年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1830 | 0歳 | 7月10日 | 西インド諸島のアンテイル諸島、セントトマス島の中心地シャーロットアマリーに生まれた。父アブラハム・ガブリエル・フレデリック・ピサロはボルドー出身のユダヤ人、母ラシェル・ポミュ=マンザーナ・プティもセント・トマス島のユダヤ人家庭の生まれであった。カミーユは4人息子のなかの3男として生まれる。 | ![]() 母ラシェル・ポミュ=マンザーナ・プティ |
1842 | 12歳 | . | パリ郊外のサヴァリ寄宿学校に入学。ここで5年間、フランス語、ラテン語文法、文学、科学、数学、修辞学、哲学を学ぶ。絵心のある校長サヴォリに励まされて素描の教えも受けた。 | |
パリへの遠足が彼にルーヴル美術館を教え、また、祖父母のジョゼフとアン=フェリシテのもとを訪ねる機会にもなった。 | ||||
1847 | 17歳 | 夏 | セント・トマス島に戻り、父の雑貨店で働く。家業を手伝いながら素描を続け、とくに島の原住民たちの姿を描く。 | |
1851 | 21歳 | . | 港でスケッチ中に知り合った、4歳年上のデンマーク人画家フリッツ・メルビーと親交を深める。 | |
1852 | 22歳 | . | 親に無断でフリッツ・メルビーと共にベネズエラに旅行する。ベネズエラで初めてピサロは画家として生活する。フリッツ・メルビーの手ほどきも受けるが、ピサロの素描は本来は独学であった。彼は貧しい人々の姿を好んで描いた。 | ![]() 《クレオールの娘》 |
11月12日 | ラ・グワイラに到着、カラカスに向かう。カラカスのアトリエで二人は一緒に制作し、展覧会を開き、郊外にスケッチ旅行に出かけた。 | |||
1854 | 24歳 | 8月12日 | ベネズエラからセント・トマス島にもどる。 | |
. | 兄のアルフレツドをしばらくの間パリに滞在させるために、彼と父フレデリックはピサロを帰郷させた。その代わりにピサロは、画家として身を立てるために家族からの援助の約束を取りつける。 | |||
1855 | 25歳 | 9月 | 画業に専念するため、セント・トマス島を離れてパリに向かう。ピサロが故郷にいる間に、フランスは君主制から共和制へ、そして帝政へと変化していた。ルイ・ナポレオンのもとで、オスマン男爵はパリの近代化をすすめる。 | |
10月15日頃 | パリに到着し、帝政樹立を讃え開催されたパリ万国博覧会を見学する。このときピサロは、膨大な数の絵画と彫刻作品が展示された美術会場に訪れた。アングルとドラクロワが当時の代表的な画家であったが、ピサロが最も関心を寄せたのは、風景画家のコロー、ドービニー、ルソー、ディアズであった。 | ![]() 《海辺で談笑する女性たち、 セント・トーマス》 |
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12月 | 母と二人の姉妹エマとデルフィーヌはすでにパリに出ており、ピサロは家族とともに住むが、12月、デルフィーヌが死去。 | |||
. | エコール・デ・ボザールの教師達によって運営されていた個人画塾に登録し、フランソワ・エドワール・ピコ、イシドール・ダニヤン、そしてアングルから教えを受けたアンリ・レーマンらのもとで学ぶ。 | |||
. | ピサロがパリで初めて描いた作品はセント・トマス島の風景だった。 | |||
1856 | 26歳 | . | コローと出会い、風景から受けとった最初の感興を指針とすることや、戸外で描くことを教えられると、パリの北部モンモランシーの森で実際に自然を見ながら描く。 | ![]() 《農家の庭》 |
. | パリでフリッツ・メルビーと交流し、弟アントン・メルビーとアトリエを共有する。またデンマークの画家ダヴイッド・ヤコブセンとも親交を深め共に制作する。 | |||
1857 | 27歳 | 8月 | ひとりでノルマンディの町ラ・ロシュ=ギュイヨンを訪れ、以後10年間、しばしばここを訪れる。 | |
. | ピサロは自分をパリにひしめく虐げられた貧しい人々と同じと考えていた。自分の基本的な信念を強めていった結果、彼はますます強く無政府主義の哲学を支持するようになった。 | |||
1858 | 28歳 | . | 家族は郊外のパッシーに移り住んだが、ピサロは、両親からの月々の援助に頼って自分の部屋をアトリエとしながらパリにとどまる。 | ![]() 《村の入口》 |
. | 19世紀半ばのパリ社会の中心地であったカフェで、ピサロは新たな友人を見いだす。クールベは居酒屋アンドレールでの集まりを主宰していた。そこに集まる人々のなかに無政府主義的な哲学者ピエール・ジョゼフ・ブルードンがおり、当時のピサロの考えに影響を与えている。 | |||
1859 | 29歳 | . | 初めてサロン(官設展覧会)に出品し、ピサロの風景画《モンモランシーの風景》は入選するが、マネ、ホイッスラー、ファンタン=ラトゥールは落選する。 | |
. | 主にパリ郊外のモンモランシーやラ・プアレンヌ=シェル=モールなどの田園地帯で制作に励む。 | |||
夏 | プエルトリコの画家フランシスコ・オジェルとともに、パリとルーアンの間でセーヌ河沿いのラ・ロシュ=ギュイヨンで過ごし制作する。 | ![]() 《シェヌヴィエールの マルヌ川のほとり》 |
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. | パリのオルフェヴル河岸にあるアカデミー・シュイスでモネと出会う。 | |||
. | クールベの弟子でマイエンヌ出身の画家ルドヴィク・ビュツトと出会う。彼はピサロと同じラディカルな政治的見解を抱いていた。ビュツトとユダヤ人の妻アデル・レヴィは、後にピサロ家と家族同士でつき合う親しい関係になる。ピサロが困難な時期にあるのを知ると、ビュツト夫妻は一度ならず郊外のメルレー近くのモンフーコーにある自分たちの農場に彼を呼びよせた。 | |||
. | 父フレデリックがパリに移り定住する。 | |||
1860 | 30歳 | . | 後にピサロの妻となり8人の子供の母親となるジュリー・ヴュレーとの関係が始まる。ブドウ栽培家の娘ジュリーは彼の食事の世話をしている21歳の女性だった。 ピサロは二人の結婚に対する両親の反対を無視し、ピサロ家の宗教的な慣例を破り、中産階級としての身分も捨てる。 |
![]() 《ラ・ロッシュ=ギュイヨンの ロバに乗った散歩》 |
1861 | 31歳 | 4月16日 | ルーヴル美術館に登録し、自分の技法と構図の知識を高めるために模写を行う。モネと親しくなり、アカデミー・シュイスではギョーマンとセザンヌに出会う。 | |
1862 | 32歳 | . | モネがシャルル・グレールの画塾に入り、バジール、ルノワール、シスレーと会う。後にモネはシスレーをピサロに紹介する。 | |
1863 | 33歳 | 2月20日 | 長男リュシアンが生まれるが、結婚に反対する父からは生活費の援助を打ち切られる。 | |
. | ピサロとジュリーは、パリからおよそ40キロ離れたラ・ヴァレンヌ=サン=モールに移り住むが、パリにある仮のアトリエはそのまま残しておく。田舎じみたこの地方にいると、彼の興味に適うモチーフがいくらでも見つかった。さらに、田舎暮らしは生活費を押さえることができるし、農村での共同生活を強調する無政府主義哲学を信奉する彼にとってはなおさら好都合だった。 | ![]() 《ガリエンじいさんの家、 ポントワーズ》 |
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. | サロンに落選した多くの画家たちの抗議によって、ナポレオン3世は「落選者展」開催し、ピサロはマネ、ヨンキント、ギョーマン、セザンヌらと参加し3点展示している。マネの《草上の昼食》はスキャンダルを引き起こし、彼は一躍新しい画家世代のリーダー的地位につく。 | |||
. | ピサロは腐蝕銅版画家協会の会員になり、初めての版画作品を制作する。 | |||
1864 | 34歳 | . | コローから「色価を研究すべき」との助言を受ける。サロンに作品2点が入選し、カタログには「コローの弟子」として名を載せた。 | ![]() 《お手伝い》 |
. | ピサロはモネ、ルノワール、シスレーなどの友人とともにフォンテーヌブローの森に描きに出かけていたと思われる。 | |||
1865 | 35歳 | 1月22日 | 父が死去し、財産の大半は母と兄のアルフレツドによって相続される。 | |
. | 娘ジャンヌ(ミネット)が生まれる。絵が思うように売れないため、ジュリーは野菜畑を作りウサギや鶏を飼って、切り詰めた生活の足しにする。 | |||
. | 2点の絵が再びサロンに入選する。ギュメからラ・ロシュ=ギュイヨンで一緒に制作する誘いを受ける。 | |||
. | 定期的にオジェルとセザンヌに会う。 | |||
1866 | 36歳 | . | クールベの影響が顕著となったピサロの絵をコローが否認するため、「コローの弟子」と称することをやめる。 | ![]() 《エルミタージュの眺め》 |
. | サロンの審査員ドービニーの努力で、ピサロの作品1点が入選し、ピサロの作品を賞賛する最初の評論が、エミール・ゾラによって出版された。 | |||
. | ピサロー家はパリの北西にあり、当時の鉄道でパリから1時間半ほどのポントワーズのエルミタージュ街に移り住む。 | |||
. | マネ、モネ、ルノワール、シスレー、ギュメとの親交を深める。 | |||
1867 | 37歳 | . | ピサロも友人たちもほとんどがサロンに落選し、ルノワール、シスレーらと落選者展の開催請願書に署名するが無視される。ナポレオン3世がパリ万国博覧会を開催し、クールベとマネは自作展示用に個人パヴィリオンを建てる。 それを知って、ピサロ、シスレー、ルノワール、バジール、モネ、ギョーマン、ギュメ、ベルト・モリゾ、ファンタン=ラトゥール、ドガたちは、自分たちの展覧会をクールベのパヴイリオンで開催するための資金調達を試みる。結局、資金集めには失敗したが、グループ展というアイデアが生まれた。 |
![]() 《放牧地の風景、ポントワーズ》 |
. | ポントワーズのエルミタージュ地区を描いた大きな風景画が数点完成する。 | |||
1868 | 38歳 | . | 異父姉妹エマ・イサークソンの葬式に参列するためロンドンへ向かい、1ヶ月以上滞在する。 | |
. | ポントワーズの風景画2点がサロンに入選する。この年の批評は、画家仲間のなかでは誰よりもピサロを賞賛している。家計を助けるため、ギョーマンとともにカンヴァス地のブラインドに風景を描く仕事をする。 | ![]() 《マルリーの森の入り口 (雪景色)》 |
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1869 | 39歳 | 5月頃 | パリの西にあるルヴシェンヌに移住し、ヴェルサイユ街道沿いの家に住む。近くにはモネとルノワールが住んでいた。3人は、素早い筆さばきで描く外光派の描法を試みたり、彩色された影や光の反射についての実験的な試みを行う。3人は木曜日の夜にカフェ・ゲルボワで開かれていた「パティニョル派」の集会に参加するため定期的にパリを訪れ、そこでマネやドガと会う。ときおり他の画家、批評家、作家が加わることもあった。 | |
. | この頃までにピサロの作品は、歌手のジャン=パティストフォール、銀行家のギュスターヴ・アロザらのコレクターや、画商のマルタン爺さんに売れはじめている。 | |||
1870 | 40歳 | . | ピサロはより短い筆致で描きはじめる。色使いも明るくなり、作品の色調の関係もいっそう繊細になる。 | ![]() 《ルーヴシエンヌの ヴェルサイユ街道)》 |
. | サロンに作品2点が入選する。 | |||
7月19日 | 普仏戦争が勃発しピサロー家はモンフーコーのビュツトの農場に逃れるが、モネが保管を頼んで預けておいた作品も含めて数百点の絵画が残された。 | |||
. | 3人目の子供アデーレ・エマが生まれるが、生後2週間で死亡。 | |||
9月4日 | フランスが悲劇的な敗北を喫し、第三共和制が成立する。ピサロは共和国のために一度は戦う意志を表したが、母親の嘆願と幼い娘の死が彼の志願を思いとどまらせる。 | |||
12月 | 普仏戦争を逃れて、ピサロとジュリー・ヴュレーは二人の子供を連れてルーヴシェンヌを離れ、ロンドン郊外のアッパー・ノーウッドに住む。 | |||
1871 | 41歳 | . | ドービニーの紹介でロンドンに亡命中の画商ポール・デュラン=リュエルと出会う。リュエルはピサロの絵を2点購入し、後に印象主義の重要な擁護者となった。 | ![]() 《ヴォワザン村の入り口》 |
. | すでにロンドンに逃れていたモネとともに美術館を巡り、とくにターナーとコンスタブルに感動する。 | |||
. | モネとともに、サロンのイギリス版ともいうべきロイヤル・アカデミーに出品するが落選、しかしサウス・ケンジントン美術館での国際美術展では、二人ともフランス部門に2点ずつ出品できた。 | |||
6月14日 | ピサロとジュリーはクロイドンで結婚する。 | |||
6月末 | フランスに戻るが、ルヴシェンヌの家は、プロシア軍によって階下が馬小屋として使われており、ひどく荒らされ、ピサロ芸術の重要な最初の15年間の作品が破損された。 | ![]() 《夕陽》 |
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11月22日 | 次男のジョルジュ=アンリが生まれる。 | |||
1872 | 42歳 | . | デュラン=リュエルが作品を定期的に購入しはじめたことで、家庭を養うという義務感の緊張から解放される。ピサロは、やっと母親の財政的援助から独立できた。 | |
. | すでに1867年に生まれていた「パティニョル派」のグループ展というアイデアがよみがえり、具体的なかたちになりはじめた。 | |||
. | ピサロー家はルヴシェンヌを離れ、ポントワーズにもどり、以後10年以上にわたり住み続ける。 | ![]() 《ポート・マリーのセーヌ河》 |
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. | 近くのオスニーと、オーヴェール=シュル=オワーズに1874年まで居を定めていたセザンヌらと制作を共にする。この頃から画家としての二人の結びつきが緊密になり、セザンヌの作品にも決定的な変化が生まれている。他のギョーマン、ベリアールらの画家もポントワーズでピサロとともに制作を行う。ピサロはグループのなかの理論家であり助言者であった。 | |||
. | 隣人の医師ガシェ博士との交遊を深める。彼は前衛画家たちのパトロンでもあり、自らはアマチュアの版画家でもあった。ガシェ博士のプレス機を使って計画的にエッチングを試みる。 | |||
1873 | 43歳 | . | モネ、ピサロ、シスレーはサロンへ出品しても無駄だと考えはじめる。ピサロとモネが率先して展覧会を組織しはじめるが、これが後に第1回印象派展覧会に結実していく。 | ![]() 1873年頃 ポントワーズにて セザンヌとピサロ |
. | フランスの財政危機が美術市場にも影響を及ぼしはじめる。 | |||
1874 | 44歳 | 4月16日 | 9歳になる娘のジャンヌ(ミネット)が呼吸器系感染症で死亡。悲痛な思いにかられながらも、第1回印象派展覧会の準備のために、ピサロは何度もパリへ足を運ぶ。 | |
4月15日〜 5月15日 |
パリの写真家ナダールのスタジオで第1回印象派展(キャプシーヌ大通り35番地)が開催される。サロンへの出品を勧めるデュレの忠告を斥けピサロも《果樹園》など5点を出品する。ドガ、モネ、ベルト・モリゾ、ルノワール、シスレー、セザンヌなど30人の画家の作品165点が展示された。『シャリヴァリ』紙上でルイ・ルロワはこの画家たちを「印象主義者」と嘲った。画家たちはそんな嘲笑を気にもとめず、この侮蔑的な呼び名を受け入れた。反応は概して手厳しいものだった。 | |||
7月24日 | 三男フェリックス(ティテイ)の誕生。 | |||
10月 | ピュットをモンフーコーに訪ね、そこに2、3ヶ月滞在し20点ほどの作品を描く。このなかには、働く農民のモチーフを最初に描いた作品が含まれている。ピサロにとってこのモチーフは、後々までも重要なものとなった。 | ![]() 《エルミタージュの雪景色、 ポントワーズ》 |
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12月 | 供託金による株式会社として設立されたこの匿名芸術家協会は、資産以上に負債が増えたために解散が議決された。 | |||
1875 | 45歳 | 8月 | 美術家の新しい協会「リュニオン」の創立に、セザンヌ、ギョーマンらと参加する。 | |
1876 | 46歳 | 4月11日〜 5月9日 |
デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展(ル・ペルティエ通り11番地)が開催され、ピサロは12点を出品する。250点の作品を出品したが、画家数は18人にとどまる。新たな参加者のなかに裕福な家庭で生まれ、技師で法律家から画家に転身したギュスターヴ・カイユポットがいた。展覧会に対する批評家たちの反応は様々だったが、好意的な批評はわずかで、ほとんどは厳しく非難めいたものだった。 | |
. | ピサロの生活が苦しくなるが、ギョーマンの友人で菓子屋の主人ミュレルがときおりピサロのために絵の買い手を探してくれた。ミュレルも自分のコレクションに印象派の画家たちの作品を購入しており、また、彼の店はグループの画家たちの会合場所となっていた。 | ![]() 1875年頃 ポントワーズにて |
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. | 画材店主のタンギー爺さんことジュリアン・タンギーは、友人の画家たちに掛け売りで絵具やカンヴァスを渡し、もし代金が支払えない場合には代わりに絵を受け取っていた。 | |||
秋 | 再びモンフーコーのピュットのもとに滞在し、季節の風景を描く。 | |||
1877 | 47歳 | セザンヌ、ギョーマンとともに「リュニオン」を脱退する。 | ||
春 | 生活難がつのり、債権者たちが迫って絵を差し押さえようとする。カイユボットが数点の作品を購入してくれたおかげで、悲惨な状況が多少とも好転した。 | ![]() 《赤い屋根、冬の効果》 |
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. | 幾ばくかのお金を得るために、40枚ほどの陶板に、自分の油絵、版画、スケッチブックからとったデザインで絵付けをする。 | |||
4月4日 〜30日 |
デュラン=リュエル画廊の近くのアパートで開催された第3回印象派展(ル・プルティエ通り6番地)に、ピサロは《オワーズ川の土手の眺め》や《ポントワーズの丘と庭》を描いた作品など22点を出品する。展覧会委員はピサロ、ルノワール、モネ、カイユポット。評論家ジョルジュ・リヴィエールがグループを擁護するが、一般の反応は非難めいたものが大半で、モネ、ルノワール、ピサロはみな困窮しきっていた。 | |||
5月28日 | シスレー、ルノワールとともにオテル・ドゥルオで競売会を開くが不成功に終わる。 | ![]() 《オワーズ河の岸,ポントワーズ》 |
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11月 | ミュレルはピサロの一枚の絵を賞品とした富くじを催して、彼に必要な100フランを援助した。一人の少女が彼の絵を当てたが、彼女はその絵を巨大なケーキと交換した。 | |||
1878 | 48歳 | . | 問題をかかえたままのピサロは、意気消沈し自信を失う。オークションでの彼の絵の値段は上がらずじまい。制作活動を犠牲にしてまでも時間を費やして、パリで絵を売り込む努力をするが徒労に終わる。 | |
4月 | 親友ルドヴィク・ビュットの突然の死。享年52歳。彼との友情、彼が与えてくれた精神的な支えや暖かな援助は一瞬にして消え去った。 | |||
. | グループのパリでの新しい集会場所は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル=アテーヌとなる。マネとドガが集会を主宰し、モネ、フォラン、作家で銅版画家のマルスラン・デブー夕ン、評論家のデュラ、リヴイエール、アルマン・シルヴュストル、ポール・アレクシスが集会に参加した。印象派グループが財政的問題を抱えていること、および大衆の認知を獲得していないこと等が原因となって、画家たちの関係が個人的に緊張することもあった。 | ![]() 1877年 ポントワーズにて妻と |
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. | ピサロはアロザ・ポルティエという新しい画商をみつける。彼の兄弟のギュスターヴとアシルはピサロの作品を何点か購入したが、買い手はほとんどつかなかった。偶然、ルーマニアの医師のジョルジュ・ド・ペリオ博士が彼の絵を1枚購入した。 | |||
11月29日 | 四男リュドヴィク=ロドルフ誕生。最近亡くなった友人ビュツトの名をとった。 | |||
. | パリのトロワ=フレール街にアトリエを構える。 | |||
1879 | 49歳 | 4月10日〜 5月11日 |
第4回印象派展(オペラ座大通り28番地)が開催され、ピサロも12枚のノーウッドを描いた扇面画と4枚のパステルを含む38点を出品する。第4回展は、いままでで一番成功した印象派展覧会となる。10,000人が訪れ、各人への配当金も439フランにのぼった。 | ![]() 《雪のポントワーズの養兎場》 |
第4回展にはピサロの招きで新たにポール・ゴーガンが加わったが、シスレーとルノワールは参加せず、サロンに出品する。当時、ゴーガンはまだ株式仲買人として勤めており、日曜画家であった。ゴーガンは夏の休暇に妻と3人の子供を連れてポントワーズのピサロのもとを訪れ、一緒に制作している。 | ||||
1880 | 50歳 | 4月1日 〜30日 |
第5回印象派展(ピラミッド街10番地)が開催され、ピサロも11枚の油彩と一連の版画を出品するが、過去の印象派展覧会に参加してきた画家のなかで、ドガ、ピサロ、ルアールの3人だけが参加する。仲間の抜けた穴を埋めるため、ドガは知り合いの画家たちを参加させるが、印象派とは呼べない二流の画家であったため、印象派仲間の間で不和が大きくなった。 | |
. | 第5回展に展示された作品のなかでは、ピサロ、メアリ・カサット、ドガ、ブラックモンの作品による《昼と夜》という版画集が目立っていた。ドガとカサットとの共作は、ピサロの版画制作に重要な刺激を与えた。 | ![]() 《日暮れに休息する農婦》 |
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. | フランスの経済状況が回復するにしたがい、デュラン=リュエルは再び印象派の画家たちの作品を購入しはじめた。 | |||
1881 | 51歳 | 4月2日〜 5月1日 |
第6回印象派展(キャプシーヌ大通り35番地)が開催され、ピサロは参加した画家の誰よりも多い28点の作品を展示した。うち15枚は、市場の人物や働く農民の姿をグワッシュで描いた習作だった。小説家で評論家だったユイスマンスが印象派の画家たちを、とくにピサロを支持した。ベルト・モリゾ、ドガ、メアリ・カサット、ゴーガン、ギョーマン、ヴィニョンが出品したが、モネ、ルノワール、シスレーは不参加。 | |
夏 | ピサロはゴーガン、セザンヌ、ギョーマンと一緒にポントワーズのエルミタージュで制作する。 | |||
8月 | 次女ジャンヌが生まれる。愛称はココット。 | ![]() 《ピサロ夫人》 |
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1882 | 52歳 | . | 値段は低いが順調に絵が売れて、ピサロとジュリーは彼女が生まれたブルゴーニュ地方コートドールへめずらしく2週間の旅行ができた。ようやくモデルを雇うことができるようになり、作品のなかで人物をより強調して描けるようになる。 | |
3月1日 〜4月2日 |
第7回印象派展(サン=トノレ街251番地)はデュラン=リュエルが率先し開催され、ピサロは25点の油彩画、10点のグワッシュ画、1点の膠絵具画を出品。働く農民や休息する農民の姿を描いた作品が多く、油彩画でも大きな人物像が多かった。これらの作品から、ピサロが風景画から脱皮しつつあったことがわかる。 印象派の画家たちのほとんどが参加し、みな印象派のスタイルで描き、それぞれ相当数の作品を展示する。その結果、今まで以上に均質化された展覧会となる。批評も以前に比べ好意的なものになった。 |
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夏 | セザンヌの最後のポントワーズ訪問し、ゴーガンもピサロに招かれ、家族とともに夏の休暇を過ごす。 | ![]() 《立ち話》 |
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年末 | 家族の健康のためには乾いた気候がいいと考え、より新鮮な主題も見つけたいという思いから、一家をあげて一時的にポントワーズ近郊のオニー村に移り住む。ここでゴーガンやギョーマンや他の友人たちと一緒に制作を行った。 | |||
. | 画面によりいっそうの明るさを求め、さかんにグワツシュやテンペラやパステルで制作するようになる。実験的な試みを行う彼の旺盛な好奇心は、新たな油彩技法の探求にも向かった。この頃から、表面的なパターンを強調する画面が現れるようになる。同時に、研究を深めるために、数多くの様々な版画を制作しはじめる。 | |||
1883 | 53歳 | 5月 | パリのデュラン=リュエル画廊で初めての個展が開催される。展示されたピサロの新作は、密集した短いタッチで描かれたものであり、論議の的となった。この年から翌年にかけて、作品の描き方に対する疑念がピサロを悩ませる。 | |
. | 常に身近にいた20歳の長男リュシアン・ピサロがロンドンに旅立つ。二人の間で手紙のやりとりが始まる。別れている間の二人は、いつもこうした手紙のやりとりを続けた。ピサロの残した膨大な数の手紙には、自分の芸術について、家族について、友人について、政治的信条についての熱烈な思いが綴られている。 | ![]() 《雌牛の番をする農婦たち》 |
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夏 | カイユポットが援助を申し出てくれたおかげで、再び陥った生活苦から抜け出すことができた。 | |||
10−11月 | 新しいモチーフや刺激を求めて、ルーアンのミュレル所有のホテルに2ヶ月滞在する。そこで見た工場の立ち並ぶ港の様子が着想の重要な源となる。ピサロはときおり、同時に数枚のカンヴァスに取り組んだり、同じ風景を異なる天候のもとで描いた。ルーアンは一連のエッチング作品の主題にもなった。 | |||
1885 | 55歳 | . | ギョーマンを通じてポール・シニヤツクと知り合う。 | ![]() 《ルーアンのナポレオン河畔》 |
10月 | シニヤツクはピサロをジョルジュ・スーラに紹介する。そのときのスーラは、彼の色彩理論と点描画法を表明する記念碑的な作品《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を制作中だった。すぐさまピサロの心はとらえられ、自分が直面している絵画上の問題の解決策であるかのように見えたこの新印象主義の理論に関心をもつ。 | |||
1886 | 56歳 | 2月頃 | 初めての点描によって描かれた小さな風景画を展示する。 | |
4月 | ピサロはニューヨークで開かれる印象派展覧会にスーラとシニヤツクの作品も含めることをデュラン=リュエルに説得する。評論家フェリックス・フェネオンが点描主義の熱心な擁護者となった。 | |||
5月15日 〜6月15日 |
最後となった第8回印象派展(ラフィツト街1番地)が開催され、ピサロは点描技法の《ピサロ家からの眺め、エラニー》など20点を出品する。スーラの硬直した方法を嫌うモネ、ルノワール、シスレー、カイユポットは不参加で、ピサロ自身も、仲間の印象派の画家たちの多くと鋭く対立する立場にいることを理解する。 | ![]() 《ピサロ家からの眺め、エラニー》 |
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カサット、ドガ、フォラン、ゴーガン、ギョーマン、モリゾ、ルドン、ヴィニョン、スーラ、シニヤツク、ピサロ、そしてピサロの息子リュシアンが参加する。スーラ、シニャック、ピサロ父子の4名は新印象主義の画家として、スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》が大きな場所を占めた別の部屋に展示された。 | ||||
. | ヴィンセント・ヴァン・ゴッホと作家のオクターヴ・ミルポーと会う。 | |||
秋 | シニャックとスーラがエラニーを訪れる。 | |||
1887 | 57歳 | 2月 | オグターヴ・モースに招かれ、ブリュッセルの20人展に出品する。画家のマグシミリアン・リエス、詩人のエミール・ヴュルハーレン、ゴッホの弟テオと知り合う。テオはプソー・ヴァラドン画廊の支配人としてピサロの作品を売り、また展示もした。 | ![]() 《リンゴの収穫、エラニー》 |
. | ほとんど毎日スーラと顔を合わせる。新しいスタイルに向けられたコレクターや画商の反感や、1883年の世界的経済恐慌の余波で美術市場が振るわないことなどが重なり、この年の初頭には再び無一文の状態に陥ってしまう。 | |||
. | 点描主義の技法は多大な時間を必要とし、その結果、この年に描いた作品はわずか10点にとどまった。「点」描に満足できず、色彩分割の原理を守ったまま、短く曲がった筆のタッチを用いて描くようになる。 | |||
. | ジョルジュ・プティ画廊で開催された国際展覧会に、他の印象派の画家たちと参加する。概して批判的な批評が多かったが、なかにはジュール・デコルゾーのように賞賛を送った作家もいた。 | ![]() 《エンドウ豆を植える農夫》 |
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1889 | 59歳 | 2月 | ブリュッセルの20人展に招かれ出品する。絵の売り込みに関しては、テオ・ファン・ゴッホをあてにする他はない状況となる。 | |
5月30日 | 母親ラシェル・ピサロが94歳で死去。 | |||
. | タバランが社会美術組合を設立する。ピサロ、リュス、ロダン、グラーヴ、ルイーズ・ミシェルらが参加する。姪のエスターおよびアリス・イサークソンのために描いた《社会の邪悪》と呼ばれる28点のペン素描のシリーズでは、ピサロには珍しく政治的な信条が写実的なかたちで表現されている。それは、パリの市民社会に対する軽蔑の念や、搾取される者への同情の思いが真筆に表現されたものであった。 | |||
1890 | 60歳 | 2月 | テオによって個展が企画される。この展覧会で主だったものは、ピサロが最後に描いた新印象主義スタイルの人物像を含む近作の油彩、テンペラ、グワッシュなどの作品26点を出品する。カタログの序論はギエスターヴ・ジェフロワが執筆する。 展覧会の出品作のほとんどは、ピサロの新しいコレクターであるクレマンソー、ガリマール、デュビュイ、ブーグル他から借用したもの。展覧会は好評であり、売却可能な8点のうち5点が売れる。 |
![]() 《足を洗う若い女》 |
4月20日 | 兄弟中たった一人存命だった兄アルフレツドが死去。 | |||
5月 | エコール・デ・ポザールでの日本美術展を見る。 | |||
5−6月 | 息子リュシアンに合うためにロンドンを訪問し滞在する。 | |||
1891 | 61歳 | 2月 | ピサロはブリュッセルの20人展から招かれ出品する。 | ![]() 《おしゃべりをする二人の農婦》 |
3月30日 | スーラが32歳で死去し、ピサロは「スーラの死によって点描は絶えた」と語る。 | |||
4月 | メアリ・カサットとともに版画をデュラン=リュエル画廊で展示する。カサットは二人の間の実り豊かな芸術的交流に加えて、ピサロや他の印象派の画家たちの作品の買い手を、アメリカのコレクターから探すことにも手を貸してくれる。 | |||
5月 | デュラン=リュエル画廊で開かれたモネ展を訪れ《積みわら》を見る。今でこそ新印象主義からは手を引くようになったが、新印象主義の理論との出会いは多くのことをピサロに教え、その結果として描かれた作品からは、彼がさまざまな考え方を新しく総合していたことがうかがえる。 | |||
. | 新印象主義的な実験を試みてコレクターの数を減らしてしまった結果、ピサロの暮らし向きは依然としてはかばかしくない。親友であり続けたモネは、必要に応じて援助を行う。 | ![]() 《キー庭園の大温室前、ロンドン》 |
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. | ピサロの目の状態はなお悪化し、やむなく制作を取りやめることもあった。 | |||
. | デュラン=リュエルへの不満から、テオの代わりにブソー=ヴァラドン画廊に入ったモーリス・ジョワイヤンや、ベルネーム=ジュヌ画廊のポルティエや、他に個人コレクターたちと取引を行うようになる。 | |||
秋 | 状況が変わりはじめ、暮らし向きも好転し、ロンドンにいる息子リュシアンとジョルジュを援助できるようになった。将来についての見通しがたったのである。 | |||
1892 | 62歳 | 1月 | 初めての大きな回顧展がデュラン=リュエル画廊で開催される。ルーヴシェンヌ、ロンドン、モンフーコー、ポントワーズ、オニー、ルーアン、エラニーでの作品のなかからの油彩50点、グワッシュ21点が展示された。カタログの序文はジョルジュ・ルコントが記述する。年来のピサロの擁護者だったオクターヴ・ミルポーがフィガロ紙にすばらしい批評文を書いたことも、この展覧会が大成功した一因となった。展覧会の終了に際し、デュラン=リュエルは売れ残った作品すべてを買い取る。 ピサロは、ついに初めて、本当の成功をおさめることができたのである。 |
![]() 《腰をおろす農婦、落日》 |
. | イギリスに旅立とうとする直前、エラニーの借家が売りに出される。ジュリーが率先してモネに借金を頼み、家を購入する。 | |||
5月末 | アトリエの修復開始を指示した後でリエスと共にロンドンに向かい、8月まで滞在する。晩春と夏のキュー・ガーデンを12枚のカンヴァスに描く。 | |||
8月11日 | リュシアン・ピサロとエステル・ペンスーザンが結婚する。彼女の父親ヤコブ・ペンスーザンは中流階級のユダヤ教正統派であり、リュシアンの無政府主義や無神論的信念に反対し、リュシアンに割札とユダヤ教への回心を要求していた。そのため、彼の祝福を受けないまま二人は英国の登記所で結婚した。二人は結婚後1年間ピサロ一家と生活するが、幸いペンスーザンとはほどなく和解した。 | ![]() 《娘ジャンヌ(ココツト)の肖像》 |
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11−12月 | 短い期間、パリのサン=ラザール駅の向かいに立つホテル・ガルニエに滞在する。パリとエラニーの間を断続的に往復することになるが、あくまでも生活の基盤は農村の家にあった。 | |||
12月 | 21歳の息子のジョルジュが、35歳の従妹のエステル・イサークソンと密かに結婚する。 | |||
1893 | 63歳 | 1−3月 | ホテル・ガルニエに滞在し、初めてのパリ・シリーズである最初の4点、サン=ラザール駅を制作する。 | |
3月 | デュラン=リュエル画廊で大規模なピサロ展が開催され、サン=ラザール駅を描いたシリーズの2点が展示された。 | ![]() 《緑のネッカチーフをした女》 |
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8月 | 初めての孫トミーを生んだエステル・イサークソンが、産後すぐに死去し、トミーの世話はエスターの姉妹アリスが引き受ける。 | |||
1894 | 64歳 | 1月 | 版画制作のためにプレス機をアトリエに据えつける。以後2年以上にわたって57点のエッチング、リトグラフ、モノタイプが制作される。ルーアンの風景、恵まれぬ人々、働く農民たちを描いた作品と並んで、すばらしい裸婦像も生み出される。生涯に制作された版画数はおよそ200点にものぼる。 | |
2−3月 | ブリュッセルで開かれた「自由美学」展に出品する。 | |||
3月 | デュラン=リュエル画廊で開かれた大規模なピサロ展が、詩人ステファン・マテルメに賞賛される。画商アンプロワーズ・ヴォテールと契約を結ぶ。 | |||
カイユポットが死去し、膨大な印象派のコレクションを国家に遺贈しようとした彼の意志が原因となって、官展派系の擁護者と印象主義者たちの間で再び対立が生じる。結局、コレクションの一部が受け入れられ、そのためにリュクサンプール美術館の別館が建てられることになる。その別館は1897年に開館、ここに印象派の寄贈が初めて公式に認知される。 | ![]() 《クノッケの風車、ベルギー》 |
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6月 | ベルギーへ出発した翌日、フランスの大統領カルノーがイタリアの無政府主義者に刺殺され、国内では無政府主義者の厳重な取り締まりが始まる。ブリュッセルからクノッケという海辺の村へ移動。そのときに画家のテオ・ヴァン・リッセルベルグとアンリ・ヴァン・デ・ヴュルデ、地理学者のエリゼ・レクリュと会う。 | |||
10月 | ジュリーはエラニーに戻るが、その政治的立場を知られていたピサロは、フランスでの空気が落ち着くまで国外にとどまり、10月になってから家に戻る。 | ![]() 《ルーアンの港、日没、 霧深い天気》 |
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1895 | 65歳 | 2−4月 | ブリュッセルの自由美学展に出品する。 | |
5月 | デュラン=リュエル画廊で開催されたモネのルーアン大聖堂のシリーズ展を見て、その感激を大いに語った。 | |||
1896 | 66歳 | 1−3月 | ルーアンに滞在し、12点の作品を描く。 | |
4−5月 | デュラン=リュエル画廊で新作を展示した大規模な個展を開催する。 | |||
9−11月 | 再びルーアンを訪れ、ルーアン・シリーズに加えられる29点の作品を描いた。 | |||
1897 | 67歳 | 1月 | パリに滞在、サン=ラザール駅のシリーズを完成する。 | |
2月 | 再びパリのホテル・ド・リュシーに滞在し、モンマルトル大通りのシリーズを描く。 | ![]() 1897年 家族に囲まれて エラニー |
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3月 | デュラン=リュエルがルーアンのシリーズを含むピサロの作品をニューヨークで初めて展示する。 | |||
春 | リュシアンが卒中で倒れ、病床にかけつける。 | |||
5−7月 | ロンドンに滞在する。 | |||
11月25日 | 息子フェリックスが結核に侵され、ジュリーとジョルジュに看取られ死去。 | |||
. | ドレフュス事件がフランスを二分する。最初は無関心であったピサロは、ドレフュスの無罪を確信するが、反ユダヤ主義が噴出し、国中で暴動が勃発する。 | |||
. | ピッツバーグのカーネギー・インスティテュートでの第2回国際展覧会に出品する。 | |||
1898 | 68歳 | 1−4月 | パリのオペラ座通りのシリーズを制作する。 | |
6月 | デュラン=リュエル画廊で個展が開催されオペラ座通りのシリーズが展示される。 | ![]() 《ルーアンのエピスリー通り、 朝、曇り空》 |
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7−10月 | ルーアンに滞在し、ルーアン・シリーズを描く。世界各地でピサロの作品が展示されるようになり、彼の作品が展示された第3回国際展覧会はピッツバーグのカーネギー・インスティテュート、モスクワ、ベルリン、ミュンヘンで開催された。 | |||
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. | ドレフュス事件が苦い波紋を残したにもかかわらず、ピサロはこの年47点の油彩を描いている。パリのエセル画廊で版画57点が展示された。 | |||
1899 | 69歳 | 3−4月 | ベルネーム=ジュヌ画廊ピサロ、モネ、ルノワール、シスレー、コローのグループ展を開催され、絵画約20点が展示される。 | |
4月 | デュラン=リュエル画廊での印象派展に参加する。ピッツバーグのカーネギー・インスティテュートでの第4回国際展覧会に展示される。 | |||
. | ジョルジュが重病を患い、制作が中断される。 | ![]() 1897年頃 エラニーのピサロ |
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9−10月 | ヴアランジュヴィル=シェル=メールで制作する。 | |||
11月 | モレ=シュル=ロワンのリヴォリ通りに部屋を借り、チュイルリー庭園のシリーズに取りかかる。 | |||
1900 | 70歳 | . | フランス美術100年展に作品が展示される。 | |
7−9月 | ディエップとベルヌヴァルを訪れる。 | |||
11月 | ドーフィーヌ広場に移り、ヴュル・ガラン広場やポン=ヌフのセーヌ河とルーヴル宮のシリーズを制作する。 | |||
. | アンプロワーズ・ヴォラールがピサロの版画展を開催し成功する。 | |||
1901 | 71歳 | . | デュラン=リュエル画廊で大規模な個展。さらにべルネーム=ジュヌとポルティエにも作品を取り扱うことを認める。 | ![]() |
3月 | ブリュッセルの「自由美学」展に出品する。 | |||
4−5月 | モレ=シュル=ロワンに滞在し、ヴュル=ガラン広場やボン・ヌフのシリーズの制作を続ける。 | |||
7−9月末 | ディエップに行き、市場やサン=ジャック教会が見下ろせるホテルに滞在し、サン=ジャック教会のシリーズを制作する。 | |||
. | この年はわずか15点の油彩しか描いていない。 | |||
1902 | 72歳 | 4月 | ベルネーム=ジュヌ画廊での「モネ、ピサロ展」にディエップとパリのシリーズを展示する。 | ![]() 《ディエップの市、 陽のあたる午後》 |
5−6月 | モレ=シュル=ロワンでビカビアに会う。 | |||
7−9月末 | 再びディエップに滞在し、港のシリーズを制作する。デイエップを描いた作品に対する提示価格があまりにも低かったため、売却せず自分で保管する。 | |||
1903 | 73歳 | 1月 | F.ジエラールとその息子、その他の画商がディエツプのシリーズを購入する。 | |
3−5月 | パリに滞在し都市をテーマにした連作、ホテルの部屋から眺めたヴオルテール河岸のシリーズを描く。 | |||
7月 | ディエップ・シリーズの3回目を描き始めるつもりでディエップにもどるが、数日滞在するうちにル・アーヴル行きを決心し、そこで最後のシリーズに取りかかる。 | |||
7−9月 | ル・アーヴルで制作する。ゾラの一周忌で、メダンへの巡礼の旅に参加する。 | ![]() 《自画像》 |
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10月末 | パリにもどり、ヴォルテール河岸のシリーズを完成させる。 | |||
11月13日 | パリのモルラン大通り一番地で死去。 | |||
. | ペール=ラシューズ墓地に眠る父、母、祖父の隣に埋葬された。葬儀には、モネ、ルノワール、JJッセルベルグ、ヴァン・デ・ヴュルデ、ベルナール、プレスタン、マティス、デュレ、ミルポー、ルコント・アユネオン、デュラン=リュエル、ベルネーム、ヴォラール、フォール、ヴィオなど多くの人々が参列した。 | |||
1904 | . | 4月 | 130点もの作品で構成される大回顧展がデュラン=リュエル画廊で開催される。カタログの序文はオクターヴ・ミルポーが執筆する。 | |
. | . | . | ジュリーはエラニーの家に住み続け、1926年5月16日に死去。ピサロの子供たちの多くは美術の道に進み、さらに、何人かの孫も同じ道に進んだ。 |