年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1832 | 0歳 | 1月23日 | パリのプティ=ゾギュスタン街5番地に生まれる。父オーギュスト・マネは法務省の司法官、母はストックホルム駐在の外交官の娘,ウジェニー=デジレ・フールニエで、ブルジョワ上流社会に育つ。弟ウジューヌとギュスターヴがいる。 | 母ウジェニー=デジレ・ フールニエ |
1838 -40 |
6-8歳 | . | ヴォジラールのポワルー学院で学ぶ。 | |
1844 | 12歳 | 10月 | ロラン中学(コレージュ・ロラン)に入学。そこで、アントナン・プルーストに出会う。在学中、彼は叔父フルニエ大尉に連れられ、プルーストとともにルーヴル美術館をしばしば訪れている。 | |
1848 | 16歳 | 7月末 | ロラン中学を卒業、父親に海軍兵学校への進学希望を伝えるが、入学試験に失敗する。 | |
12月9日 | リオ・デ・ジャネイロ行きの練習船アーヴル・エ・グアドループ号に乗り込む。航海の間、彼は乗組員や士官のカリカチュアを描く。 | |||
1849 | 17歳 | 2月4日 | リオ・デ・ジャネイロに到着する。 | 妻シュザンヌ・レーンホフ |
6月13日 | ル・アーヴルに戻った後、再び海軍兵学校の入学試験にのぞむが失敗する。 彼の家族は,マネが芸術家を志すことに同意し、クーチュールのアトリエに通う。 | |||
. | マネ家のピアノ教師としてオランダ人のシュザンヌ・レーンホフに出会う。 | |||
1850 | 18歳 | 1月29日 | ルーヴル美術館にある絵画模写の記録簿には、クーチュールの弟子として名前を記入している。 | |
9月 | マネとクーチュールの問では口論が絶えず、やめる一歩手前までいくが、父の説得でとどまり、1856年2月までの6年間そこに留まっていた。 | |||
1851 | 19歳 | 12月2日 | ナポレオンによるクーデターが発生する。プルーストとマネは大通りに出てこの出来事を目撃している。 | |
12月4日 | クーチュールのアトリエ仲間と連れ立って、モンマルトルの共同墓地へ向かう。そこには、ナポレオンの犠牲者たちが葬られている。 | |||
1852 | 20歳 | 1月29日 | シュザンヌ・レーンホフとの間に長男レオン=エドゥアール・コエラが誕生するが、シュザンヌの私生児として扱われる。 | 長男レオン= エドゥアール・コエラ |
2月25日 | ルーヴル美術館でフランソワ・プーシェの《水浴のディアナ》の模写に取り組む。 | |||
7月19日 | 最初のオランダ旅行をする。マネの名前がアムステルダムにある国立美術館の記録簿に残る。 | |||
1853 | 21歳 | . | クーチュールのアトリエが行ったノルマンディーでの徒歩族行の間、自然観察に基づく習作に取り組む。 | |
9月17日 | 弟ウジェーヌとともにイタリアを訪問の途中、ヴェネツィアで法律家オリヴィエに出会い、彼のガイドをつとめる。 | |||
10月7-15日 | フィレンツェに1週間滞在中、マネは再びオリヴイエに会う。ウフィーツィ美術館にあるティツィアーノの《ウルピーノのヴィーナス》とフィリッポ・リッピの《若い男性の頭部》を含む、昔の巨匠たちの絵画を模写する。 | |||
1855 | 23歳 | . | プルーストとともにドラクロワを、ノートル・ダム・ド・ロレット街にあるアトリエに訪問し、リュクサンブール美術館にある《ダンテの小舟》を模写する許可を願い出る。 | 《ダンテの小舟》 |
1856 | 24歳 | 2月 | クーチュールのアトリエを去り、動物画家パルロワとラヴォワジエ街にあるアトリエを共有する。 | |
1857 | 25歳 | . | ルーヴル美術館のヴェネツィア派の絵画の前でファンタン=ラトゥールに出会う。 | |
8月21日 | ルーヴル美術館でルーベンスの《エレーヌ・フールーマンと彼女の子供達の肖像》の模写を開始する。 | |||
11-12月 | 彫刻家ブルネと2度目のイタリア旅行。サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂にあるアンドレーア・デル・サルトのフレスコ画を模写する。 | |||
1858 | 26歳 | 11月26日 | 王立図書館の版画キャビネットの名簿に名前が記載されている。 | |
1859 | 27歳 | 4月 | ドラクロワの好意的な支持にもかかわらず, 《アプサントを飲む男》がサロンで落選したことを知る。その場にはボードレールが居合わせた。 | 《サクランボをもつ少年》 |
. | 《サクランボをもつ少年》のモデルとなった助手アレクサンドルが自殺したのを機に、 7月までにラヴォワジエ街のアトリエを去る。この出来事は、ボードレールの作品『綱』の着想源となった。また、この作品はボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中でマネに捧げられている。 | |||
7月1日 | ルーヴル美術館で模写中にドガに出会う。マネはベラスケスの《マルガリータ王女》を直接エッチングのための銅版に模写していた。 | |||
1860 | 28歳 | 夏 | ドゥエ街にアトリエを構える。シュザンヌとレオンとともにパティニョール地区の市庁舎街にアパルトマンを借りる。 | |
1861 | 29歳 | 5月 | 《マネ夫妻の肖像》と《スペインの歌手(ギタレロ)》をサロンに初出品する。 若手の画家たち、ファンタン=ラトゥール、ルグロ、デュラン、ブラックモンや作家たち、ボードレール、シャンフルーリ、デュランティーらがマネのアトリエに集い、 《スペインの歌手(ギタレロ)》を賞賛する。 |
|
ギュイヨ街81番地にアトリエを構える(1870年まで)。 | 《スペインの歌手(ギタレロ)》 |
|||
8月15-31日 | ブルヴァール・デ・ジタリアン26番地のマルティネ画廊の「常設展」に、ギュイヨ街の隣人の一人で、画家のジョゼフ・ガルの肖像画《読書する人》を売りに出す。 | |||
9月1-30日 | マルティネ画廊に 《読書する人》に代わって《サクランボをもつ少年》が展示される。 | |||
9月18日 | 《驚くニンフ》がサン=ペテルスプール街の王立アカデミーで展示される。 | |||
10月1-15日 | 《スペインの歌手(ギタレロ)》がマルティネ画廊で展示される。 | |||
1862 | 30歳 | 4月 | マネによる版画がカダール画廊(リシュリュー街66番地)で展示される。 | |
5月31日 | カダールとシュヴァリュにより、エッチングの復興を目的とした腐食銅版画協会が設立される。マネはブラックモン、ファンタン=ラトゥール、ルグロらとともに設立メンバーの一人である。 | |||
チュイルリー公園で屋外の習作を行う。カフェ・トルトニの常客となる。 | ||||
8月12日 -11月2日 |
スペイン人舞踊団がイッポドローム座で公演する。カンプルービ、ローラ・ド・ヴァランスらがアルフレッド・ステヴァンスのアトリエでマネのためにモデルを務める。 | 《ローラ・ド・ヴァランス》 |
||
9月1日 | マネの《ジプシーたち》を含む5点のエッチングが腐食銅版画協会から初めて出版される。 | |||
9月25日 | 父オーギュスト・マネ死亡。 | |||
. | モデルを職業としているヴイクトリーヌ・ムーランに出会う。彼女はその後4年間、彼のお気に入りのモデルとなる。 | |||
1863 | 31歳 | 3月1日 | マルティネ画廊で《チュイルリー公園の音楽会》、 《ローラ・ド・ヴァランス》、《スペインの舞踊家》など14点を公開する。 | |
3月7日 | アストリュクのセレナーデ『ローラ・ド・ヴァランス』がマネ挿絵により出版される。 | |||
3月末 | ホイッスラーがファンタン=ラトゥールとマネに詩人スウインバーンを紹介する。 | |||
5月15日 | 産業会館の隣接ホールで開催の、 「落選展」に、マネは《草上の昼食》を展示し、スキャンダルとなる。左側に《マホの衣装を着けた若い男》、右側に《エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン》を並べ、 3点のエッチング とともに展示した。 | 《草上の昼食》 |
||
10月1日 | 腐食銅版画協会によりエッチング《ローラ・ド・ヴァランス》が出版される。 | |||
10月28日 | オランダのザルトボンメルでシュザンヌ・レーンホフと結婚し、1ヶ月間、滞在する。 | |||
1864 | 32歳 | 1月 | マネはファンタン=ラトウールのサロンに出品作の《ドラクロワ礼賛》のためにポーズをとる。 | |
2月4日 | マルティネによって1862年に設立された国民美術協会の「最初の未公開展」がブルヴァール・デ・ジタリアンのマルティネ画廊で開幕する。 | |||
5月 | 《死せる闘牛士》と《死せるキリストと天使》がサロンに入選する。 | |||
6月 | リシュリュー街79番地のカダール画廊のショーウインドウにこの事件を主題とした作品を展示。 | 《パティニョールのアトリエ》 |
||
夏 | ブーローニュ・シュル・メールとジェヌヴィリエに滞在する。 | |||
11月 | パティニョール街34番地のアパルトマンに転居する。 | |||
1865 | 33歳 | 2月19日 | マルティネ画廊で国民美術協会展開催され、。マネの作品はシュスノーに売り渡された静物画を含む2点が展示される。 | |
. | ブリュッセルにいるボードレールのために、彼の著作物の代理人となる。 | |||
5月 | ファンタン=ラトゥールのサロン出品作《パティニョールのアトリエ》のためにポーズをとる。 | |||
カダール画廊で静物画を展示。 | 《オランピア》 |
|||
《兵士たちに侮辱されるキリスト》、 《オランピア》をサロンに出品し、サロンでの批判的な反応や、モネの出品した海景画が彼に帰属された事実に落胆する。 | ||||
春 | ロンドンのロイヤル・アカデミーの展覧会で作品2点が落選する。 | |||
ブルヴァール・デ・ジタリアン32番地のカフェ・ド・バドゥの常客となる。 | ||||
8月 | スペインのブルゴス、バリャドリード、トレド、マドリードに1週間滞在し、ビュエルク・デル・ソルのホテルでデュレに出会う。彼は、後にマネのモデル、友人、遺言執行人となり、伝記を記す。 | 《笛を吹く少年》 |
||
9月13日 | サルト県にあるヴァセの館で休暇中の家族に再会する。 | |||
10月 | コレラ流行中、病気になる。 | |||
1866 | 34歳 | 4月 | 《笛を吹く少年》と《悲劇役者》がサロン審査会で落選する。 | |
ポール・セザンヌに出会う。 | ||||
5月7日 | エミール・ゾラは彼のサロン評の中でマネを擁護する。この出来事によりゾラは、 『レヴェヌマン』誌を辞職することになる。ゾラに面会を求めて手紙を書く。 | |||
5月13日 | アストリュクを通じてモネに紹介される。 | |||
9月 | カフェ・ゲルボワ(パティニョール街11番地)には、マネと彼の仲間、アストリュク、デブーン、エミール・ベロ、デュランティー、ゾラ、レオン・クラデル、ビュルティーらのお気に入りの場所となった。 | |||
秋 | マネの家族はパティニョール街のアパルトマンを去り、サン=ペテルスプール街49番地の母親と同居するようになる。 | |||
1867 | 35歳 | 1月1日 | ゾラは『ラルテイスト: 19世紀のレヴュー』にマネの伝記的批評的研究を掲載する。 | |
1月2日 | 万国博覧会の会期中にシャン・ド・マルス近くで少なくとも40点の作品による個展の開催を決意する。 | |||
2月 | ファンタン=ラトゥールはマネの肖像画に取り組む。この作品は次のサロンに出品される。 | |||
5月22日または24日 | 万国博覧会会場外側のアルマ橋の近くに多額の費用を投じて特別に建設されたパヴィリオンで、
50点の作品からなる個展を開催する。 クールベもまた彼自身のパヴィリオンを設けた。 |
《マクシミリアン皇帝の処刑》 |
||
6月19日 | メキシコでマクシミリアン皇帝が処刑され、マネはこの事件をテーマに一連の油彩画に着手する。 | |||
6月29日 | 『ル・ジュルナル・アミュザン』誌は、マネのパヴィリオンとその主要な作品に対する風刺画を2ページにわたって掲載する。 | |||
8月 | トゥルーヴィルでアントナン・プルーストと数日を過ごす。 | |||
9月2日 | パリでボードレールの葬儀に出席する。 | |||
11月 | ゾラが彼の小説『テレーズ・ラカン』をマネにおくる。 | |||
1868 | 36歳 | 2月 | ギュイヨ街のマネのアトリエで、ゾラがモデルとなり肖像画を描く。 | |
5月 | 《エミール・ゾラの肖像》と《女とオウム》がサロンに入選する。 | |||
6月 | 《デュレの肖像》を描き、デュレとの友情を固める。 | |||
夏 | ブーローニュ=シュル=メールで家族とともに滞在する。 ロンドンへの小旅行、彼は翌年そこでの展覧会の開催を希望する。 |
|||
7月15 〜30日 |
銀賞を獲得した《死せる男》をル・ア-ヴルで展示。 ファンタン=ラトゥールはルーヴル美術館でマネにべルト・モリゾと彼女の姉を紹介する。 |
|||
9月1日 | ゾラが小説『マドレーヌ・フェラ』をマネに捧げる。 | |||
9月 | モリゾが《バルコニー》のためにモデルとなる。 | |||
10月17日 | マネのリトグラフ《猫の逢引》を用いたシャンフルーリ著『猫たち』のためのポスターを発行。 | 《バルコニー》 |
||
12月1日 | 販売目的で《スペインの歌手(ギタレロ)》と《剣を持つ少年》の2点の油彩画をマルセイユで展示する。 | |||
12月 | マネの《エキゾティック・フラワー》を収めた『ソネットとエッチング』が出版される。 | |||
1869 | 37歳 | 1〜2月 | 《皇帝マクシミリアンの処刑》がサロンで拒否され、彼のリトグラフが出版禁止になるだろうと伝えられる。ゾラは2月4日の『ラ・トリビュン』紙でマネを擁護する。 | |
2月 | ステヴァンスの紹介でアトリエにやって来たエヴァ・ゴンザレスは、マネの弟子となりモデルを務める。 | |||
5月 | 《バルコニー》、 《アトリエの昼食》がサロンに入選する。 | |||
7-9月 | プーローニュ=シュル=メールのオテル・フォルクストンで家族とともに滞在する。 | |||
1870 | 38歳 | 2月18日 | 《哲学者》と水彩作品《死せるキリストと天使たち》をヴアンドーム広場のセルクル・ド・リユニオン・アルテイスティックで展示する。 | 《エヴァ・ゴンザレスの肖像》 |
2月23日 | デュランティによる『パリ・ジェルナル』誌の熱意のない批評に激高したマネは、サン・ジェルマンの森で決闘し、デュランティを負傷させる。 | |||
3月 | サロンの審査員の選抜方法を変えることを目的として動物画家ロシュノワールによって組織された委員会に加わる。宣言文を書き、前衛画家たちという名で候補者リストを編集するが、ミレーだけが選ばれる。 | |||
バジールにモデルになるよう頼まれる。バジールは、コンダマン街の彼の新しいアトリエを措いた作品を制作していた。マネは後に、バジールのブラシや絵具を肖像画に描き込むが,著しく不均衡なサイズのものになる。 | ||||
5月 | 《音楽の授業》と《エヴァ・ゴンザレスの肖像》をサロンに出品する。 | |||
ファンタン=ラトゥールは、マネを友人たちが囲んだ集団肖像画《パティニョールのアトリエ》を出品する。 | マネの肖像 |
|||
夏 | サン=ジェルマン=アン=レイに、画家ニッティスと滞在する。 | |||
9月 | プロシア軍の侵攻に備え、家族をピレネー山脈のオロロン=サント=マリーへ疎開させる。 | |||
9月16日 | アトリエを閉鎖し、作品をカブシーヌ街にあるデュレの地下倉庫に保管する。 | |||
11月7日 〜19日 |
ドガと同様、国民軍に中尉として入隊する。 | |||
12月 | 司令部に配置換えとなる。 | |||
1871 | 39歳 | 2月12日 | パリを去り、オロロン=サント=マリーの家族と合流する。 | |
2月21日 | ボルドーに家族と1週間滞在し、おそらくゾラに会う。 | |||
3月1日 | アルカションに向けて出発し、そこで彼は1ヶ月とどまる。 | 《青い長椅子のマネ夫人》 |
||
4月15日 | コミューンは芸術家連盟設立のための声明を発表し、
4月17日、彼は不在中に15人の画家たちと10人の彫刻家たちとともに代表者の一人に選ばれた。 パリに戻ることを決意するが, 3月18日に勃発したパリ蜂起によって足止めされる。ロワイヨン(2日)、ロシュフォール(2日),ラ・ロッシェル(1日),ナント(2日)、そしてサン=ナゼル(2日)を経由し、ル・プリゲンに1ヶ月滞在する。 |
|||
5月末-6月初 | 「血の1週間」(5月21日-28日)の後、パリへ戻る。 | |||
7月 | レオン・ガンペックが国民議会へ選出された後、当時政府のあったヴェルサイユへしばしば出向き、彼の肖像画のモデルになってくれるよう頼むが、実現しなかった。 | |||
8月 | 神経疲労を考慮して医者は旅行を勧める。プーローニュで家族と過ごす。 | 《キアサージ号と アラバマ号の戦い》 |
||
1872 | 40歳 | 1月 | デュラン=リュエルがマネの絵画24点を購入し、この年間中、ロンドンにあるフランス芸術家協会の数々の展覧会で、その内の14点を公開する。 | |
5月 | 《キアサージ号とアラバマ号の戦い》をサロンで展示する。 この頃までにカフェ・ゲルボワに代わってビガール広場にあるヌーヴュル・アテ-ヌが、マネと仲間達(ドガ、ルノワール、モネ,ピサロら)の会合の場所となった。画家で版画家のデブー夕ンが、イタリアから帰国しグループに加わった。 |
|||
6月26-27日 | オランダを再族行中、当時開館したばかりだったハールレムにあるフランス・ハルス美術館やアムステルダムのオランダ国立美術館を訪問する。 | |||
7月1日 | サン=ラザール駅近くの、サン-ペテルスプール街4番地の2階にアトリエを移転。 | |||
8月 | 妻シュザンヌとオランダに旅行する。 | |||
1873 | 41歳 | 5月 | 《ル・ボン・ボック》と《休息(ベルトモリゾの肖像)》がサロンで入選する。 | |
7月 | ベル=シュル=メール近くのユタプルに向けて家族とともに旅立つ。 | 《鉄道》 |
||
9月 | パリへ戻り、詩人ステファヌ・マラルメに出会う。 | |||
11月18日 | 5点の作品を著名なバリトン歌手フォールに売却する。彼はマネの最も重要なパトロンとなる。 | |||
12月25日 | 小説家フェルバックスは、マネのアトリエ訪問記を『ル・フィガロ』誌に掲載する。 | |||
1874 | 42歳 | 2月20日 | 2点のリトグラフ《少年と犬》と《バリケード》を出版する。 | |
4月12日 | 《鉄道》と水彩画の《プルチネッラ》はサロンに入選するが、 《燕》と《オペラ座の仮装舞踏会》は落選する。マラルメはこれに対する抗議文が 『ルネサンス』誌に発表し、二人の友情が固まる。 | |||
5月15日 | カプシーヌ大通りにあるナダール画廊で、画家、彫刻家、版画家、彫板師の匿名の協会が組織した「第1回印象派展」が開幕する。マネは参加の招待を受けていたが参加を断り、最後まで「印象派展」には加わらなかった。 | 《アトリエのクロード・モネ》 |
||
. | リトグラフ《プルチネッラ(道化役者)》に添える詩の提供を友人たちに求め、テオドール・ド・バンヴイルから送られた対句を選ぶ。 | |||
6月16日 | カラーリトグラフ《プルチネッラ(道化役者)》を出版する。 | |||
. | バンヴィルの『レ・バラッド』のためのエッチングによる挿絵を試みる。 | |||
8月 | モネの家族が住むアルジャントウイユ近くのジュヌヴィリエに滞在し、《アルジャントゥイユ》《アトリエのクロード・モネ》《庭の中のモネの家族》を制作する。滞在中にルノワールが彼らを訪問する。 | |||
9月 | パリに戻る。 | 《洗濯》 |
||
12月 | シャルル・クロスによる詩『河』が出版される。マネによる8枚のエッチングが挿絵として添えられている。 | |||
12月22日 | 弟のウジェーヌとベルト・モリゾが結婚する。 | |||
1875 | 43歳 | 5月 | 《アルジャントゥイユ》がサロンに入選する。 | |
. | ロンドン族行を計画する。 | |||
10月 | 妻とジェームズ・ティソとともにヴェネツィアを旅行する。 | |||
1876 | 44歳 | 4月 | 《洗濯》と《芸術家》がサロンに落選する。 | |
4月15日 〜5月1日 |
落選した作品を他の作品とともに公表するために、彼のアトリエを午前10時から午後5時まで一般に公開する。大勢の訪問者の中にメリー・ローランがいた。 | |||
7月 | モンジュロンのオシュデ邸に妻と2週間滞在し、作品を数点制作する。 | 《ナナ》 |
||
. | 左足に運動失調の症状を覚える。 | |||
1877 | 45歳 | 3月19日 | 『ル・フィガロ』誌の美術評論家アルベール・ヴォルフに、印象派に好意的な記事を書くよう依頼する。 | |
4月 | 2点の油彩画をサロン審査会に出品する。 《ハムレットに扮したフォール》は入選し、自然主義的作品の《ナナ》は落選する。 | |||
5月1日 | 《ナナ》がカブシーヌ大通りにあるジルーの高級洋品店のショーウインドウに展示される。 | |||
1878 | 46歳 | 1月 | 万国博覧会会場付近で作品100点による個展開催を計画するが実現しなかった。 | |
6月5日 | オシュデが破産し、彼の印象派コレクションが競売にかけられる。裁判所の命令で最低価格なしで提供された5点の作品は安値で売却される。 | 《舟遊び》 |
||
7月 | サン=ペテルスプール街のアトリエを立ち退くよう強いられ、アムステルダム街70番地のスウェーデン人の画家オットー・ローゼンのアトリエに移る。 | |||
1879 | 47歳 | 2月 | 版画家アンリ・ゲラ-ルとエヴァ・ゴンザレスが結婚する。 | |
4月1日 | 彼の最後のアトリエを,アムステルダム街77番地に構える。 | |||
4月10日 | 新市庁舎の市議会ホール装飾案をセーヌ県知事に提出するが失敗。 | |||
5月 | 《舟遊び》と《温室のギュメ夫妻》がサロンに入選する。 | |||
春 | アイルランド人批評家ジョージ・ムーアに出会う。 | |||
6月 | ゾラによるパリの現代芸術に関する記事が、サンクトペテルブルクで出版されそいる雑誌『ヨーロッパ通信』の中でロシア語に翻訳され発表される。 | 《パレットを持つ自画像》 |
||
7月29日 | ゾラとマネの破局が『ル・フィガロ』紙で報告される。アドルフ・ラコは、ゾラの記事のロシア語への翻訳の一節を引用し、そこでは原文ではモネの名前であるところがマネの名前に置き換わっている。この誤りは、ゾラとマネの手紙のやり取りを導いた。 | |||
9-10月 | リウマチの治療のためベルヴューで6週間療養する。歌手エミリー・アンプルに会い,彼女の肖像画を描く。 | |||
12月 | 『近代生活』誌のギャラリーで、描かれたタンバリンの展覧会が開催される。そのうちの1点はマネによるもの。 | |||
1880 | 48歳 | 1月 | エミリー・アンプルによって企画され、《皇帝マクシミリアンの処刑》がニューヨーク及びボストンで展示される。 | |
著しく健康状態が悪化する。 | 《ラテュイユ親父の店》 |
|||
3月 | 『近代生活』誌のギャラリーで装飾されたダチョウの卵の展覧会。そのうちの1点がマネによる《プルチネッラ(道化役者)》。 | |||
4月8-30日 | 出版社を経営するシャルパンティエによって企画された「エドゥアール・マネの新作」展が『近代生活』誌のギャラリーで開催される。 | |||
5月 | 《アントナン・プルーストの肖像》と《ラテュイユ親父の店》をサロン展示する。 | |||
7-9月 又は10月 |
シルデイ医師は水治療法と田舎での休息を指示され、マネはベルヴューのガルド街に小さな家を借り治療、戸外での制作をする。エヴァ・ゴンザレス,イザベル・ルモニエ、ザカリー・アストリュクらに宛てて手紙を書き、水彩を描いて楽しむ。 | |||
9月 | パリに戻る。 | 《秋》 |
||
10-11月 | マルセイユで、市当局によって購入されることを期待して油彩画1点を展示。 | |||
1881 | 49歳 | 5月 | 《アンリ・ロシュフォールの肖像》《ライオン狩りのべルテュイゼの肖像》をサロンに出品し、 2等賞を受賞する。 | |
. | 女優ジャンヌ・マルシーをモデルに《春》を制作する。 | |||
6月末 | 治療のためパリを去り、ヴェルサイユのヴイルヌーヴ-レタン大通りに別荘を借り、家族と共に夏の間滞在する。 | |||
10月 | パリへ戻り、女優マリー・ローランをモデルに《秋》を制作する。この秋の間、多忙に活動する。 | |||
10月22日 | 主任機関士メイエから《機関士と火夫の乗る蒸気機関草の習作》の制作許可を得る。 | |||
12月末 | マネはプルーストの尽力で、レジオン・ド・ヌール勲章騎士章を授与する。 | 《フォリー・ベルジェールの酒場》 |
||
1882 | 50歳 | 1月 | 健康状態が悪化する。 | |
7-10月 | 《フォリー・ベルジェールの酒場》と《春(ジャンヌ・ド・マルシー)》をサロンへ出品し、大成功を博す。 | |||
リュエルの別荘に滞在し、静物や庭や家を描く。 | ||||
. | 彼のただ一人の相続人として妻シュザンヌを,そしてそれら全てをレオン・レーンホフに相続させるよう遺書を書く。また、デュレを遺言執行人に指名し、彼のアトリエの作品を競売にかけるよう命じ,競売にかけるか処分すべきかの判断を一任した。 | 《カフェ・コンセールの歌手》 |
||
1883 | . | 2-3月 | 《カフェ・コンセールの角》をリヨンのサロン・デ・ボザールで展示。 | |
4月 | フランシス・ドゥフユイユに細密画のレッスンを頼む。 | |||
4月20日 | 左足が壊疸のため切断する。 | |||
4月30日 | サン・ペテルスブールにて死去。 | |||
5月3日 | サン・ルイ・ダンタンにて葬儀が行われ、バッシーの共同墓地に埋葬。 |