年齢 月日 主な出来事 画像
1841 . 1月14日 フランス中部シェール件のブールジュに生まれる。父ティビュルス・モリゾはシェール県知事、母はマリー=コルネリー・トーマ。姉2人、イーヴ、エドマがいる。
《モリゾ夫人とその娘
ポンティヨン夫人(読書)》
1848 7歳 . 弟チビュルス生まれる。英国人家庭教師ルイザの影響でシェイクスピアなど英文学に親しみ、粘土造形も始める。二月革命後、父はルイ=フィリップへの忠誠から公職を退く。
1849 8歳 . 父はノルマンディーのカルヴァドス県知事に任命され公職に復帰。
ルイザが去る。
1852 11歳 . 前年12月のルイ=ナポレオンのクーデター後の政治情勢の中で、父は決定的に公職を退くこととし現職のイール=エ=ヴィレーヌ県知事を辞任、一家はパリ西部のパッシイ地区のムーラン街に住む。
以後ベルトは生涯、まだ田園の趣を残した閑静なこの界隈に住む。
1855 14歳 . 父は会計検査院顧問となる。モリゾ家の三人娘は勉学の傍ら、スタマティについてピアノを習う。スタマティ家が所蔵する、同一家を描いたアングルのデッサンに強く惹かれる。
椅子に座るモリゾ
1857 16歳 . 母は娘たちに絵を習わせようとまずショカルヌにつかせるが、先生が気に入らず、イーヴは絵をやめ、エドマとベルトは新しい先生ギシャールに師事、デッサンに熱中する。
1858 17歳 . 同門のファンタン=ラトゥールとともにルーヴルでティツィアーノとヴェロネーゼを模写する。
1860 19歳 . ギシャールの紹介でコローに師事、若く美しい姉妹は老大家の愛弟子となる。
1863 22歳 . オワズ河畔のシューに家を借り、コローの弟子ウーディノの監督下に戸外で風景を描く。
1864 23歳 プージヴァルに面家リースネル所有の農家を借り、毎月戸外に画架を立てる。
《ロリアンの小さな港》
1865 24歳 . 父はフランクラン街の自宅の庭に娘たちのためにアトリエを建てる。
. サロンに初入選する。
1866 25歳 ブルターニュに滞在、カンペルレ、ロ=ブラ、ポン=タヴァンで制作する。
1867 26歳 . イーヴがカンペルレの収税吏ゴビヤールと結婚する。
二人の妹はゴビヤール家で夏を過ごす。
1868 27歳 . ファンタン=ラトゥールの紹介でマネと知り合う。マネの依頼で彼の作品《バルコニー》のためにギュメとクロー嬢とともにモデルとなる。モリゾ家とマネ家の家族ぐるみの交際は急速に深まる。
マネ画《バルコニー》
. マネを通じてドガ、ビュヴィス・ド・シャヴァンヌらと知り合う。
1869 28歳 . エドマが海軍士官ポンティヨンと結婚しパリを去る。彼女は結婚後、夫の肖像と妹の作品をパステルで模写する以外絵を描かない。
. モリゾは姉や母の肖像を描く。
1870 29歳 . 戦争中、両親とともにパリにとどまる。
. ドガに贈られた扇子の絵を水彩で模写する。
1871 30歳 . コミューンの間、両親とともにサン=ジェルマン=アン=レイに滞在、次いでシェルプールのエルマの許に滞在、水彩を描く。
マネ画《モリゾの肖像》
パリに帰る。
1872 31歳 . マネのためにたびたびモデルとなる。
. イープ、アストリュックとともにスペインに旅行する。
1873 32歳 . サロンに最後の出品をする。
. フェカンに滞在、この地で作品を展観する。
1874 33歳 1月24日 父死去。
4月15日
〜5月15日
第1回印象派展に参加、《ゆりかご》《かくれんぼ》《読書》《フェカンの海景》の油絵4点とパステル2点、水彩3点を出品する。
《ゆりかご》
モリノ家とマネ家の人々はともにフェカンで休暇を過ごし、ベルトとマネの弟のディレッタントでアマチュア画家ウージェーヌは画架を並べて描きながら結婚を決意する。
12月22日 マネの弟ウージエーヌ・マネと結婚する。
1875 34歳 3月24日 モネ、シスレー、ルノワールとともにオテル・ドゥルオで競売会を開くが、平均価格100フランという惨憺たる結果に終わる。ベルトの作品《室内》が売り立て中の最高値480フランで売れる。
ジェンヌヴィリエで制作する。
夫とともに英国に旅行、ロンドンを訪れ、ワイト島に滞在して制作する。
帰途カンプレのイーヴを訪ねる。

《化粧をする女の後ろ姿》
1876 35歳 4月 第2回印象派展に《舞踏会で》《鏡の前の若い女》《草上の昼食》《フェカンの浜》など油絵13点、水彩3点、・パステル3点を出品する。同展を「女一人をまじえた5、6人の気違いどもが寄り集まった展覧会」とフィガロ紙上で評したヴォルフに決闘をいどみかねない勢いでウージエーヌは友人たちを弁護する。
10月 母死去。エイロー街に移る。
1877 36歳 4月 第3回印象派展に《プシケ》《テラスで》《化粧する女》など19点を出品する。
1878 37歳 11月14日 娘ジュリー生まれる。エドマへの手紙で「私の赤ちゃんは爪の先までマネです。もうこの子の叔父さまたちそっくり。私に似たところはまるでありません」と記述している。
《夏の日》
1879 38歳 4月 第4回印象派展には不参加。
ブージヴァルに滞在する。
1880 39歳 4月 第5回印象派展に《夏の日》《冬》《庭で》など油絵9点と水彩5点を出品する。
1881 40歳 4月 第6回印象派展に《乳母と赤ちゃん》《ばら色の服の若い女》《子供の肖像》など油彩5点とパステル2点を出品する。
パリ西郊のブージヴァルに家を借りて滞在する。
パリの借家を引き払い、家を建てるためにゲィルジュスト街(現ポール・ヴァレリー街)に土地を買う。
ニースに滞在。イタリアに旅行、ジュノア、ピサ、フィレンツェを訪れる。
イタリア旅行中ジュリーが病気になり急速ニースに戻る。
ウージェーヌはパリに帰る。

《ウージェーヌ・マネと娘−
ブージヴァルの庭で》
1882 41歳 3月 第7回印象派展に《ヴュラングのマリー》《ウージェーヌ・マネと娘−ブージヴァルの庭で》《ニース港》など9点を出品する。
. パリに帰る。
ブージヴァルで過ごす。
1883 42歳 4月30日 義兄マネが死去。
. ヴィルジュスト街の新築なった家の一階に住む。
《自画像》
ロンドンの印象派展に《庭》《シーツを広げる女》《砂浜で》を出品する。
1884 43歳 . ウージェーヌやマネ未亡人とともにマネ回顧展とアトリエに残された作品の売り立ての準備に没頭、回顧展は大成功を収めるが、売り立ては予想外の不成功で、ばかげた安値で手放すのを避けるために主要作品はマネ家で買い上げる結果となる。
1885 44歳 . プーローニュの森と自宅の庭で制作する。
. ドガ、マラルメ、ルノワール、モネ、デュレら友人たちを木曜日の夕食に招く習慣が次第に定着、このサロンはウージェーヌの死まで続く。
1886 45歳 . ベルギーとオランダに旅行、リユーペンスに感嘆する。
5〜6月 第8回印象派展に《草上の若い女》《水浴》など油絵12点を出品。
《ヴェランダの母と子》
6〜8月 ジャージー島に滞在して制作する。
1887 46歳 5月 プティ画廊の国際展に《ヴェランダの母と子》などを出品する。
. プリユッセルの『二〇人協会展』にも作品を送る。
ロワール河畔の城めぐりをする。
1888 47歳 秋〜冬 南仏のニースに近いシミエに別荘を借りて滞在、グラースのフラゴナールの生家を訪れる。
. ジュリーがプレゼントにもらったクレヨンで一連のデッサンを描く。
《桜桃の木》
1889 48歳 5月 シミエ滞在からパリに帰る。
. モネの提唱でマネの《オランピア》を未亡人より買い取り国家に寄贈するための基金募集が行われ、19,405フラン集まり、《オランピア》はルーヴル美術館に入る。
. ヴァッセのヴュシュール邸に滞在する。
1890 49歳 2月27日 ヴィルジュストのサロンでマラルメがヴィリエ・ド・リイル=アダンの追悼講演を行う。
. イル・ド・フランスのメジーに滞在。
1891 50歳 . メジーでジュリーと姪のジャンニー・ゴビヤールをモデルに《桜桃の木》を制作、ルノワールの助言に従いこの作品のために多数の習作を描く。
メジーの近くで見つけて気に入っていた18世紀に建てられた小さな城「メニルの館」を買う。
ルノワール画《モリゾと娘》
1892 51歳 4月13日 ウージェーヌが冬から病気となり、死去する。最愛の人の死に打ちのめされジュリーとともにメニルにひきこもる。
. マラルメがジュリーの後見人代理となる。
5月25日
〜6月18日
プーソ=ヴァラドン画廊ではじめての個展、まずまずの成功を収める。
1893 52歳 . 姉イープ死去。
. いまでは大きすぎるヴィルジュストの家は貸してヴベル街に小さなアパルトマンを借りる。
. ジュリーと、マテルメ、ドガ、ルノワールら旧友たちの変わらぬ友情を支えに制作を続ける。
1893年のモリゾ
. イーサの娘ジャンニーもしばしばヴベル街の家に滞在する。
1894 53歳 3月 ブリュッセルでの自由美術協会展への出品を機に同地を訪れる。
. マラルメの尽力で第5回印象派展に出品した《夜会服の若い女》が国家買い上げとなる。ブルターニュに滞在する。
1895 54歳 ジュリーが病気になり、その看病中自身も肺炎になる。
3月3日 死去する。
. バッシイの基地のマネ家の墓所に葬られる。