1832[パ  リ]  1883[パ  リ]

 写実主義と印象主義の両方に通じる資質を持つフランスの画家。16歳の時に海軍士官となるため、商船の見習い船員になるが、航海中に絵を描き始め、1850年にアカデミー派の画家クテュールに師事し、6年間修業する。

 新しい絵画スタイルは伝統の枠内でしか確立できないと信じたマネは、ルーヴル美術館で巨匠の作品を模写し、1852年からオランダ、ドイツ、イタリアなどの旅をする。マネが特に興味を持った画家は、ヴェネツィア派や、色彩の研究に力を注いだ17世紀オランダの画家たちだった。

 マネの初期の重要な作品《アブサンを飲む男》は、ドラクロワに評価されたが、1859年のパリのサロンで落選した。サロンで入選したマネの作品は数少ないが、2年後に入選した《ギタレロ》はその一つである。

 マネは1862年にスペインの舞踊団を題材に連作を描き、1863年には《草上の昼食》《オランピア》を制作し、印象派絵画を代表する作品として不動の地位を得る。この二つの作品は、画題と非アカデミックな制作手法により、近代美術史上最大のスキャンダルを巻き起こした。マネは、量感・遠近法・明暗・ぼかしを排除、平面的な形態をはっきりした輪郭線で描き、明るい色と暗い色を隣合わせに置いて大胆なコントラストを生み出した。

 《笛吹く少年》《バルコニー》などのマネの作品には、強烈な色彩を平坦に塗る技法に浮世絵の影響が見受けられ、使用する色彩の範囲と構図の要素には、ゴヤとベラスケスの影響が表れている。

 マネはわずかな期間印象派に傾倒し、カフェ・ゲルボアでの若い画家の集まりに参加した。《舟遊び》《ボートのアトリエのモネ》にその影響が見られるが、自らグループを脱退、共同展覧会への参加を拒否した。印象派の彼らと異なり、マネは風景よりも人物を好み、印象派特有の補色の規則を無視した色彩と配色を用いた。
 晩年には親友のゾラなどの影響で《ナナ》など自然主義的な作品を描くようになる。

マネのタイトル・カラーは、印象派禁断の色をイメージとしました。】