年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1864 | . | 11月24日 | 南フランスのアルビのボスク邸館に生まれる。父アルフォンス・ド・トウールーズ=ロートレック伯爵と母アデール=ゾエとの間の長男として生まれる。父母は従兄妹同士。父方のロートレック家は十字軍時代に遡るフランスでも有数の貴族であり、母方のセレーラン家もそれに劣らぬ名家であった。弟リシャールがいたが4歳で亡くなる。 | ![]() 父アルフォンス・ド・ トウールーズ=ロートレック |
1868 | 4歳 | . | この頃から両親の不和は決定的なものとなり、二人はともに暮らすことが次第に少なくなる。 | |
1872 | 8歳 | アンリの教育のため、母親は彼をつれてパリに移住、8区のマドレーヌ寺院近くにあるペレ館に居を定める。父親もパリ滞在時はペレ館の地階の1室に居住。 | ||
10月 | リセ・フォンターヌ(現リセ・コンドルセ)に入学、後に画家の伝記作家となる同級のモーリス・ジョワイヤンと親交を結ぶ。 | |||
1873 | 9歳 | . | 絵の虜になり、父の友人で聾唖の動物画家ルネ・プランストーのアトリエに通い、デッサンを繰り返す。 | |
1874 | 10歳 | 7月 | 身体の発育と健康が思わしくなく学校を去り、母の監督下で家庭教師から勉強する。 | ![]() 母アデール=ゾエ |
11月 | 学校に戻る。 | |||
1875 | 11歳 | 1月9日 | 健康上の理由で学校をやめる。 | |
1878 | 14歳 | 5月30日 | アルピの生家の客間で、椅子から立ち上がろうとして転倒、左大腿骨を骨折する。 | |
. | アメリー=レ=バン、ニース、バレージュなどで療養。退屈をまぎらすためにさかんに絵を描く。 | |||
1879 | 15歳 | 8月 | バレージュに滞在中、母と散歩に出掛けて溝に落ち、今度は右大腿骨を骨折する。骨の組織が脆弱で完治せず、以後、両脚の発育は停止し、容貌も日増しに変化する。 | |
1880 | 16歳 | . | 大好きな乗馬や狩りを自ら出来なくなり、ニースやセレーラン、ル・ポスタなどで描くことに慰めを見出し、デッサン・水彩画の制作に情熱を傾ける。 | ![]() 1866年頃 幼少期ロートレック |
. | バレージュで出会った友人エティンヌ・ドヴィスムの短編草稿『ココット』の挿絵を描く。 | |||
1881 | 17歳 | . | 大学人学資格試験受験のためにパリに戻る。 | |
4〜5月 | 最初の師プランストーのアトリエに足しげく通う。 | |||
7月 | 大学人学資格試験では失敗する。 | |||
11月 | トウールーズでの第2期の大学人学資格試験には合格する。 | |||
1882 | 18歳 | 3月末 | プランストーの紹介でレオン・ボナに会う。 | |
4月 | モンマルトルにあるボナの画塾に入るが、彼はロートレックのデッサンを酷評する。 | |||
9月 | ボナは国立美術学校の教授就任に伴い画塾を閉鎖。 ロートレックは友人たちとともにモンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に移る。 |
![]() 《自画像》 |
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1883 | 19歳 | . | コルモンの教室で、ベルナール、グルニエ、ラシューらと知り合い共に制作する。 | |
. | この頃から日本の浮世絵を集め始めたもよう。 | |||
1884 | 20歳 | 初夏 | 母親の反対を押し切ってモンマルトルに移り、フォンテーヌ街のグルニエ夫妻の家に住む。この建物の中庭にはドガもアトリエを借りていた。 | |
. | 友人たちとともにエリゼ=モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレツト、キャバレー「シャ・ノワール」に足しげく通う。 | |||
1885 | 21歳 | 6月 | シャ・ノワールが移転し、そのあとにアリスティド・ブリュアンがキャバレー、『ミルリトン』を開く。 | |
ロートレックは歌い手で詩人のプリュアンの強烈な個性に引きつけられ、すぐに常連となり、シャンソンのルフランを画題として作品を制作する。 | ![]() シュザンヌ・ヴァラドン |
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秋 | プリュアンは『ル・ミルリトン』誌を創刊する。 | |||
1886 | 22歳 | . | ミルリトンの店内にロートレックの作品が飾られる。 | |
春 | パリに出てコルモンの教室に入ったばかりのゴッホに会い親交を結ぶ。 | |||
印象派の画家ピサロ、ドガ、ゴーガン、スーラに会う。 | ||||
. | コーランクール街27番地に自分のアトリエをもつ(98年まで)。 | |||
. | 隣の建物には友人のゴージやザンドメネーギ、モデルで画家のシュザンヌ・ヴァラドンが住んでおり、彼女とは情熱的な関係を持つが、破局する。 | |||
. | 『ラ・クーリエ・フランセ』や『ル・ミルリトン』などの雑誌に挿絵が掲載され始める。 | |||
1887 | 23歳 | . | コルモンの画塾を去る。 | ![]() 《ゴッホの肖像》 |
. | 友人の医師アンリ・ブールジュとフォンテーヌ街19番地のアパルトマンを共有する(91年まで)。 | |||
. | 《ゴッホの肖像》、《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》などを制作する。 | |||
7月 | ベルギーの画家フアン・レイセルベルへの訪問を受け、翌年2月に開催される『二十人会展』への出品を要請される。 | |||
1888 | 24歳 | 2月 | 『二十人会展』に11点の作品を出品し、同展の開会式に出席するためブリュッセルに行く。 | |
1889 | 25歳 | . | 《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会で》《洗濯女》《化粧する女》など、多数の肖像画を描く。 | |
. | セルクル・ヴォルネ展に出品する。 | ![]() 《フエルナンド・サーカスにて、 女曲芸師》 |
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9月 | 第5回アンデパンダン展に《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》などを出品する。 以後1895年まで同展に毎年続けて出品する。 |
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10月5日 | ジョゼフ・オレールがクリシー大通り90番地にムーラン・ルージュを開店、当時最も有名だったポスター・デザイナー、ジュール・シュレが宣伝用ポスターを制作する。入り口の間にロートレックの《フエルナンド・サーカスにて、女曲芸師》が飾られ、彼はすぐに同店の常連になる。 | |||
1890 | 26歳 | 1月 | 二十人会展の開会式に出席するためブリュッセルに旅行する。 | |
3月 | 第6回アンデパンダン展に≪骨なしヴァランタンによる新入り踊り子の訓練(ムーラン・ルージュ)≫などを出品する。 | ![]() 《ムーラン・ルージュ》 |
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. | 《ムーラン・ルージュのダンス》《ピアノに向かうディオー嬢》《踊り子ガブリエル》《空中ブランコ乗り》などを描く。 | |||
10月 | プッソ・エ・ヴァラドン画廊の支配人テオ・フアン・ゴッホが発作を起こして入院(翌年1月死去)、リセ時代の同級生モーリス・ジョワイヤンがその後任となる。 | |||
1891 | 27歳 | 1月 | セルクル・ヴォルネ展に出品。 | |
3月 | 第7回アンデパンダン展に出品する。 | |||
4月 | 医師のプールジュとともにフォンテーヌ街21番地に住居を移す。 | ![]() 《ムーラン・ルージュ、 ラ・グーリュ》 |
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秋 | 従弟のガプリエル・タピエ・ド・セレーランが医学の勉強のためにパリに出てくる。 | |||
. | ムーラン・ルージュの支配人ジドレールから店の宣伝ポスターの制作を依頼される。かくして、ロートレックの最初のポスターにして最初の石版画《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》が生まれる。パリの街に貼り出されるやたちまち評判になり、彼は一躍有名になる。 | |||
. | 以後、石版画家・ポスター作家としてのロートレックの多産な時代が始まる(残された10年間に、360点を越える版画を制作)。 | |||
. | 従兄弟のセレーランがパリに出て来る。 | |||
12月 | ル・バルク・ド・プットヴィル画廊での第1回印象派および象徴派の画家たち展に出品する。 | |||
1892 | 28歳 | 1月 | セルクル・ヴォルネ展に出品する。 | ![]() 1892年頃 モンタージュ写真 |
2月 | 二十人会展のためにブリュッセルへ旅行、ポスター《ムーラン・ルージュ》他を出品する。 | |||
3月 | 第8回アンデパンダン展に出品する。 | |||
5月 | ル・バルク・ド・プットヴィル画廊の第2回展にポスター《首吊り》を出品。 アントウェルペンの芸術協会展にも《ムーラン・ルージュ》や《悦楽の女王》などのポスターを出品。 |
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. | ムーラン・ルージュのスターたち、ジャヌ・アヴリル、ラ・グルリュー、骨無しヴァランタンらに着想を得て多くの作品を描く。石版画を数多く制作、充実した時期が1897年頃までつづく。 | |||
. | 娼家に画題を求めて娼婦たちを描き、アンボワーズ街の娼家のサロン装飾に着手する。 | ![]() 《シルベリック》 |
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12月 | ル・バルク・ド・プットヴィル画廊の第3回展に出品する。 | |||
1893 | 29歳 | 1月30日 〜2月11日 |
ブッソ・エ・ヴァラドン画廊でシャルル・モーランと二人展を開催し、モンマルトルの生活風景を主題にした作品30点余りを出品、同展を訪れたドガの称賛を得る。 | |
2月 | 最後の二十人会展に7点のうち5点の石版画を出品する。 | |||
3月 | 第9回アンデパンダン展に出品する。 | |||
4月 | デュラン=リュエル画廊での第5回画家:版画家協会展に8点の石版画を出品する。その他、ル・バルク・ド・プットヴィル画廊の第4回、第5回展などに参加する。 | |||
秋 | 彼の足はパリの中心部、シャンゼリゼの遊興場へ、またアンボワーズ街やムーラン街にある娼家へと向くようになる。しかし彼の興味をとりわけ掻き立てたのは観劇であった。 | ![]() 《女同士》 |
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11月 | 『ラ・プリュム』誌のポスター特集号で批評家から絶賛される。偉大な芸人たちが一人また一人とモンマルトルを離れていき、この地区はロートレックにとってもその魅力を次第に失い始める。 | |||
1894 | 30歳 | 1月 | 同居者のプールジュが結婚したため、余儀なく一人でコーランクール街27番地に住居を移す。 | |
2月 | 二十人会に代わって組織された自由美学の第1回展に招かれ、ルイ・アンクタンと ともにアムステルダム、ブリュッセルに旅行。同展への出品作はいずれも石版画。 |
![]() 《ムーラン・ルージュ街の サロンにて》 |
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4月 | 第10回アンデパンダン展に出品。5月、デュラン=リュエル画廊で新作石版画展を開催する。 | |||
5〜6月 | ジョワイヤンとともにロンドンに旅行、ホイッスラー、オスカー・ワイルドに会う。 | |||
8〜9月 | ロートレックの石版画にギュスターヴ・ジェフロワの文章を組み合わせたアルバム『イヴェット・ギルベール』出版。 | |||
9月 | スペインに旅行する。 | |||
10月 | ロンドンの王立水族館でのポスター展に14点出品。文芸雑誌『ラ・ルヴユ・ブランシュ』を主宰するナタンソン三兄弟やその仲間の作家トリスタン・ベルナールやロマン・コーリュス、タデ・ナタンソンの妻ミシアらとの交際が始まる。 | ![]() 《ジャルダン・ド・パリの ジャンヌ・アヴリル》 |
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娼家の情景の集大成としての大作《ムーラン・ルージュ街のサロンにて》を制作する。 | ||||
1895 | 31歳 | . | ノルマンディーのナタンソン家の別荘を頻繁に訪れ、そこで度々マラルメに会う。 | |
2月 | 自由美学展に出品する。 | |||
4月 | 第11回アンデパンダン展に出品する。 | |||
落ちぶれて場末で踊っているラ・グーリュの小屋のために大装飾画(看板)を制作する。 | ||||
7月 | フォンテーヌ街30番地に転居する。 | |||
夏 | 友人ギベールとともにボルドーまでの予定でル・アーゲルから船に乗るが、船上でダカールに向かう美しい夫人に心惹かれ、リスボンまで行く。帰途、マドリッド、トレド、そして89年に母親が入手したマルロメの城館に滞在する。 | ![]() 1894年頃 ロートレックの横顔 |
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. | 劇場とミュージック・ホールに主題を得て、マルセル・ランデ、メイ・ベルフォート、シャ・ユ・カオなどの他、俳優の肖像多数を描く。 | |||
9月 | 国立美術学校の石版画百年展に16点出品する。 | |||
飲酒癖がひどくなる。 | ||||
1896 | 32歳 | 1〜4月 | マンジ=ジョワイヤン画廊でジョワイヤンが組織したロートレック展開催、鵜家に取材した作品は特別な客にのみ公開する。 | |
2月 | 自由美学展にポスターを出品する。 | |||
3月 | ロンドンの王立水族館での第2回ポスター展に出品する。 | ![]() 《洗濯屋》 |
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4月 | 石版画集『彼女たち』を出版し、『ラ・プリュム』誌の画廊で展示する。 | |||
. | ル・アーヴル港より商船チリ号に乗船、アルカンションに向けて出航、美しい女船客を追ってリスボンまで行き、スペインを回って帰国する。 | |||
11月 | 友人ギベール、従弟タピエ・ド・セレーラン、それにジョワイヤンとともに万霊節の休暇をブロワ、シャンボール、アンボワーズで過ごし、そこで風景画はそれほど重要ではないとの有名な見解を表明する。 | |||
シルク・ド・ランスでの芸術ポスター回顧展に20点出品する。 | ||||
1897 | 33歳 | 2月 | 自由美学展に出品、ブリュッセルを訪れ、ヴァン・デ・ヴェルデから昼食の招待を受ける。 | |
4月 | 第13回アンデパンダン展に出品する。 | ![]() 1894年頃 眠るロートレック |
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5月 | フロショ通り5番地に転居する。 | |||
6月 | イギリス、次いでオランダに旅行する。 | |||
10月 | サンクトぺテルプルクの国際ポスター展に出品する。 | |||
11月 | ル・バルク・ド・プットヴィル画廊の第15回展に出品する。 | |||
. | 多産な時代は終りを告げるようになり、制作のテンポが落ち始める。 | |||
1898 | 34歳 | . | フロショ通り15番地にアトリエを移す。 | |
. | いまやアルコールで酩酊せずに制作することがほとんど不可能になり、素面でいることがまれになる。酔いがさめると極度に苛立ち、落ち着きがなくなってくる。 | |||
4月 | 激しい制作活動と過度の酒と不摂生な生活のため、健康を著しく損なうが描き続ける。 | ![]() 《彼のキャバレーの アリスト・ブリュアン》 |
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5月 | ジョワイヤンの勧めでロンドンのグービル画廊で個展を開き65点を出品、同地に旅行する。 | |||
1899 | 35歳 | . | 健康状態が首に見えて悪化する。神経症的不安、激しい怒りの爆発、鬱状態、そして幻覚が体力を消耗させる。 | |
2月末 | アルコール中毒による激しい発作にみまわれ、母の手配でヌイイの私立精神病院に入院させられる。 | |||
3月 | 正気であることを医師たちに証明するため、ジョワイヤンに画材をもってくるよう依頼し、記憶から《サーカス》のデッサンを多数描く。 | |||
5月17日 | 友人たちの奔走により退院する。その後、遠縁にあたるポール・ヴィオーが付き添って飲酒の監視役をつとめる。 | ![]() 《酒場「スター」の金髪の英国女》 |
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6月 | クルトワに滞在する。 | |||
7月 | ボルドー行きの船に乗るためル・アーヴルに行き、《酒場「スター」の金髪の英国女》を描く。 | |||
ル・アーヴルを訪れ、さらにトッサ、アルカションで休養、最後にマルロメの母のもとに滞在する。 | ||||
10月 | パリに戻り、ほどなくして再び酒に浸るようになる。 | |||
1900 | 36歳 | . | 生きようという意欲を半ば喪失、制作にますます困難を覚える。 | |
. | 大西洋沿岸で休養する。 | |||
6月 | ル・アーヴルで船に乗り、トッサに着き、同地で9月末まで滞在。 | ![]() 1898年 ミシアとロートレック |
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10月 | ついでマルロメに向かう。 | |||
冬 | パリに戻らず、ボルドーのコードラン街66番地にアパルトマンを、ボルトディジョー街47番地にアトリエを借りる。 『美しきエレーヌ』や『メッサリーヌ』の上演を観る。 |
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1901 | 37歳 | 4月末 | パリに帰りたいとの思いにかられ、ボルドーで描いた作品をたずさえてヴィオーとともにパリに戻る。フロショ通り15番地のアトリエを整理し、未完のままの作品を仕上げ、重要なものに署名を入れる。 | |
7月15日 | パリを離れ、トッサに滞在。健康回復の見込みはまったくない。 | |||
8月20日 | 死期の近いことを自覚し、憔悴しきった状態でマルロメの母のもとへ行く。 | |||
. | 肉体の衰弱をおして最後の作品《ヴィヨー提督》と《パリ大学医学部の試験》を完成する。 | |||
9月9日 | マルロメで37年に満たない短い生涯を閉じる。 |