1840[パ  リ]  1926[ジヴェルニー]

 フランス印象派の代表的画家。18才の時、ブーダンに油彩と戸外制作の手ほどきを受けて風景画家の道を歩む。
1859年パリに出たモネは、サロンでコローやドービニーの作品を研究して最新の技術を学び、アカデミー・スイスではピサロと親交を結ぶ。
 1861年に兵役のためアルジェリアに進駐したが、翌年ル・アーヴル、続いてパリに戻る。パリでは、ルノワール、シスレー、バジールと出会う。
モネはバジールとともに、1863年フォンテーヌブローの森で、バルビゾン派やドービニー風の風景画を制作した。
 
 1865年にはクールベに会うが、彼の影響は1866年制作の《カミーユ、緑の衣裳》に残されている。同じ頃、モネは当時の若い画家たちと同様に、マネの《草上の昼食》に魅了される。戸外の光の下で描くという、印象派の原理の追求に対するモネの熱心な姿勢は、《庭の女たち》に表れている。この時期、モネがパリやセーヌ河畔で、水面の光の反射を研究して描いた風景画《ラ・グルヌイエール》は最初の印象派絵画ではないかと考えられる。印象派とは、モネが制作した《印象−日の出》を見た批評家たちが、モネたちを軽蔑してつけた呼び名で、その後グループの正式な名称として用いられた。

 1870年、ロンドン旅行に出かけたモネは、ターナーらの作品を綿密に研究する。次第にモネは、時間帯や天気によって変化する光の様子を表現することに興味を持ち始め、同じ題材の連作に取り組む。最初の連作は1877年からの《サン・ラザール駅》で、汽車が吐き出す煙による光の効果を懸命に描き出そうとしている。

1894年までに制作された《ルーアン大聖堂》の連作は、およそ50枚のカンヴァスに時間帯やさまざまな光によって変化する大聖堂の姿が描かれている。続いてジヴェルニーの《積みわら》、エプト河畔の《ポプラ並木》、そしてロンドンの《テームズ河風景》など数多くの連作を制作した。

1893年、モネはパリ近郊のジヴェルニーの自宅の庭に小さな池を造り、睡蓮を浮かべた。1909年から他界する1926年まで、モネは《睡蓮》を題材に膨大な数の作品を描いたが、光の効果への探求心を極限まで高めた作品群は抽象画に近い域にまで達している。《睡蓮》の連作のうち、モネがフランス国家に寄贈した作品は、現在パリのオランジュリー美術館、睡蓮の部屋に展示されている。

モネのタイトル・カラーは、睡蓮、森林、田園をイメージしました。】