フランス印象派の画家。少年の頃に教育のためパリに来て美術に触れ、この道を歩む決意をする。
1855年に父を説得して再びパリに出て、万国博覧会でクールベに衝撃を受け、コローに心酔する。 アカデミー・シュイスでモネと出会い、後の印象派グループに合流する。当時、暗い人物画を描いていたセザンヌと親しくなり、彼に戸外の光を教え風景画へと目覚めるきっかけを与える。
1872‐82年のポントワーズやルーヴシェンヌ時代は、《キャベツ畑の小径》《ヴォワザン村の入り口》など茶、緑、赤などの不透明な色彩で堅固な落ち着きのある力強い風景画を残し、 その空間処理はセザンヌ、ゴーガン、カサットなど色面に関心をもつ画家たちに影響を与えた。
続く1884‐1903年のエラニー時代は、新たな技法に対する関心によって始まった。スーラ、シニャックなどの点描主義が彼をとらえ、50歳を過ぎて名声も安定しかけたというのに、息子リュシアンとともに30歳近くも年下の若者らと一緒に新印象主義の技法を取り入れ《ジャンヌの肖像》《土を掘る農婦》などを制作、発表する。

1886年の第8回印象派展は、ピサロがポスト印象派、新印象派の画家たちを仲間に入れたため、モネら創立以来のメンバーは手をひき、新世代誕生を告げる展覧会となった。 しかし点描技法という、科学的で理論的な方法はときに彼を苛立たせ、1890年頃には以前の自由な描法に戻った。
モネが《ポプラ》《積みわら》の連作をはじめた少し後に、彼も同一モティーフを繰り返し描くことを始め、なかでも俯瞰構図をとった都市風景は、鮮やかな構図とパリ、ルーアンといった都市の様々な場所の賑わいを描いた点で、彼の好んだ広重の《名所江戸百景》にも比べうる作品である。
印象派中最も年長で、温厚な性格ゆえに印象派主義の中心的存在であり、セザンヌのよき理解者、ゴーガンの発見者であった。 |