1841[フールジュ]  1895[パ  リ]

 フランス印象派の女流画家。父はプールジュ市長、母はフラゴナールの遠縁にあたる家庭に生まれる。ベルト・モリゾと姉エドマは、素描と油絵のレッスンを受けたのち、パリに出てバルビゾン派の画家コローに学び、戸外の自然と軽く素早い筆触を学び、風景画を制作して1864年にサロンに初入選した。

 家族のつきあいで多くの芸術家、文学者、芸術愛好家との交流があったが、ルーヴル美術館でファンタン=ラトゥールに紹介されてマネと知りあった彼女は、マネのサークルに加わり、マネの周辺の画家、美術評論家たちとの交際を深めるとともに、都会生活のモティーフの洗練された扱い、軽快な筆さばきはマネに大きな影響を受ける。

 また、マネの何点かの絵のためにモデルにもなっており、1869年の《バルコニー》はそのひとつである。

 1874年、彼女はマネの弟ウジェーヌと結婚して娘のジュリー・マネを授かるが、ウジェーヌは画家の道を歩むよう励ました。
サロン入賞に熱心なマネの忠告に逆らって、彼女は印象派展に熱心に参加し、娘の生まれた1877年の第4回を除いて全てに出品した。
 ベルト・モリゾは、その時代の彼女のような身分の女性芸術家に与えられた限界の範囲で制作を行い、彼女の作品はすべて娘や姪たちなどの身近な人々、滞在した各地の風景を表現したもので、ゆるやかに絡み合った長い筆触と明るい色彩と素早い筆致を基盤とする、独創的で意欲的な個人様式を編みだした。

 代表作の《ゆりかご》など、娘の成長を見つめた作品や、女性らしい情感を盛った母子像に、繊細な感受性がうかがわれる。
また、男性画家たちが見逃しがちな現代生活のさまざまな側面を、女性らしいきめの細かいエレガンスと、母と子などの親密なモティーフを加え、ドガ、カサットと並んで印象派の風俗的側面を代表する。
 カフェでの印象派の集まりは彼女のような身分の女性が出かけるのは好ましくなかったので参加しなかったが、その代わりに自分の住まいで食事会を開催し、印象派の画家たちの交流の場に提供した。
 風景画、肖像画などの油絵のほか版画をも手がけた。
 モリゾが死ぬとルノワールとドガが回顧展を組織して、大きな決定的な成功を収めた。

モリゾのタイトル・カラーは、ブルジョワジーの清楚さをイメージしました。】