年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1840 | 0歳 | 11月14日 | パリのラフィット街45番地の生まれる。父はクロード・アドルフ・モネ、母はルイーズ・ジュステイーヌ・オーブレで、食料品商の長男として生まれた。 | . |
1845 | 5歳 | . | 家業がふるわず、一家はノルマンディーのル・アーヴルの海に近いサン=タドレスの郊外にに移住。モネの父はサン・タドレスで船具・輸入雑貨商を営んでいた異父姉マリー=ジャンヌの夫ジャック・ルカードルの営む食料品の卸売り業を手伝う。 | . |
1851 | 11歳 | 4月1日 | クロードはル・アーヴル市のラ・マユレー街の公立中学校に入学。 | 戯画・画家 |
1856 | 16歳 | . | ダヴィッドの弟子で、モネが通った学校の教師でもあった、フランソワ・シャルル・オシャールのもとでデッサンを学ぶ。教師などの戯画が得意で、土地の額縁店のショーウインドーにこれらの戯画を展示し、人々の人気の的となる。その絵を1枚10フランのちには20フランでオスカール=クロード・モネの著名人りで売った。 | |
1857 | 17歳 | 1月28日 | 母ルイーズ・ジュステイーヌが51歳で死去。 叔母のマリー=ジャンヌ・ルカードル夫人が母親代わりになる。 |
|
夏 | コレージュを退学し、恐らくそのまま進学せずに伯父ルカードルの仕事を手伝う。 | |||
1858 | 18歳 | . | モネの素質を最初に見抜いた、画家ウジェーヌ・ブーダンに出会う。彼はモネに風景画を描くことを勧め、一緒に戸外で制作する。 このプーダンとの出会いが、モネに自然に対して眼を開かせる。そして自然がモネの一生のモティーフになっていく。 |
《ルエルの眺め》 |
8月〜9月 | ル・アーヴルで開かれた市の美術展に、ル・アーブルの北東に接するルエルを訪れた時に初めて描いた油彩画《ルエルの眺め》が、ルーアンの展覧会でブーダンの4点の作品と並んで展示された。モネは次第に画家になる決意を固めたが、父のアドルフも最初のうちはこれに賛成し、パリで絵を学ばせるためにル・アーヴル市に対し奨学金の申請をしている。 | |||
1859 | 19歳 | 5月 | 開催されているサロンに合わせてパリに行き、サロンでトロワイヨンやドービニーに惹かれる。ブーダンの紹介で、バルビゾン派の画家トロワイヨンに会う。この頃ドービニーの作品にも強く惹かれる。 | 20歳頃のモネ |
美術学校の入学試験に失敗、両親は2か月しかパリ滞在を許さなかったが、モネは強引にパリにとどまるが、両親からは仕送りを断たれる。 | ||||
1860 | 20歳 | 2月 | モンマルトルのピガール街に移り、「アカデミー・シュイス」でバルビゾン派の画家シャルル・ジャックに指導を受ける。ここには将来の印象派のグループが通っており、ピサロと出会い、一緒にマルテイル街の料理店「ブラスリー・デ・マルテイル」に出入りする。この店はクールベを中心に写実主義者の芸術家で賑わい、ボードレールやデュランティも姿を見せた。若いモネとピサロはクールベ等を垣間見て夜を過ごした。 | |
4月 | シャンピーニ・シュル・マルヌで、風景画を数点制作。 | アトリエの静物画 |
||
秋 | ブールヴアール・デ・ジクリアンで開かれた絵画展のドラクロワの作品に惹かれる。 | |||
1861 | 21歳 | 3月 | 徴兵はアルジェリアのアフリカ騎兵隊を希望し入隊する。入隊時の記録によればモネは目、髪とも褐色で身長は1メートル65センチであった。 | |
. | 北アフリカのアルジェリアの明るい色彩と光はモネを魅了する。また、許可を得て絵を描く時間もあり、隊長夫人の肖像を描いたりする。 | |||
1862 | 22歳 | 1月 | 貧血性のため、6カ月間除隊してル・アーヴルに戻る。 | ノルマンディーの農園 |
9月末 | ブーダンのほかに、制作中偶然に会ったヨンキントとも一緒にサン・タドレスやオンフルールで制作し、以後深い友情に結ばれる。 ブーダンは繊細、ヨンキントは大胆、実に熱心で誠実なこの2人の画家の傍らで、大自然をアトリエにモネは本当の修行をした。 |
|||
秋の終り | パリのシャルル・グレールのアトリエに入り、間もなくバジール、ルノワール、シスレーらと知り合う。 | |||
11月21日 | 父はモネの健康がすぐれないので、残り4年間の兵役免除の申請をし、納付金を納め、兵役から解放されモネは正式に除隊する。 | |||
1863 | 23歳 | 3月 | イタリア通りのマネの個展に強い印象を受け、感化される。 | フォンテーヌブローのシャイイの道 |
4月 | グレールの教えに不満だったモネは、復活祭の休暇にバジール、ルノワール、シスレーを誘って、フォンテンブローの森にある小さな村、シャイイ・アン・ジュールで過ごし、外光の下で、バルビゾン派の影響の濃い風景画を描く。 | |||
夏〜10月 | ル・アーヴルとサン=タドレスで過ごした後、10月にパリに戻る。 | |||
年末 | グレールのアトリエ閉鎖。 | |||
1864 | 24歳 | 4月 | 復活祭の休暇を再びシャイイで過ごす。 | サン=シメオン農場の道 |
5月下旬 | オンフルールでブーダン、ヨンキント、バジールと制作。 トゥルーヴィルへの道沿いにあった、サン=シメオン農場のなかの「トウ一夕ンおばさんの家」に宿泊した。 |
|||
7月 | サン=タドレスに家族を訪ねるが、激しい口論の末再び仕送りを断たれる。 | |||
10月 | 《春の花々》をルーアンで開催された美術展に出品し、その間、ルーアンに滞在する。 | |||
12月 | 持ち金もほとんどなくなり、寂しくパリに戻る。 | |||
1865 | 25歳 | 1月21日 | バジールはお金に困窮していたモネと共同で、フュルスタンベール通り6番地にアトリエを借りる。それはサン・ジェルマン・デ・プレ教会に面していた。 | オンフルールのセーヌ河口 |
3月 | 後に妻となる、リヨン出身の19歳のカミーユ=レオニー・ドンシューと知り合い、同棲を始める。 | |||
5月 | サロンに《オンフルールのセーヌ河口》と《干潮のエーヴ岬》の2点を出品し、いずれも入選する。ポール・マンツによって『ガゼット・デ・ボザール』誌に、好意的に紹介される。 | |||
春〜夏 | 大半をシャイイで過ごし、8月にモデルの一人のバジールを迎え《草上の昼食》を手がける。モネがクールベの訪問を受けたのはこの作品を制作中の時で、これが巨匠と新進画家との絶えることのない交際の始まりとなった。《草上の昼食》は「外光派」という名に相応しく、フォンテーヌブローの森で描かれ、まさしく絵画制作の革命となった。 | 草上の昼食 |
||
秋 | アメリカの画家ホイッスラーと知り合う。またトゥルーヴイルで、クールベ、ブーダン、ドービニー等と制作する。 | |||
1866 | 26歳 | 4月後半 | パリの西の外れのヴィル・ダヴレーに近いセーヴルに小さな家を借りて移り住む。この家で、翌年のサロンに出品されることになる、カミーユだけをモデルに4人の女たちの《庭の女たち》を制作する。 | 緑衣の女 |
5月3日 | 大作《草上の昼食》の出品を見あわせ、恋人のカミーユをモデルにした《緑衣の女》と《シャイイの道》の2点ををサロンに出品し2点とも入選する。ゾラなどの批評家に歓迎され、家族もこの成功に安心して仕送りを再開する。 | |||
夏 | 借金を払い切れなくなりセーヴルを去ってノルマンディーに向かい、サン=タドレスとオンフルールに滞在する。サン=タドレスでは《海辺のテラス》を描く。オンフルールではホテル、シュヴァル=ブランに部屋を借りて、海岸の風景を盛んに描いた。またセーヴルで制作を始めた《庭の女たち》も、このホテルの部屋で完成する。 | |||
1867 | 27歳 | 2月 | オンフルールを離れ、パリのサンジェルマン・デプレ近くのヴィスコンティ街に住むバジールの所に、ルノワールとともにしばらく身を寄せる。 | 庭の女たち |
3月 | 《庭の女たち》と《オンフルールの港》をサロンに出品するが、2点とも落選する。ルノワール、シスレー、バジール、ピサロらも同様の結果となり、憤慨した彼らは、落選者展のような独自の展覧会を計画するが、資金不足のために挫折する。 モネの窮乏を見かねたバジールは2,500フランという高額で《庭の女たち》を購入し、月々50フランの分割払いで支払うことを約束した。 |
|||
7月 | 一時目を病む。 | |||
8月8日 | カミーユ、パリで第一子の長男ジャンを産む。しかしモネは生活費を切り詰めるためにカミーユとジャンをパリに残し、一人サン=タドレスの叔母の家に滞在していた。 | |||
. | ここで《サン=タドレスのテラス》をはじめとする、初期の代表的な海景画を多数描く。 | サン=タドレスのテラス |
||
1868 | 28歳 | 3月 | サロンに出品した《ル・アーヴルの港の出船》がドービニーの推薦により入選。ゾラが再び好意的を批評をする。 | |
春 | ゾラの勧めにより、パリ郊外のベンヌクールの小さな部落グロトンにしばらく滞在。 | |||
5月 | ベンヌクールに部屋を借り、カミーユ、ジャンとともに落ち着く。 | |||
6月末 | 家主に追いたてられ、両親に勘当され、パジールに宛てた手紙の中で、投身自殺を企てたと述べている。 | |||
パリにいったん戻った後、プーダンの招きでル・アーヴルで開かれた『国際海洋画展』に参加し、モネは絵画部門に5点を出品し銀賞を得る。そこでクールベと、当時ル・アーヴルに滞在していたアレクサンドル・デゴマに出会う。 | 午餐 |
|||
夏 | カミーユ、ジャンとともにノルマンディのフェカンに行き、制作する。 | |||
9月 | ル・アーヴルの富裕な船主ゴーディベール夫妻の好意で、同夫妻の肖像や《午餐》などを制作する。彼らはまた前々年のサロンに出品した《緑衣の女》を800フランで購入する。これらの収益で、また制作を再開できるようになる。 | |||
冬 | 再び父からの仕送りが断たれ、パリに出る。 | |||
1869 | 29歳 | 4月 | モネを支援していたルカードル伯母との関係が悪化し、ノルマンデーを離れてパリに戻る。 | ラ・グルヌイエール |
春 | サロンに応募した、パリとサン=タドレスの2点の風景画はいずれも落選する。画材店主のラトューシュがショーウインドウに飾る。 | |||
夏 | ブージヴァルで制作し、そのすぐ隣の小さな部落サン=ミシェルの農家で生活する。ルノワールはこのサン=ミシェルの隣のルーヴシェンヌに両親とともに暮らしており、2人の画家は画架を並べて、近くのセーヌ河畔の有名な行楽地ラ・グルヌイエールで制作をともにし、印象主義の先駆を思わせるきらめく水辺の風景《ラ・グルヌイエール》を描いた。 | |||
秋 | エトルタ、ル・アーヴルに出かけ、サン・ミッシェルのカミーユのもとに戻る。両親はかたくなに援助を拒み続けている。 | |||
. | 度々、パリを訪れ「カフェ・ゲルボワ」の集まりに出席した。 | |||
1870 | 30歳 | 春 | サロンに幼いジャンとカミーユの姿を描いた室内画《午餐》と《ラ・グルヌイエール》の2点をサロンに応募するがいずれも落選する。 | カミーユ・モネの肖像 |
6月26日 | パリ8区の区役所でカミーユ・ドンシュウと正式に結婚、4人の立会人の中にはクールベの姿もあった。 | |||
夏の初め | ブージヴァルからトルーヴィルに向かい、ホテル・チヴォリに滞在する。間もなくプーダンも滞在し、ともに海景画を数多く描く。 | |||
7月19日 | 普仏戦争が勃発、バジールは従軍し、11月18日に戦死する。 | |||
9月 | カミーユをブーダンに託して、モネは徴兵を逃れてロンドンに発つ。ロンドンでドービニーとピサロに会い、ピサロと一緒にテームズ河やロンドンの公園などを描く。 ドービニーからは画商デュラン=リュエルを紹介される。彼はモネや印象派の画家たちに信頼をおき、終始授助した。 |
|||
1871 | 31歳 | 1月17日 | 父アドルフがサン=タドレスで亡くなり、遺産が入る。 | テームズ河と国会議事堂 |
1月28日 | 普仏戦争の休戦協定が結ばれる。 | |||
春 | ピサロとともにナショナル・ギャラリーやサウス・ケンジントン美術館をめぐり、ターナー、コンスタブルらのイギリス風景画家に興味をもつ。 | |||
5月 | サウス=ケンシントン美術館で開かれた国際美術展にデュラン=リュエルがモネの作品2点を出品する。 | |||
5月末 | ロンドンを離れ、オランダに向かい、アムステルタム近くのザーンタムに滞在し、港、運河、家々、教会、とりわけ風車に魅了される。 また、オランダでは浮世絵版画を買い求め、これらの版画から大胆なトリミングと色彩による新しい方向を発見する。 |
ザーンダムの風車 |
||
秋 | パリに戻り、「カフェ・ゲルボワ」で動乱を生き残った仲間に再会する。サン=ラザール駅近くのホテルにしばらく滞在する。 | |||
12月 | マネの援助で、アルジャントゥイユの小さを家に移る。花の植えてある庭は、それ以後生涯を通じて園芸に対する愛を育てるのに幸いした。そして何よりもまず水の画家といえるモネは、セーヌ河に魅せられる。 シスレー、マネ、ルノワールと一緒に制作したのもこの頃である。 |
|||
1872 | 32歳 | 3月 | 兄レオンの勧めによりルーアンを訪れ、同市で開かれた美術展に2点の作品を出品。そのうち1点はレオンが800フランで購入する。 | ルノワール画 庭で制作するモネ |
春 | ル・アーヴルやその近くで《印象:日の出》などを制作。 | |||
夏 | オランダを再訪し、運河風景を描く。 | |||
秋 | アルジャントゥイユでルノワールとともにしばしば制作。 | |||
. | この年デュラン=リュエルはモネの作品29点を9,800フランで購入。この画商は以後継続的にモネの作品を購入するようになり、画家の生活はようやく安定する。 | |||
1873 | 33歳 | 4月 | ピサロ、シスレー、ルノワールらとともにサロンとは別の、独立したグループ展を開催する計画をたてる。 | 舟の上のアトリエ |
春、夏 | ル・アーヴルの港を描く。アマチュア画家で裕福な収集家であるカイユポットと知り合う。彼はモネを経済的に授肋する。 | |||
. | アルジャントゥイユでは、舟を改造して水上のアトリエを作り、セーヌに浮かべてアルジャントゥイユの河岸の風景を描く。 | |||
12月27日 | 様々な議論を経た後、この日ようやく印象派憲章が成立し、「画家・彫刻家・版画家等の芸術家株式会社」を設立し、モネはグループの指導者となり、マネが1870まで果たしていた役割を担う。 | |||
. | 印象派の作品を積極的に購入していたデュラン=リュエルが経済的な苦境に陥り、作品購入を中断したため、たちまちモネの生活は苦しくなる。 | 印象:日の出 |
||
1874 | 34歳 | 1月 | ル・アーヴルに滞在。その後オランダに2度目の旅行をし、主にアムステルダムに滞在する。 | |
4月15日〜 5月15日 |
パリの写真家ナダールのスタジオで第1回印象派展(キャプシーヌ大通り35番地)が開催される。参加者はセザンヌ、ドガ、モリゾ、ピサロ、ブーダン、ルノワール、シスレー等。モネは《印象:日の出》など5点、パステル7点の計12点を出品。世評は好意的ではなく、評論家のルイ・ルロワはモネの出品作《印象:日の出》を前に眉をひそめ、皮肉たっぷりにこのグループを「印象派」と名づけた。 | |||
夏 | 家賃を滞納したために家の立ち退きを迫られ、マネの紹介ですぐ近くの家に移る。モネ、ルノワール、マネの3人はアルジャントゥイユで一緒に制作し、その折りマネとルノワールは、モネ夫人と息子ジャンが庭でくつろぐ姿をほぼ同じ構図に描いている。 | ルノワール画 |
||
12月 | 「芸術家株式会社」は破産によって1年で解散する。 | |||
1875 | 35歳 | 3月24日 | オテル・ドゥルオでデュラン=リュエルによる印象派作品の競売に20点のモネの作品も出るが、価格は2,825フランと低調でモネの貧窮はひどく、マネに20フランの借金を申し込むほどであった。 | |
7月 | 妻カミーユが病気になる。 | |||
冬 | パリで《ラ・ジャボネーズ》を制作。 | ラ・ジャボネーズ |
||
1876 | 36歳 | 2月 | セザンヌの紹介でコレクターのヴィクトール・ショケと出会う。 | |
4月11日〜 5月9日 |
デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展(ル・ペルティエ通り11番地)が開催され、モネは18点を出品したが、今回も世評は冷淡であった。しかしモネの出品作《ラ・ジャボネーズ》は2,000フランで売れる。 | |||
夏 | パリの百貨店経営者で、2年ほど前から美術品の収集に情熱を傾けていたエルネスト・オシュデと知り合う。 | |||
夏の終り | パリ近郊のモンジュロンにあるオシュデの別荘、ロッテンブール城に招かれ、《七面鳥》などを描く。 | |||
1877 | 37歳 | 1月上旬 | 《サン=ラザール駅》を描くために、駅に近いモンシー街17番地に部屋を借り、12点の作品を描く。 | サン=ラザール駅 |
4月4日 〜30日 |
デュラン=リュエル画廊の近くのアパートで開催された第3回印象派展(ル・プルティエ通り6番地)に、モネは《サン=ラザール駅》の8点を含め31点出品する。 | |||
5月28日 | オテル・ドゥルオで2回目の競売が行われるが、モネは参加しない。 夏、オシュデ夫人や娘たちを描く。 |
|||
夏 | オシュデ夫人や娘たちを描く。 | |||
8月24日 | モネを支えてきたオシュデが絵画への投機が行き過ぎて破産し、モネの生活はますます苦しくなる。 | |||
秋〜冬 | パリで、金に窮して作品1点40〜50フランの安値でショッケに譲る。 | |||
1878 | 38歳 | 1月20日 | モネはマネ、ド・ペリオ、カイユポットから借金をして、滞った家賃を支払ってアルジャントゥイユの家を引き払う。パリのユダンブール街26番地に移り、その後、ヴェトゥイユに住む。 | アリス・オシュデ夫人 |
3月17日 | パリのカミーユの両親の家で、次男ミシェルが生まれる。 | |||
6月6日 | オシュデが収集した印象派絵画をオテル・ドゥルオで競売にかけるが、モネの作品16点の売上げ総額は2,415フランに過ぎず、最低価格の作品はわずか35フランと低調だった。 | |||
9月 | セーヌ河の下流の小さな村ヴェトゥイユに家を借りて住む。後援者のオシュデ夫人は娘四人、息子二人を連れて身を寄せ、12人の大家族となる。モネは夢中になってヴェトゥイユ周辺を歩きまわり、制作している。 | |||
冬 | 一文無しになって一時パンも画材も買えなくなる。 | |||
1879 | 39歳 | 4月10日〜 5月11日 |
第4回印象派展(オペラ座大通り28番地)が開催され、モネは29点を出品する。モネは当初この第4回展には出品しないつもりであったが、カイユポットの強い勧めにより参加することになった。 | 死の床のカミーユ・モネ |
夏 | ヴェトゥイユ近くのひなげしの野やラヴァクールやセーヌ河風景を描く。 | |||
9月5日 | 病気がちのカミーユはオシュデ夫人アリスの親身の看護にも拘らず回復せず、わずか32歳の若さでカミーユがこの世を去る。以後、アリス・オシュデがモネの2人の息子と自分の6人の子供の世話を引き受ける。 | |||
冬 | 厳しい冬のヴェトゥイユ、セーヌ河の解氷や雪景色の風景を描いた傑作を生む。 | |||
1880 | 40歳 | 1月 | セーヌ河の凍結とそれに続く解氷の様子を繰り返し描く。 | ラヴァクール |
4月1日 〜30日 |
第5回印象派展(ピラミッド街10番地)が開催されたが、モネ、ルノワール、シスレーはドガと意見が対立し参加しない。 | |||
5月 | サロンに応募した2点のうち《ラヴァクール》1点が1870年以来はじめて入選。これがサロンへの最後の出品となった。 | |||
6月21日 | ルノワールのパトロンで芸術・社会雑誌「近代生活」のジョルジュ・シャルパンティエが経営する画廊「ラ・ヴィ・モデルヌ」で個展を開催し、テオドール・デュレがカタログに序文を寄せる。18点を出品した内の1点《氷塊》をシャルパンティエ夫人が夫への贈物として買い上げる。この展覧会が評判となり、次第に作品の注文を受けるようになる。 | |||
9月 | 兄レオンの招きによりルーアンを訪れ、その後しばらくノルマンデーに滞在する。 | デュラン=リュエル |
||
1881 | 41歳 | . | デュラン=リュエルから費用を前借りして、ノルマンディ沿岸のディエップ、フェカン、プールヴィル、ヴァランジュヴィル、エトルタ、トゥルーヴィルなど各地に滞在して制作する。 | |
4月2日〜 5月1日 |
ドガを中心とした第6回印象派展(キャプシーヌ大通り35番地)が開催されるが、モネは出品しない。 | |||
12月10日 | ヴェトゥイユからセーヌ河沿いのポワッシーに移る。アリス・オシュデは夫の意志に反し、子供たちとモネについていく。 | |||
1882 | 42歳 | 2月 | 最も重要な支援者の一人が破産したため、デュラン=リュエルは画家への経済的な援助を控えるようになる。 | ヴァランジュヴィルの税関吏小屋 |
2月〜4月 | ノルマンディー沿岸のディエップとプールヴィルで制作する。 | |||
3月1日 〜4月2日 |
第7回印象派展(サン=トノレ街251番地)はデュラン=リュエルが率先し開催され、再びモネも35点を出品する。 印象派の画家たちのほとんどが参加し、みな印象派のスタイルで描き、それぞれ相当数の作品を展示する。その結果、今まで以上に均質化された展覧会となる。批評も以前に比べ好意的なものになった。 |
|||
6月末 | 家族とともにプールヴィルのヴィラ・ジュリエットに滞在する。英仏海峡に臨むディエップ、ヴァランジュヴィルを描いた。 | |||
10月初め | ポワッシーに戻る。 | |||
12月 | 洪水に遭遇する。 | |||
1883 | 43歳 | 1月25日 | 再びノルマンデーに向かい、一週間ほどル・アーヴルに滞在した後、2月末までエトルタで制作。 | 43歳のクロード・モネ |
2月28日 | マドレーヌ大通りに新しく開店したデュラン=リュエルの画廊で、モネの回顧展が開かれ、初期から最近作まで56点の作品が出品される。ピサロなど批評は好意的だが売れ行きが悪く、モネは展示方法や作品の選択、宣伝方法などの点でデュラン=リュエルを激しく非難した。 | |||
4月 | ポワッシーを去り、セーヌ河とエプト川の合流する寒村、ジヴェルニーに移る。そこでの花咲く果樹園、野原と牧場、柳とポプラ、季節のよいときも、霧が漂い雪が積もるときにもすべてが絵になり、モネを惹きつける。 | |||
5月3日 | マネの葬儀に参列するためにパリを訪れる。 | |||
12月 | 前年5月に依頼されたデュラン=リュエルのパリの邸宅の客間のドアの花を主題にした装飾絵画を集中的に描く。 | ボルディゲラのストラダ・ロマーノ |
||
12月16日 | ルノワールとともに初めてイタリアのリヴィエラに出かけ、マルセイユからジェノヴァまで足をのばす。帰りにエスタックのセザンヌを訪問。 | |||
1884 | 44歳 | 1月17日 | 単身ジヴェルニーを発ち、地中海沿岸のリヴィエラを再訪し、フランス国境に近い保養地ボルディゲラに2ヵ月半、その後、マントンに移り2週間滞在する。そこで光と格闘しながら制作に熱中し、50点以上の習作を残す。 | |
4月14日 | ジヴェルニーに戻る。 | |||
11月17日 | デュラン=リュエルの紹介で、モネの芸術を高く評価した作家のオクターヴ・ミルボーと会う。 | |||
1885 | 45歳 | 1月〜2月 | ジヴェルニーで雪景色のシリーズを制作。 | デュラン=リュエルのドア装飾画 花瓶の白いつつじ |
3月 | デュラン=リュエル邸宅のドア装飾絵画の完成に専念する。 | |||
5月15日 | パリのジョルジュ・プチ画廊で開かれた国際画家展に10点ほどの作品を出品。印象派に敵対していた批評家のアルベール・ヴォルフがモネを賞賛する。経営難に瀕していたデュラン=リュエルはベルギー、オランダ、アメリカなどの外国で作品を売ることを考え始めるが、モネは美的感覚を理由に反対する。 | |||
9月末 | 家族とともにエトルタに出かける。アリスと子供たちは10月10日にジヴェルニーに戻る。 | |||
10月 | モネに心酔していたモーパッサンの訪問をうける。 | |||
12月中旬 | ジヴェルニーに戻る。 | |||
1886 | 46歳 | 2月 | ブリュッセルで開かれたレ・ヴァン(20人会)展に10点を出品。 | チューリップ畑 |
2月〜3月 | 再びエトルタに滞在。 | |||
4月 | ゾラの小説『制作』が発表され、モデルにされた印象派の画家たちとゾラの関係が悪化する。 | |||
4月〜6月 | ニューヨークでデュラン=リュエルが初めての印象派の展覧会を開催する。モネの作品48点を出品。 | |||
4月末〜5月 | オランダのハーレムとデン・ハーグを2週間旅行して、花盛りのチューリップ畑を描く。 オシュデ夫人アリスとの別れ話が出て、不安定を愛人関係に苦しむ。 |
|||
5月15日 〜6月15日 |
最後の第8回印象派展(ラフィツト街1番地)が開催されるが、モネは参加しない。 | ポール・コトンの尖塔 |
||
6月15日 | ジョルジュ・プティ画廊で第5回国際画家・版画家展が開かれ、モネは13点を出品し、高い評価を受ける。 | |||
9月 | エトルタを訪れブルターニュの大西洋のペリール島に3ヶ月滞在して40点余の作品を描く。 | |||
10月2日 | ペリール島で美術批評家のギュスターヴ・ジェフロワに出会う。ジェフロフは政治家ジョルジュ・クレマンソーの雑誌「ラ・シュスティス(正義)」に好意的な芸術批評を書き、モネを支援した。後にモネの伝記を執筆。 | |||
1887 | 47歳 | 5月8日 〜6月8日 |
ジョルジュ・プティ画廊で第6回国際画家・版画家展が開かれ、ペリールで制作した10点を含む15点の作品を出品、大成功を収める。 | ベリールの嵐 |
5月下旬 | 2週間ほどロンドンを訪れ、ホイッスラーの歓迎を受ける。 | |||
5月〜6月 | ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインでデュラン=リュエルが再び印象派の展覧会を開催し、モネの作品12点を出品する。 | |||
11月 | ホイッスラーの招待でロンドンの展覧会に4点を出品。 | |||
1888 | 48歳 | 1月〜5月 | 南仏のコート・ダジュールのアンティーブとジャン・レ・パンで制作。 | アンティーブの古城 |
5月 | デュラン=リュエル画廊での印象派絵画展に、頑固に出品を断わる。 | |||
6月〜7月 | アンティーブで制作した10点が、ゴッホの弟テオが勤めていたパリのブソ・エ・ヴァラドン画廊で展示され、好評を得る。ジョルジュ・プティとの関係が悪化し、契約を打ち切る。 | |||
7月 | ロンドンに短い旅行。帰国後、レジオン・ドヌール勲章を辞退する。 | |||
夏 | ジヴェルニーで最初の《積みわら》の連作に着手する。 | |||
1889 | 49歳 | 2月下旬 | ギュスターヴ・ジェフロワに誘われて、フランス中部のクルーズ峡谷に住む詩人で音楽家のモーリス・ロリナを尋ねる。 | 49歳のクロード・モネ |
3月初め | クルーズ峡谷が気に入ったモネは、再びクルーズ県フレスリーヌ訪れたが、天候が悪く、当初は1ヵ月の予定を5月半ばまでそこに滞在し、付近の丘の風景を描く。 | |||
6月〜7月 | ジョルジュ・プティ画廊で「モネ・ロダンニ人展」を開催。初期から最近作までモネの145点を年代順に展示され、大好評を博す。カタログに、オクターヴ・ミルポー、ジェフロワの序文が寄せられる。 | |||
8月 | フランス革命100年を記念した『パリ万国博覧会』に出品されていたマネの《オランピア》がアメリカに売られることを聞いたモネは、ルーヴル美術館へ入れるための募金活動を始める。 | |||
1890 | 50歳 | . | 体調も悪く、この年の前半ほとんど制作をしない。 | 積みわら、雪の効果 |
7月 | 重症のリューマチを病む。 | |||
夏の終り | 秋から冬にかけて《積みわら》の連作を始める。一日の異なる時間に、一年の異なる季節に、光の変化でさまざまを効果を表わす積みわらの制作に熱中し、翌年にかけて20点以上の《積みわら》を完成させる。 | |||
11月 | それまで住んでいたジヴェルニーの家と土地を正式に購入し、庭園の造成に情熱を傾けるようになる。 | |||
1891 | 51歳 | 3月18日 | エルネスト・オシュデが死亡し、モネの出費でジヴェルニーに埋葬。アリスとの暖味な関係に終止符が打たれる。 | エプト河畔近郊のポプラ |
5月4日 〜16日 |
デュラン=リュエル画廊で、15点の《積みわら》の連作を含む22点のモネの近作展が開かれ、大成功を収める。 | |||
春〜秋 | ジヴェルニー自宅近くのエプト川沿いの《ポプラ並木》の連作に取り組む。 | |||
12月 | ロンドンに短い旅行。 | |||
1892 | 52歳 | 2月 | 前年に亡くなっていた義理の妹マリーの遺産相続の手続きのため、兄のレオンとル・アーヴルに向かい、その帰途ルーアンに立ち寄る。この時《大聖堂》を含むルーアンの町並みを数点描き、一旦ジヴェルニーに戻った。 | |
2月29日 〜3月10日 |
パリのデュラン=リュエル画廊で《ポプラ並木》の連作6点を含む個展を開催。 | |||
2月末 〜4月中旬 |
再びルーアンに戻り、そこに滞在して《大聖堂》の連作に着手する。 | ベンヌクルトの流氷 |
||
7月16日 | カイユポットとエルーの立会いの下に、ジヴェルニーでアリス・オシュデと正式に結婚し、安定した生活に入る。 | |||
7月20日 | 義理の娘シュザンヌがアメリカ人の画家セオドア・バトラーと結婚する。 | |||
11月 | パリ市庁舎の壁画の制作に応募するが、落選する。 | |||
1893 | 53歳 | 1月 | セーヌ河一帯は厳しい寒さに襲われ、モネはベンヌクールを中心に、解氷した河と雪に埋もれた風景を数点描く。 | |
2月 | ジヴェルニーの家のすぐ近くに新たに大きな土地を購入し、そこは将来睡蓮を浮かべる水の庭園となる。 | ルーアン大聖堂、扉口(曇り日) |
||
2月中旬 〜4月中旬 |
再びルーアンに向かい、《大聖堂》の連作に取り組む。モネは満足出来ずに、ジヴェルニーに戻ってからもアトリエで1年間その制作を続ける。 | |||
2月 | デュラン=リュエル画廊におけるビン主催の日本浮世絵版画展で、広重や歌麿らの作品に強い感銘をうける。 | |||
5月1日 | シカゴで開催の「万国博覧会」に、アメリカのコレクションで外国人画家の絵が展示され、モネや印象派の画家の作品が出品される。 | |||
1894 | 54歳 | 2月21日 | カイユポットが亡くなる。モネ作品16点を含む膨大な印象派コレクションは彼の遺志に従い国に寄贈される予定だったが、様々な反対意見が出され紛糾する。 | |
3月19日 | テオドール・デュレの印象派コレクションが競売にかけられ、モネの作品は大変な高額で売買される。自信を持ったモネは完成した《ルーアン大聖堂》に、一点につき15,000フランという価格をつけたため、デュラン=リュエルは支払いを渋る。 | ルーアン大聖堂 充満する陽光 |
||
9月 | モネは《ルーアン大聖堂》の価格を12,000フランまで下げる。 | |||
夏 | ジヴェルニーの「戸外のアトリエ」と称した庭の中で制作。 | |||
11月14日 | モネの54歳の誕生日を祝い、ジヴェルニーにセザンヌ、カサット、クレマンソー、ロダン、ジェフロワなどが来訪する。 | |||
. | 《ルーアン大聖堂》の連作の仕上げに専念し、これを出品する予定の展覧会の日取りを延ばしながら頑張る。 | |||
1895 | 55歳 | 1月末〜 4月初め |
義理の息子ジャック・オシュデが住むノルウェー、オスロ近郊のサンドヴィーケンに滞在して、フィヨルド、コルサース山、村の風景等を繰り返し描く。 | コルサース山 |
5月10日 | パリのデュラン=リュエル画廊でモネの個展が開催され、20点の《ルーアン大聖堂》など50点の作品が出品され、さらに名声が高まる。 | |||
6月 | 病いがちとなり、ピレネー山中のサリー・ド・ベアルソで療養。 | |||
1896 | 56歳 | 2月下旬 〜4月初め |
15年前に制作したノルマンディー沿岸に感傷旅行をし、プールヴイル、ヴァランジヴィル、デイエップなどで《断崖》を連作する。 | ディエップ近傍のサン・ニコラ峡谷 |
3月 | ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で14点の《ルーアン大聖堂》による個展が開催される。 | |||
4月初め | ジヴェルニーに戻り庭を描きつづける。 | |||
5月2日 | 「フィガロ」紙にゾラが「絵画」と題して論説を発表。マネやモネ、ピサロの芸術が勝利を収め、明るい絵画、色斑の絵画、反映の絵画がサロンを変貌させたと述べる。 | |||
夏 | 《セーヌ河の朝》の連作に着手する。 | セーヌ河の朝 |
||
10月〜12月 | ベルリンのナショナル・ギャラリーの展覧会に6点を出品。 | |||
冬 | モスクワとサンクトぺテルプルグでフランス美術展が開催され、モネ作品2点が出品され、《積みわら》を見たカンディンスキーが強い感銘を受ける。 | |||
1897 | 57歳 | 1月〜 4月初め |
ジヴェルニーに雪がなく、ブールヴィルに滞在してノルマンディの崖と海岸を描く。 | |
2月 | ストックホルムで個展を開催する。 | |||
4月初め | ジヴェルニーにもどり、前年に着手していた《セーヌ河の朝》18点の連作に再び取り組む。 | |||
6月9日 | 長男ジャンが義理の娘ブランシュ・オシュデとジヴェルニーで結婚する。 | 日傘をさす婦人、左向き |
||
夏 | 第2回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に20点出品され、評価が世界的なものになってゆく。 | |||
1898 | 58歳 | 5月 | デュラン=リュエル画廊の合同展で、モネのために一室が設けられる。 | |
6月〜7月 | ジョルジュ・プティ画廊で《セーヌ河の朝》の連作18点を含む、合計61点の作品による回顧展が開催される。 | |||
1899 | 59歳 | 1月29日 | シスレーが逝去する。 | |
2月6日 | 「日傘の女」のモデルになった義理の娘のシュザンヌ・バトラー=オシュデが急逝する。アリスとともに深い悲しみに打たれ、加えてシスレーの死の悲しみが襲う。 | |||
夏 | ジヴェルニーで《睡蓮の池と日本の橋》の連作にかかる。 | チャリング・クロス橋 |
||
9月中旬 | 家族でロンドンに出かけ、サヴォイ・ホテルに宿泊し《チャリング・クロス橋》などの一連のテームズ河風景の連作に着手する。ロンドンへはこの後3年間、度々出かけて制作する。 | |||
10月末 | ジヴェルニーに戻る。 | |||
1900 | 60歳 | 2月上旬 〜4月上旬 |
ロンドンのサヴォイ・ホテルに滞在し、テームズ河風景の連作を再開する。クレマンソーとジェフロワの訪問を受ける。 | |
春 | ヴェトゥイユでセーヌ河の風景を描く。 | |||
8月 | 子供たちと遊んでいるときに目を痛め、一時的に片方の目の視力を失い、その間仕事を中断する。 | 睡蓮の池と日本の橋 |
||
11月〜12月 | デュラン=リュエル画廊で《睡蓮の池》の連作展に26点出品し、大成功を収める。 | |||
1901 | 61歳 | 1月下旬 〜4月上旬 |
ロンドンに再度滞在し、テームズ河風景の連作を続ける。 | |
夏 | ジヴェルニーにもどってからも、記憶を頼りにテームズ河風景の連作を続行するが、猛暑の夏に悩まされ制作は進まず、1905年まで続けられた。 | |||
11月 | ジヴェルニーの自宅の近くを流れるエプト川の水を庭園に引き込み、池を拡張する。 | ウォータールー橋 |
||
1902 | 62歳 | 2月 | ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で個展を開催する。 | |
2月21日 〜28日 |
パリのベルネーム=ジュヌ画廊でピサロと二人で、ヴェトゥイユのセーヌ河風景6点を含む最新作を展示する。 | |||
2月末 〜3月初め |
ブルターニュへ短い旅行。 | |||
11月 | 義理の娘ジェルメーヌとサルルーが結婚する。 | ヴェトゥイユの眺め |
||
冬 | 息子ミッシェルの事故によりアトリエをその病室にあて、身辺多忙。制作に手がつかなかった。 | |||
1903 | 63歳 | 4月 | ベルネーム=ジュヌ画廊で開かれた印象派グループの展覧会に参加する。 | |
1899年以来取り組んでいたロンドンのテームズ河風景の連作を、記憶に頼って完成させ、5月までにデュラン=リュエル画廊で個展を開く予定であったが未完成。 | ||||
1904 | 64歳 | 5月9日 〜6月4日 |
《テームズ河風景》の連作37点による展覧会をデュラン=リュエル画廊で開き、連作に終止符を打つ。 | ロンドンの国会議事堂 |
夏 | 睡蓮や庭を描く。この頃からは睡蓮だけが装飾的に浮かんでいる水面に限って描き始める。《睡蓮の池》は水面に反映する空と雲と水の微妙な変化だけを描写する。 | |||
10月 | プラド美術館でベラスケスを見るため、妻アリス、次男ミシェルとともにマドリッドまで自動車旅行をする。 | |||
12月初め | 1週間ロンドンに出かけ「《テームズ河風景》展」の準備を企てるが、まとまらなかった。 | |||
1905 | 65歳 | 2月 | デュラン=リュエルがロンドンのグラフトン・ギャラリーで、モネの作品55点を含む総点数315点という大規模な印象派の展覧会を開く。 | 64歳頃のクロード・モネ |
12月 | 雑誌「芸術と芸術家」にジヴェルニーの水の庭園の写真とルイ・ヴォーセルの記事が掲載される。 | |||
1906 | 66歳 | . | 《睡蓮》の連作に取り組むが、思うように進まず、何度も描き直しを行い、しばしば作品を破棄する。 | |
3月 | ベルネーム=ジュヌ画廊で近作展を開催する。 | |||
デュラン=リュエル画廊でフォール・コレクションの17点による展覧会を開催する。 | ||||
1907 | 67歳 | . | 《睡蓮》の連作に引き続き取り組むが、満足できる作品が少なく、デュラン=リュエルに展覧会の延期を申し入れる。 | 雄大な運河、ベニス |
10月末 | フランス政府がリュクサンブール美術館のために《ルーアン大聖堂》を10,500フランで買い上げる。 | |||
1908 | 68歳 | 春 | 体調を崩し、白内障による視力障害の最初の兆候が現れる。 | |
9月末 〜12月 |
妻アリスとともにヴェネツィアに旅行し、ヴェネツィアの光、水、建物は、大気に対するモネの興味に合い、気力を回復し風景画の制作に打ち込む。 | |||
12月 | ジヴェルニーに戻り、《睡蓮》の連作を再開する。 | |||
1909 | 69歳 | 5月6日 〜6月5日 |
デュラン=リュエルは48点の《睡蓮》(1904〜08)を展示。好評のためこの展覧会はさらに6月12日まで一週間延長された。 | 睡蓮 |
秋 | 予定していたヴェネツィアへの旅行は、健康状態がすぐれず中止する。 | |||
1910 | 70歳 | . | 新たに《睡蓮》のシリーズを始める。 | |
1911 | 71歳 | 5月19日 | 数年前から体調を崩していた妻アリスが逝去する。モネの悲嘆は深く、視力の衰えもあって、ジヴェルニーに籠りがちになる。 | |
8月 | ボストン美術館で45点の作品による回顧展が開催される。 | |||
1912 | 72歳 | 5月28日 〜6月8日 |
ベルネーム=ジュヌはヴェネツィア風景29点を展示する。 | |
夏頃 | 視力がさらに低下し、パリの眼科専門医に両眼とも暗黒色白内障と診断される。 | 睡蓮 |
||
1913 | 73歳 | 2月中旬 | 次男ミシェルらとともにスイス、サンモリッツに短い旅行。 | |
1914 | 74歳 | 2月10日 | 長男のジャンが長い病の末に死去。その後、ジャンの未亡人ブランシュ(アリスの娘)がモネと一緒に住み、モネの孤独な生活の世話をする。 | |
7月 | 第一次世界大戦が始まり、次男のミシェルとオシュデの娘の夫たちが出征する。 | |||
8月 | クレマンソーの励ましを受けて、壁画大の睡蓮の連作に取り組み、50点のカンヴァスを収納できる大アトリエ(23メートル×20メートル、高さ15メートル)を自宅の庭に建て、ここで《睡蓮》の大装飾画のシリーズに着手する。 | |||
1916 | 76歳 | . | 第2の大アトリエ建造。ここで《睡蓮》の装飾画のシリーズに着手する。 | 自画像 |
1917 | 77歳 | . | 《睡蓮》の壁画を引き続き制作。第一次世界大戦も末期となり、大勢のフランス人の命が失われたことを嘆く。 | |
戦争で大きな被害を被ったランス大聖堂を描くように国から依頼を受けたが、結局実現しない。 | ||||
10月中旬 | ノルマンデイーに旅行し、ル・アーヴル、オンフルール、エトルタ、イポール、プールヴィル、ディエッブなどに滞在する。 | |||
1918 | 78歳 | . | 《睡蓮》の壁画に引き続き取り組み、2月までに寄贈予定の12点のうち8点を完成。ドイツ軍がジヴェルニーの近くまで侵攻してくるが、そこを離れようとはしない。 | |
11月11日 | 休戦記念日を祝うためにクレマンソーは、ジヴェルニーを訪れて、《睡蓮》の連作の中から国家に寄贈する作品を選ぶ。 | 80歳頃のクロード・モネ |
||
1919 | 79歳 | . | 《睡蓮》の壁画の制作を一時中断し、しばらく《日本の橋》に取り組む。視力の衰えがさらに進行し、失明の危機にさらされるが、手術を受けようとしない。 | |
1920 | 80歳 | 9月末 | 《睡蓮》の壁画寄贈の概要について国とほぼ合意に達し、現在ロダン美術館となっているオテル・ビロンの敷地に、それぞれ4.25メートルの長さの12点の壁画を飾るための建物を計画したが、のちに変更されて、オランジュリー美術館の装飾画を制作することに決める。 | |
10月中旬 | 寄贈の計画が新聞紙上で公表される。 | |||
1921 | 81歳 | 1月21日 〜2月2日 |
ベルネーム・ジュヌ画廊において《睡蓮》の近作を含むモネ回顧展が開催される。 | 左から黒木夫人、クロード・モネ、リリー・バトラー、ブランシュ・モネ、ジョルジュ・クレマンソ (ジヴェルニーにて) |
2月 | 壁画を展示する部屋は当初円形で予定されていたが、モネはこれに反対し楕円形の部屋を提案する。 | |||
3月 | クレマンソーがジヴェルニーを訪れ、ホテル・ビロンの代わりに、テュイルリー公園の中のジュ・ド・ポームまたはオランジュリーを展示場所として提案する。モネはいずれの場所にも満足できず、一旦は寄贈を取り止めようとするが、結局オランジュリーに展示することを決意する。 | |||
12月 | ブルターニュに1週間滞在する。 | |||
1922 | 82歳 | 4月12日 | 壁画の寄贈を2年後の1924年の4月に行うという正式な契約が国とモネとの間で交わされる。しかし、両眼とも白内障にかかり視力が一段と悪化したこともあって制作は思うように捗らない。 | |
9月 | 絵画の制作が禁止される。 | |||
1923 | 83歳 | 2月 | 両眼の失明をおそれて片方だけヌイイの病院で右眼の手術をうける。僅かに視力が回復する。視力矯正のために眼鏡をかけるようになる。 | 日本の太鼓橋 |
11月 | 家族や友人の反対をおしきって《睡蓮》に手を加えたが、クレマンソーの説得で中止する。 | |||
1924 | 84歳 | . | 壁画寄贈の期限が近づくが、モネは完成させることができず、クレマンソーは期限の延期を国に申し入れる。しかし、いつまでたっても作品を完成させず、国との契約を破棄するかも知れないというモネに対して、クレマンソーは怒りをあらわにする。 | バラの小径の86歳モネ |
1925 | 85歳 | 再度寄贈の延期を申し入れ、翌年の春までには完成させると宣言し、ただ1人でアトリエや戸外で大壁画を描き続ける。 | ||
1926 | 86歳 | 冬 | 肺腫を患い、体力が著しく低下して、死期が近づく。 | |
12月5日 | ジヴェルニーの自宅で86歳の生涯を終える。遺志により簡素な葬儀が行われる。ジヴェルニーの人々が多く参列。ボナール、ヴィヤール、ルーセル、そしてクレマンソー等が、先立ったアリスの眠る墓地までモネに従った。 | |||
1927 | . | . | モネが生涯をかけて追求した印象主義の総合ともいえるオランジュリー美術館の大壁画は、画家の死の翌年、一般に公開された。 |