラインセントとテオとの間の不協和音がはっきりしてくる。フィンセントは、精神的にも物質的にも、テオの支援が次第に減ってゆくのを恐れていたのであろう。
7月6日 パリを訪れたフィンセントは、オーリエ、トウールーズ=ロートレックに会ったものの、意気消沈して、その日のうちにオーヴェールへ戻る。テオおよびヨーとの間に激しい口論があったものと思われる。その後、 《カラスのいる麦畑》《ドービニーの庭》を制作する。
《自画像》
7月27日 自らの胸部に向けてピストルを発射。医師ガッシェが呼ばれ、翌朝パリからテオがかけつける。 一旦、容態は持ち直したかに見えたが、夜に入って悪化する。
7月29日
午前1時半
テオに看取られて死去。オーヴェールでの葬儀には、テオやガッシェの他、ベルナール、 リュシアン・ピサロ、タンギーなどが参列した。