年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1841 | 0歳 | 2月25日 | フランス中部リモージュのサント=カトリーヌ通り35番地(現在のガンペッタ通り71番地)に生まれる。父レオナールは仕立屋、母マルグリット・メルレはお針女という貧しい職人家庭の7人兄弟の6番目の子供だった。レオナールの子供たちのうち上の2人は幼時に死亡し、残った者のうち、一番上のピエールは彫金師、マリー・エルザは図案家シャルル・ルレと結婚、レオナール・ヴィクトールは仕立屋、末弟エドモンは文学者となる。 | . |
1844 | 3歳 | . | より良い暮らしを求めて一家はパリに移り、ビブリオテーク街16番地に住む。 | . |
1848 | 7歳 | . | キリスト教学校の少年団に入り、読み書きを習う。 | . |
1849 | 8歳 | . | 弟エドモンが生まれる。彼は後にルノワールが「印象主義者」として世間から激しく攻撃された時、理論的支持者として印象派を助ける役割を果たす。 | . |
5月12日 | 音楽に傑出した才能を見せたルノワールは、小学校の音楽教師で、当時すでに有名を作曲家であったシャルル・グレーに注目される。グレーはサン=トゥスターシュ教会の聖歌隊に彼を加え、熱心に個人教授をし、音楽家に育てあげようという情熱を示す。 | . | ||
1854 | 13歳 | . | キリスト教学校の少年団をやめる。 | . |
. | 両親はグレーの熱烈を申し出を断り、すでにすぐれた画才を示していたルノワールをフォセ=デュ=タンプル街76番地の磁器業者レヴィ兄弟の許にあずける。それからの4年間、磁器絵付師としてみるみる腕をあげ周囲を驚嘆させる。最初は花模様の飾りつけを会得し、ついでマリー・アントワネットの肖像を措き、彼の磁器はかなりの売れゆきを示した。 | 母の肖像 (マルグリート・メレル) |
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1855 | 14歳 | . | ルーヴル美術館で勉強する許可を得る。 | |
. | 政府のリヴォリ街拡張計画のため、一家でアルジャントゥイユ街23番地に引越す。 | |||
1856 | 15歳 | . | デッサンを学ぶため、夜学に通い始める。 | |
1858 | 17歳 | . | 絵付けの機械化が普及し、量産の出来ない手描きの絵付けは廃れ、レヴィ兄弟の事業も失敗したため、彼は自力で仕事を始めなければならなくなった。彫金師の兄ピエール=アンリの仕事の彩色を手伝ったり、扇子の絵を描いたり、カフェの装飾などをする。その多くは18世紀風のロココ調の模様であった。 | |
1861 | 20歳 | 11月8日 | アカデミックな画家シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入る。 | 船遊びの帰り |
1862 | 21歳 | . | 国立美術学校を受験し、合格する。グレールの教室に入った彼は、ここでも優秀を生徒で、解剖学、遠近法、デッサンなどのコンクールですばらしい成績を残す。 すでに栄光の頂きにあったファンタン=ラトゥールは、時折グレールの教室を訪れ、ルノワールの作品に接し、彼に対する讃辞をおしまなかったという。 |
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4月1日 | 国立美術学校に入学。入学成績は80人中68番。 | |||
夏 | グレールの学生たちとフォンテーヌブローの森での制作を開始する。 すでにミレーやルソー、デイアズ、コローといったバルビゾン派の巨匠たちは戸外制作に熱中していた。若いルノワールやモネ、シスレー、バジール等は自然の中で直接モティーフにとり組みはじめる。バルビゾン派の画家ディアズより忠告を受ける。 |
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10月1日 〜12月31日 |
兵役を務める。 | ルーベンス絵画コピー |
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10月〜11月 | フレデリック・バジール、クロード・モネ、アルフレツド・シスレーもグレールのアトリエに入門し、交友を深める。 | |||
1863 | 22歳 | 5月15日 | サロン(官展)と落選者展開幕。アルセーヌ・アレクサンドルによれば、《牧神を従える水の精》がサロンに落選したためにこれを破壊している。落選者展ではマネの《草上の昼食》が展示される。 | |
. | この頃カミーユ・ピサロおよびポール・セザンヌと出会う。 | |||
1864 | 23歳 | . | 家族はパリを去ってヴィル・ダヴレ一に移る。ルノワールはヴィクトール・ユゴー街にアトリエを借り生活する。この頃から肖像画の注文を多少受けるようになる。 | |
1月5日 〜3月5日 |
2度目の兵役を務める。 | ウイリアム・シスレーの肖像 |
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5月3日 | サロン開幕し、《エスメラルダ》が入選するが、展覧会終了後にその作品を破壊する。この頃グレールのアトリエが財政難に苦しむ。 | |||
1865 | 24歳 | 4月 | マルロットに家を買った友人の画家ジュール・ル・クールのもとにしばしば滞在した。ここでル・クールの恋人クレマンス・トレオと彼女の妹リーズ・トレオに出会う。リーズはルノワールの恋人になり、1872年に結婚するまでしばしばモデルをつとめた。 | |
春 | 両親がパリ郊外のヴィル・タヴレーに移る。 | |||
5月1日 | サロン開幕し《ウイリアム・シスレーの肖像》と《夏の夜》が入選する。 | |||
7月 | 仲間とル・アーヴルでボートの競争会を見にセーヌ河を小舟で下る旅を計画する。 | |||
1866 | 25歳 | 1〜3月 | ポーの芸術愛好家協会の展覧会に作品3点を出品する。 | フオンテーヌブローの森の 画家ジュール・ル・クール |
2月 | シスレー、ル・クールとともにフォンテヌブローの森を徒歩で横断して、近隣の村ミリイとコーランスを訪れる。 | |||
3〜4月 | シスレー、ル・クールとともにしばしばマルロットに滞在する。 | |||
5月1日 | サロン開幕し、マルロットで制作した油彩画《2人の人物のいる風景》と、「早描き」のスケッチを審査に提出したところ、スケッチは入選したが、油彩画はコローやドービニーの肯定的な意見にもかかわらず落選した。彼らは落選者展を要求するようにルノワールを励ました。ルノワールは、スケッチだけを公表することを望まなかったのでサロンから自分の作品を撤収した。 | |||
8月 | シスレー、シャルル・ル・クール、彼の妹マリーとベルクに滞在する。 | |||
. | 同居していたシスレーが結婚するため、今度はヴィスコンテイ街20番地のバジールのアトリエで共同生活をさせてもらう。 | 狩りをするディアナ |
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1867 | 26歳 | . | この頃からパティニョール街11番地のカフェ・ゲルボワでマネを中心に芸術家たちが集まる。メンバーは批評家デュランテイ、シルヴュストル、小説家ゾラ、セザンヌなど。ルノワールは特にマネに心酔していたらしい。 | |
3月 | 《狩りをするディアナ》をサロンに落選する。バジールとアトリエを共有する。 | |||
7月〜8月 | シャンティリィに滞在する。 | |||
冬 | バジールがルノワールのいたヴィスコンテイ街20番地の部屋を引き継いで借りる。彼らはモネによってその後まもなくして引き合わされ、おそらく1867年の暮れまでそこを共同使用した。 | |||
1868 | 27歳 | 年初 | バジールとルノワールが、カフェ・ゲルボワの近くにあるラ・ぺー街9番地(すぐコングミーヌ街と改名)に引越す。 | 日傘をさすリーズ |
3月頃 | 画家ジュールの兄で建築家のシャルル・ル・クールの仲立ちで、パリのジョルジュ・ビベスコ公爵邸の装飾を依頼される。 | |||
5月〜6月 | サロンに《日傘をさすリーズ》が入選する。一部の批評家に注目され、肖像画の注文も受けるが、経済状態は好転しない。 | |||
8月 | ヴィル=ダヴレーに滞在する。両親がヴォアサン=ルーヴシェンヌに引越す。 | |||
1869 | 28歳 | 5月〜6月 | サロンに《夏にて(習作)》を出品する。 | |
6月 | ルーヴシェンヌの両親の家に滞在し、ほぼ毎日ブージヴァル近郊のサン=ミシェルに住むモネを訪ねる。当時セーヌ河には水浴場を兼ねた食堂があちこちにあり、休日にはパリからの人で賑わっていた。ルノワールとモネはその中の一つ《ラ・グルヌイエール》で同じ主題の絵にとり組む。まばゆい陽光の下で自然と向かい合った彼らは魅惑的をセーヌの表情をとらえるのに夢中になり、印象派の先駆となる作品を描く。 | ラ・グルヌイエール |
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10月 | パリのラ・コンダミーヌ街9番地のバジールの新しいアトリエに移る。アトリエでボルドー生まれのディレッタント、エドモン・メートルと知り合う。博識で、活動的なメートルの周りには多くの文学者、芸術家が集まり、ルノワールは彼らとのつき合いを楽しむ。 | |||
秋 | シャルパンティエの絵の具と額を売る店に作品を何点か展示する。 | オダリスク(アルジェの女) |
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1870 | 29歳 | 2月 | モネとともにブージヴァルで制作する。 | |
4月 | バジールとともにボザール街8番地にアトリエを移す。アトリエは狭くタランヌ街5番地のエドモン・メートルのもとで大半を暮らしていた。 | |||
5月〜6月 | サロンに《水浴の女とグリフォンテリア》《オダリスク》を出品する。傾倒していたドラクロワの作品「アルジェの女たち」から着想を得た《オダリスク》が入選した。 | |||
8月26日 | 7月19日に開戦した普仏戦争に動員される。ボルドーの第10騎兵部隊に配属され、最初はタルブに、次いでリプルヌに送られた。 | オウムと女 |
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1871 | 30歳 | . | リプルヌで重い病いにかかり、ボルドーで療養する。 | |
3月15日 | 除隊になるとパリに戻り、ドラゴン街に部屋を借りる。病気の傷手を癒してくれるパリの雰囲気の中でルノワールはただちに仕事にとりかかる。 | |||
春 | ルーヴ=シェンヌ、ブージヴァルに行き、シスレーとともに制作する。 | |||
3〜5月 | パリ警視総監ラウル・リゴーのおかげで通行証を手に入れ、コミューンの時期も、両親のいるルーヴシエンヌとパリを往復することができた。 | |||
4月 | パリに戻り、ドラゴン街に部屋を借りる。 | |||
8月 | ブージヴァルとマルロットを訪れる。プテイ=シャン街にアトリエを持ち、モネと旧交を温める。 | アルジェ風のパリの女たち |
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9月 | ノートルダム=デュ=シャン街34番地に部屋を借りる。 | |||
1872 | 31歳 | 3月16日 | モネとピサロの紹介で、画商のデュラン=リュエルに会う。のちに印象派の擁護者となるデュラン=リュエルはさっそく最初の風景画《学士院とポン・デ・ザール》を買う。 | |
4月24日 | リーズが建築家ジョルジュ・ブリエールと結婚する。ルノワールは彼女に最後の肖像画を贈る。これから後、リーズは二度とルノワールに会おうとはしなかった。 | |||
4月 | サロンに出品した《アルジェリア風のパリの女たち》が落選する。 | |||
6月18日 | 落選展を再度開催するよう要求する、シャルル・ブランが草起した請願書にマネ、ラトゥール、ヨンキント、ピサロ、セザンヌらと一緒に署名する。 | |||
夏 | モネとともにアルジャントゥイユで制作し、ギュスターヴ・カイユポットを訪ねている。 | ポン・デ・ザール |
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11月 | 《ポン・デ・ザール》がデュラン=リュエルの企画したロンドンの画廊での展覧会に出品された。初めてイギリスでルノワールの作品が紹介される。 | |||
1873 | 32歳 | 5月〜6月 | 落選者展に《ブーローニュの森の朝の乗馬》《肖像》を出品し、批評家デュレやカスタニヤリ等からの支持を受けた。。 | |
夏 | モネとともにセーヌ河畔アルジャントゥイユで制作に励む。 | |||
9月 | モンマルトルの丘に近いサン=ジョルジュ街35番地に移り、サン=ジョルジュ街にアトリエを持つ。 | 桟敷席 |
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冬 | ダグラス・クーパーによれば、当時16歳のマリー・ル・クールへ宛てたルノワールの恋文がまずは彼女の叔父ジュールに、そしてその後、彼女の父シャルルに発覚したため、ルノワールはル・クール家と絶縁することになる。 | |||
12月27日 | ルノワールのアトリエにて芸術家が集合し、「画家・版画家・彫刻家などによる共同出資会社」を結成する。 | |||
1874 | 4月15日 〜5月15日 |
ナダールの写真館で第1回印象派展開催(キャプシーヌ大通り35番地)し、ブーダン、セザンヌ、ドガ、ギョーマン、モネ、モリゾ、ピサロが参加。ルノワールは《桟敷席》《踊り子》《パリ娘》など7点を出品した。この展覧会は大失敗に終り、世間からは激しい非難と皮肉いっぱいの批評を受ける。しかしルノワールの作品は《桟敷席》など3点が売れる。 | ||
4月 | デュラン=リュエルが企画するロンドンでの展覧会に作品2点を出品する。 | モネ夫人とその息子 |
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8月 | アルジャントゥイユにモネを訪ね、《モネ夫人とその息子》などを制作する。後にシスレーとマネも訪ねてくる。 | |||
12月17日 | ルノワールのアトリエでの会議で、負債のため共同出資会社の解散を決議する。 | |||
12月22日 | 父レオナールがルーヴシェンヌにて75歳で死去。 | |||
1875 | 34歳 | 年初 | アンプロワーズ・ヴォラールによれば《子どもと散歩する女》という肖像画の制作を1200フランで依頼される。ルノワールはその報酬を使って、この年4月、コルトー街12番地にアトリエを借りた。 | |
. | マルゴーら新しいモデルと出会う。 | 34歳頃のルノワール肖像 |
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3月23〜24日 | モネ、シスレー、ベルトモリゾらを説得して自分たちの作品の競売会をオテル・ドゥルオで催す。ルノワールは油絵20点を2251フランで売却。売値は50フランから300フランの間だった。この頃、出版業者ジョルジュ・シャルパンティエと税官吏で蒐集家のヴィクトール・ショケと知り合う。 | |||
4月 | サロンに出品した作品がすべて落選する。 | |||
7月 | シャトゥーにあるレストラン・フルネーズを訪れる。 | |||
夏 | ドラクロワの蒐集家であるジャン・ドルフェスから、ドラクロワの《モロッコのユダヤ人の婚礼》の模写を依頼される。 | |||
9月 | デュラン=リュエルのフランス芸術家協会のロンドンでの展覧会にルノワールの作品も展示される。 | |||
冬 | デュラン=リュエルがロンドン支店を閉じる。 | |||
1876 | 35歳 | 2〜3月 | ポーの芸術愛好家協会の展覧会に作品2点を出品する。 | モネの肖像 |
4月11日 〜5月9日 |
ル・ベルティエ街のデュラン=リュエル画廊で開催された第2回印象派展に《ショケ夫人の立像》《陽光の中の裸婦(習作)》《読書するショケ夫人》《ピアノを弾く少女》《モネの肖像》《散策》など作品18点を出品する。 | |||
夏 | モンマルトルの丘にある舞踊場ムーラン・ド・ラ・ギャレツトを頻繁に訪れ始める。コルトー街のアトリエから友人たちの力を借りて毎日のように大画面を運び込み、これまでの集大成ともいうべき、この光り輝く傑作を完成させる。 | |||
9月 | シャルパンティエ夫人の紹介で知り合った作家アルフォンス・ドーデとともにシャンロゼに滞在し、ドラクロワの墓を訪れる。 | |||
10月 | サン=ジョルジュ街に新たにアトリエを借りる。シャルパンティエから、グルネル街にある自宅の装飾を依頼される。 | |||
11月3日 | カイユポットから、遺言執行人に指名される。 | ぶらんこ |
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1877 | 36歳 | . | ルノワールは素晴しいモデル女優のジャンヌ・サマリーを見つける。シャルパンティエ家で彼女に出会って以来、彼はフロショ街に住むジャンヌのアパルトマンに通いつづけ、最も光の効果の良い時間をのがさず、一心に描きふけったという。 | |
4月4〜30日 | ル・ベルティエ街6番地での第3回印象派展に21点の油彩画《ぶらんこ》《ムーラン・ド・ラ・ギャレツト》《シヤルパンティエ夫人の肖像》《ジャンメ・サマリーの肖像》などを出品する。展覧会開催期間中、ルノワールの友人で批評家のジョルジュ・リヴィエールが編集する週刊新聞『ランプ・ショニスト(印象派)』が刊行された。同紙にはルノワールも「一絵描き」という書名で、4月14日には手紙を、4月28日には「装飾芸術と現代人」という記事を寄稿している。 | |||
5月28日 | オテル・ドゥルオで競売会を催す。ルノワールの作品は油彩画15点とパステル画1点を総額2005フランで売却する。ルノワール作品の最高価格は285フランだった | マルゴの肖像 |
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10月 | ガンベッタと出会い、地方美術館の職を紹介してくれるように依頼する。 | |||
1878 | 37歳 | 4月 | サロンへの出品を再開し、《一杯のココア》を出品する。 | |
5月 | デュレの小冊子『印象派の画家たち』刊。1867年の《日傘のリーズ》にもとづいてルノワールが措いた素描が挿絵として用いられる。 | |||
6月5〜6日 | エルネスト・オシュデの蒐集品が、彼の破産のため、オテル・ドゥルオで競売にかけられる。ルノワールの油彩画3点の総額は157フランだった。 | |||
6月 | エミール・ゾラの小説『居酒屋』(新装版)刊。ルノワール他多くの画家の素描をもとにした版画が挿絵に使われている。 | |||
1879 | 38歳 | 2月25日 | 1875年からモデルを務めた、気に入りのモデルのアルマ=アンリエット・ルボーフ(通称マルゴ)が天然痘に患り死亡する。 | シャルパンティエ夫人と子供たち |
4月10日 | シャルパンティエ氏の『近代生括』誌では、弟のエドモン・ルノワールが兄の仕事を支持する論文を発表し、また同誌はルノワール特集記事も掲載する。 | |||
4月10日 〜5月11日 |
オペラ座通り28番地で開催された第4回印象派展に不参加。 | |||
5月3日 | サロン開幕。2点の油彩画《シャルパンティエ夫人と子どもたち》《女優ジャンヌ・サマリーの立像》および2点のパステル画《ポール・Cの肖像》《テオドール・Bの肖像》を出品する。二つの油彩画はモデルの持つ影響力のおかげで絶好の場所に飾られ、出版物にも数多く掲載され好評を得る。 | |||
6月12日 | シャルパンティエにシスレーの個展の開催を提案する。 | ジャンヌ・サマリー(立像) |
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6月19日 〜7月3日 |
シャルパンティエの雑誌『ラ・ヴィ・モデルヌ』の営業部が所有していた、街路に面した画廊で個展を開催する。 | |||
6月19日 | 弟エドモンが『ラ・ヴイ・モデルヌ』誌にルノワールについての記事を掲載する。 | |||
7〜9月 | ノルマンディー海岸のヴァルジュモンのポール・ベラール家に滞在する。以後、同家と親密に交遊する。 | |||
9月 | ディエップにいる友人の画家ジャック=エミール・ブランシュを訪ね、彼の父からワーグナーを題材にした装飾画を依頼される。 | |||
秋 | パリで未来の妻アリーヌ・シャリゴと知り合う。 | |||
1880 | 39歳 | 1月 | 自転車から落ち右腕を折り、左手で描くことになる。 | 舟遊びをする人たちの昼食 |
4月1 〜30日 |
ビラミッド街10番地で開催された第5回印象派展に不参加。 | |||
5月〜6月 | サロンに2点の油彩画《ベルヌヴァルの海女》《眠る少女と猫》と2点のパステル画《リュシアン・ドーデの肖像》《M.B.嬢の肖像》を出品する。 | |||
5月10日 | モネとともに美術大臣に手紙を書き、サロンにおける絵の展示方法に異議を申し立てる。 | |||
7月 | シャトゥーに滞在し《舟遊びをする人たちの昼食》を制作する。この頃から印象派の技法に疑問を抱く。 | |||
夏 | ヴァルジュモンのベラール家に滞在する。 | |||
1881 | 40歳 | 1月 | デュラン=リュエルが定期的に作品を購入し始める。 | |
2〜4月 | パリにいささか疲れを感じたルノワールは画家コルデーとアルジェリアに旅行する。かつてドラクロワを魅了したこの地で、ルノワールもまた土地の女たちや風景を何点か描く。 | |||
4月2日 〜5月1日 |
キャビュシーヌ大通り35番地で開催された第6回印象派展に不参加。 | |||
4月20日 | パリのノルヴァン街にアトリエを借りる。 | |||
4月 〜7月 |
パリ、シャトゥ、ブージヴァル、クロワシーで制作。 | バラ色と青色の服を着た カーン・ダンヴェールの少女たち |
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5月〜6月 | サロンに肖像画2点《カーン・ダンヴェール家の令嬢たち》などを出品する。 | |||
7月19日 | ジャック=エミール・ブランシュとともにディエップに滞在する。 | |||
7月20日 〜9月半ば |
ヴァルジュモンのベラール家に滞在する。 | |||
10月初め | パリに滞在する。 | |||
10月28日 | 3ヶ月のイタリア旅行に出発し、フィレンツェのピッティ美術館でラファエルロの「小椅子の聖母」に感動する。次いでローマのヴィラ・ファルネジーナ、ヴァティカン宮殿でラファエルロの装飾を徹底的に研究した。旅の終わり頃に妻となるアリーメ・シャリゴも合流している。 | |||
12月 | ポンペイ、ソレントを訪れ、カプリに滞在して《ブロンドの浴女》と題する傑作を描き上げる。この作品は入江に浮かぶ漁船のなかで、太陽の光を浴びながら描いたものであった。 | ブロンドの浴女 |
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12月26 〜28日 |
ソレントとカプリに滞在する。カプリから、レジオン・ドヌール五等勲章を受章したマネにお祝いの手紙を書く。 | |||
1882 | 41歳 | 1月14日 | パレルモで作曲家リヒャルト・ワーグナーに会い、翌日35分間だけ肖像画のモデルをしてもらう。 | |
1月17日 | ナポリでマルセイユ経由でパリに帰る計画をたてイタリアを発つ。 | |||
1月末〜2月 | 南仏レスタックのオテル・デュ・バンに滞在し、セザンヌと絵画制作。このレスタック滞在中に肺炎になり、セザンヌとその母が看病する。 | |||
3月 | サン=トノレ街251番地で開催された第7回印象派展への参加を断るが、デュラン=リュエルが《眠る少女と猫》《桟敷席》《舟遊びの昼食》《シャトウーのセーヌ河》《ヴェネツィアの大運河》など、自分の所有するルノワールの作品25点を出品する。 | ヴェネツィアの大運河 |
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3月14日 | 主治医の勧めによりアルジェリアに向かう(2週間の滞在を予定していたが、結局6週間に延びる)。 | |||
5月〜6月 | サロンに《イヴォンヌ・グランレル嬢の肖像》を出品する。 | |||
7月 | デュラン=リュエルが企画したロンドンでの印象派展に作品が展示される。 | |||
8月半ば | ヴァルジュモンのベラール家に滞在する。 | |||
9月半ば | デュラン=リュエル一家とともにディエップに滞在する。 | |||
1883 | 42歳 | 4月1〜25日 | マドレーヌ大通り9番地のデュラン=リュエル画廊で第1回の個展を開く。作品70点を出品する。デュレがカタログの序文を執筆する。 | クラビソン夫人の肖像 |
4〜7月 | デュラン=リュエルが企画したロンドンの画廊での展覧会に隼義10点が展示される。 | |||
5月〜6月 | サロンに《クラビソン夫人の肖像》を出品する。 | |||
5月 | デュラン=リュエルがアメリカで初めてルノワールの作品を展示する。 | |||
夏 | アルジャントゥイユ近郊のカイユポットを訪ねる。 | |||
8月 | ノルマンディーに滞在する。 | |||
9月 | アリーヌと画家ポール・ロートとともにジャージー島とガンジー島を旅行する。 浜辺の岩場で少女たちが水浴する魅惑的を風景をみて、いかに心をそそられたかをルノワールは告白している。今までの主題に代わって裸婦が彼の関心を占めるようになる。 |
ガーンジー島海岸の女と子供 |
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秋 | ベルリンの画廊で開催された印象派展に作品を出品する。 | |||
12月 | 『ラ・ヴイ・モデルメ』誌に弟エドモンの短編小説「値札」が掲載される。ルノワールはこの小説のために挿絵を描いている。 | |||
モネとともにマルセイユからジェノヴァまで地中海沿岸を周遊し、帰りにエクス=アン=プロヴァンスのセザンヌを訪問する。 | ||||
1884 | 43歳 | 1月 | セーヌ芸術サークルが開催したショセ・ダンタン街での展覧会に作品2点を出品する。 | ヴァルジュモンの 子供たちの午後 |
2月 | 破産してロシアから帰国した兄のヴィクトゥールを援助する。 | |||
5月 | デュラン=リュエル宛の手紙の中で、「不規則派協会」の計画を説明する。また『芸術法則の概念』の出版を考える。 | |||
デュラン=リュエルが破産の危機に直面する。ルノワールとモネは、自分たちの絵を安い値段で売ることに同意する。 | ||||
夏 | ヴァルジュモンのベラール家に滞在する。 | |||
コローの作品に触発されて、ラ・ロシェルに行く。 | ||||
10〜12月 | 若い妻が妊娠したため、ウードン街18番地に4部屋と台所付きの住いを見つける。アトリエは別にラヴァル街37番地(現在のヴィクトール・マッセ街)に借りた。 印象派の仲間が定期的に会合する機会を設けるため、モネが毎月夕食会を開くことを提案する。 |
44歳頃のルノワール |
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12月8日 | 批評家オクターヴ・ミルポーがルノワールに好意的な記事を『ラ・フランス』誌に掲載する。 | |||
1885 | 44歳 | 2月 | デュレの評論集『前衛批評』が発刊され、同書には1883年のルノワールの個展に寄せたカタログの序文も収録されている。 | |
3月21日 | アリーヌ・シャリゴとの間に長男ピエールが生まれる。名付け親はカイユポット。このことはルノワールの生活に大きな革命を起こすこととなった。彼はもっばら家族のために献身し、同時に夢中になって息子をデッサンする。この年から翌年にかけて描かれた一連の「母性」シリーズは、ルノワール芸術の新しい方向を示すものである。 | |||
6日4日 | デュラン=リュエルがブリュッセルで印象派の作品展を開催する。 | アリーヌ・シヤリゴの肖像 |
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6日15日 〜7月11日 |
セザンヌが内縁の妻オルタンス・フィケと息子ポールを連れて訪れる。 | |||
7月12日 | デュラン=リュエルがアムステルダムで印象派の絵画展を開催する。 | |||
7月 | ヴァルジュモンのベラール家を訪ねる。 | |||
8月下旬 | パリに滞在する。 | |||
9月 | 妻アリーヌの生まれ故郷南シャンパーニュやエッソワを初めて訪れる。 | |||
9〜10月 | セザンヌとラ=ロッシュ=ギュイヨンに行く。 | |||
11月 | ヴァルジュモンのベラール家に滞在する。 | |||
1886 | 45歳 | 1月11日 | ベルト・モリゾがルノワールのアトリエを訪れ、《大水浴》の習作に感嘆する。ドガ、モネ、マラルメらとベルト・モリゾの自宅での木曜日の夕食会に参加する。 | 大水浴のための裸婦習作 |
2月8日 | ブリュッセルの二十人会が開催する展覧会に作品8点を出品する。 | |||
4〜6月 | デュラン=リュエルが企画したニューヨークでの印象派展に油彩画とパステル画38点を出品する。デュレがカタログの序文を執筆。 | |||
5月15日 〜6月15日 |
ラフイツト街1番地で開催された第8回で最後の印象派展に不参加。 | |||
6月 | セーズ街のジョルジュ・プティ画廊での第5回国際美術展に作品5点を出品する。 | |||
6月16日 | ミルポーがルノワールに好意的な文章を『ル・ゴロワ』誌に発表する。 | |||
7月 | ラ・ロシュ=ギュイヨンに再び滞在する。 | |||
8〜9月 | 北ブルターニュを旅行し、港町サン=ブリアックに滞在する。「ペレットの家」を借りて2カ月間、家族とともに過ごす。 | ラ・ロシュ=ギュイヨン |
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10月15日 | ロシュシュアール大通り35番地に転居する。 | |||
12月 | 家族とともにエッソワに滞在しクリスマスと新年を過ごす。 | |||
1887 | 46歳 | 5月5日〜6日 | デュラン=リュエルが企画したニューヨークの画廊での競売会に作品5点が出品される。 | |
5月〜6月 | デュラン=リュエルの企画でアメリカのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで開かれた2回目の展覧会に作品5点が出品される。 | |||
ジョルジュ・プティ画廊での第6回国際美術展に《大きな浴女たち》を含む5作品を出品する。 | 大きな浴女たち |
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8月 | ヴェジネに滞在する。 | |||
9月 | パリとルーヴシェンヌを往復する。 | |||
9月〜10月 | アリーヌと共にオーヴェル・シュール・オワーズにムルルを訪ね、そこでピサロと出会う。 | |||
1888 | 47歳 | 1月15日 | ルノワールやドガら4人の画家の彩色エッチングを詩人ステファヌ・マラルメが自作の散文詩の挿絵にすることを企画する。挿絵はルノワールのもののみが1891年に出版された。 | 麦わら帽子の少女 |
2月 | エクス=アン=プロヴァンスのセザンヌ邸に滞在後、マルティグのホテルに引越す。 | |||
3月 | 重病の母がいるルーヴシェンヌへ赴く。 | |||
4月 | カーニュに居を定める。 | |||
5、6月 | パリのデュラン=リュエル画廊で展覧会が開催され、ルノワール作品も油彩画19点、パステル画5点、グワッシュ2点の合計26点が展示される。 | |||
夏 | アルジャントゥイユとブージヴァルに滞在する。セーヌ河畔で、何点かの裸婦と浴女、それに《草束を持つ少女》を描く。豊かを活動期が続いていたが、この頃ルノワールは一時的なスランプに陥る。幸いにも、豊かな形態とヴォリュームの感覚を失うことなく、かなり短期間で明確を線描によるアングル様式から抜け出すことが出来た。そして、いわゆる「真珠色の時代」が始まる。この新生と開花は、時とともにいよいよ豊麗さを加えていく。 | 草束を持つ少女 |
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9月 | カイユポットのいるプティ=ジェメヴィリエに滞在する。 | |||
10月 | エッソワに3ヶ月滞在する。 | |||
12月末 | 顔面神経病が始まる。リューマチ性関節炎の最初の発作に襲われる。 | |||
1889 | 48歳 | . | モンマルトルの丘、まだ野趣を残す田舎そのままのところ、ゾラルドン街13番地に空家のブリュイヤール館を見つける。高台に建つこの家の窓からは、アルジャントゥイユやサン・クルーの丘、モンモランシーの森も見えた。 | サント=ヴィクトワール山 |
7月24日 | 万国博覧会の一環として企画されたフランス美術100年展への参加をドガと二人して断る。 | |||
夏 | ジョン・リォウルドによればエクス=アン=プロヴァンス近郊でセザンヌの義弟から家を借り、風景画を制作する。 | |||
8月 | マネの《オランピア》の購入基金への参加を断る手紙をモネに送る。手紙の中で金がないと詫びているが、1890年1月10日に50フランを送金している。 | |||
10月 | 歯の治療でパリに滞在する。クリシー通り11番地に住む。 | |||
1890 | 49歳 | 1月 | ブリュッセルの第7回20人展に作品5点を出品する。 | 49歳頃のルノワール ジラルドン街の自宅前にて |
4月14日 | パリ9区の区役所でアリーメと結婚式をあげる。正式な結婚で息子ピエールが嫡子として認知される。 | |||
5月〜6月 | サロンに《ピアノの前の娘たち》を出品する。これがサロンへの最後の出品となる。 | |||
5月 | レジオン・ドヌール勲章の授与を辞退する。 | |||
6月 | ラ・ロシェルに少なくとも2週間滞在する。 | |||
7月 | 家族とともにエッソワに滞在する。 | |||
9月 | ムーランの近く、セーヌ河のラ売れを見下すメジーのブロティエール館に住むベルト・モリゾ家を訪れる。メジー滞在中に2点の《花を摘む少女たち》が生まれた。この頃からルノワールは、ほとんど裸婦と肖像画に専心するようになる。 | |||
10月 | モンマルトルのジラルドン街13番地に転居する。 | |||
秋 | アリーヌが流産する。 | 少女の肖像 |
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12月6日 | 批評家テオドール・ド・ヴィツェヴァが『ラール・ダン・レ・ドゥ・モンド』誌にルノワールについての好意的な評論を書く。 | |||
1891 | 50歳 | 1月31日 | ルノワールに関する論文が発表され始め、デュラン=リュエルの新しい雑誌『ラール・ダン・レ・ドゥ・モンド』にアンドレ・メルリオが、8月にはオーリエが『メルキュール・ド・フランス』詰に論文を発表する。 | |
2月 | 批評家テオドール・ド・ヴイツェヴァ夫妻とともに、タマリス=シュル=メールにある彼らの別荘に滞在する。 | |||
4月7日 | 南仏のル・ラヴアンドゥーに滞在中に蒐集家ヴィクトール・ショケの死を知る。 | |||
7月 | デュラン=リュエルがルノワールの1890年から91年までの作品を出品の近作展を開催。 | |||
8月25日 | デュラン=リュエルが1883年制作の《ダンス》の3作品を1枚7500フランで購入。 | ピアノに寄る娘たち |
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8月 | メズィのモリゾ夫妻を訪ね、妻アリーヌを紹介する。 | |||
9月9日 | アルジャントゥイユの近くのプテイ=ジェメヴイリエにあるカイユボットの家に1週間滞在する。 | |||
1892 | 51歳 | 1月 | ブッソ・エ・ヴァラドン画廊が初めてルノワールの作品を600フランで購入する。 | |
4月 | マラルメと批評家ロジェ・マルクス、美術総監アンリ・ルージョンのおかげで、国がリュクサンブール美術館のために《ピアノに寄る娘たち》を購入する。 | |||
5月7〜21日 | デュラン=リュエル画廊で122点の作品を展覧する大規模をルノワール展が開かれた。そこには、いくつかの重要を作品が並べられる。《桟敷席》《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》《舟遊びをする人たちの昼食》《大きを浴女たち》などである。アルセーブ・アレクサンドルがカタログの序文を執筆する。 | |||
5月26日 | 友人ポール・ガリマールとともにスペインを旅行すし、マドリード、セピーリャを訪れる。プラド美術館ではベラスケスの作品に感銘を受ける。 | 水浴する少女 |
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6月25日 | モーリス・ドニが批評を書く。 | |||
7〜10月 | 家族とともにブルターニュに出向き、8〜9月はポルニック、ノワールムーティエに、9月下旬〜10月にはポン=タヴェンに滞在してエミール・ベルナールらに会う。 | |||
10月15日 | ロートレックが住むトゥールラック街7番地に新しいアトリエをもつ。 | |||
12月 | マラルメの肖像画を制作する。 | |||
1893 | 52歳 | 4月 | ニース近郊のボーリューに滞在する。 | |
5月 | パリに滞在する。 | |||
6月 | ドーヴイルに近いベネルヴィルに友人ガリマールを訪ねる。その後エッソワに旅行する。 | 髪を整える女 |
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7月 | 家族とともにノルマンディーのサン=マルコに1週間滞在する。 | |||
8月 | 家族とともにブルターニュのボン=タヴェンに2週間滞在する。 | |||
. | この年、ジャンヌ・ボドーと出会い、彼女はルノワールの弟子になる。 | |||
1894 | 53歳 | 2月21日 | カイユポットが45歳で死去。ルノワールは遺品にドガの《踊りの稽古》を選ぶ。遺言執行人として、カイユポット・コレクションの寄贈の受け入れを国に働きかける。 | |
6月 | モネとともにデュラン=リュエル画廊でのカイユポットの回顧展を準備、開催する。 | |||
9月15日 | のちにフランスを代表する映画監督となる次男ジャンが生まれる。名付け親はデュラン=リュエルと弟子のジャンヌ・ボドー。ジャンの世話をするため、エッソワから妻アリーヌの従姉妹のガブリエルを家に迎えた。この時16歳だったガブリエルは、特にルノワールのお気に入りのモデルとなって、20年間ルノワール家にとどまることになる。 | おもちゃで遊ぶ子供、 ガブリエルと画家の息子ジャン |
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9〜10月 | ヴェルサイユで制作。リューマチの発作に苦しむ。 | |||
12月 | 画商アンプロワーズ・ヴォラールに初めて会う。 | |||
1895 | 54歳 | 1月 | マルティーグ近郊のカリー=ル=ルエに、弟子のジャンヌ・ボドーと彼女の両親を訪ね一緒に滞在する。 | |
3月3日 | モリゾが54歳で死去。ルノワールは娘ジュリー・マネの後見人になる。印象派の仲間たちのうち、モリゾと最も親しくしていたルノワールにとって、辛く悲しい出来事であった。 | ルノワールとマラルメ 撮影:エドガー・ドガ |
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7月27日 | カイユボット・コレクションの寄贈がフランス政府に認められ、ルノワール作品も6点含まれる。 | |||
7月 | ラ・ロシュ=ギュイヨンに滞在し、ジヴェルニーにモネを訪問したときセザンヌの訪問を受ける。 | |||
8月 | ブルターニュ地方を旅行途中に家族やジュリー・マネと合流し、ジュリー・マネの絵の教師となる。ジャンヌとポーレのゴピラール姉妹をブルターニュに招待する。 | |||
12月 | アリーヌの生まれ故郷の美しい村エッソワに家を購入する。セーヌ河の支流ウルス河が村を流れ、その変化に富んだ表情がルノワールを魅了する。友人たちもこのエッソワによく画家を訪れ、エッソワでの生f舌は非常に楽しいものであったらしい。 | |||
1896 | 55歳 | 3月 | モネ、ドガとともに、デュラン=リュエル画廊でのモリゾの回顧展を準備、開催する。 | ジャンとガブリエル |
5月〜6月 | デュラン=リュエル画廊で個展を開催し、作品42点を展示する。 | |||
7月 | カイユポットの弟マルシャルとともにドイツのワーグナー音楽祭に行くが、耐えられず一人でドレスデン美術館を観賞する。 | |||
10月 | ラ・ロシュフコー街64番地にアトリエを借りる。 | |||
11月21日 | 母マルグリットがルーヴシェンヌにて89歳で死去。 | |||
1897 | 56歳 | 8月10日 | エッソワの近く、セルヴィニーの城まで自転車で散歩中、転倒し右腕を二度目の骨折をしてしまう。この後遺症でリューマチの発作が起こり、20年間彼は苦しみ続けることになる。 | |
9月14日 | ジュリー・マネがエッソワのルノワールを訪れ、ジュリーに絵の助言をする。 | |||
1898 | 57歳 | 2月 | 南仏のカーニュを初めて訪れる。これ以後、体調の悪化とともに、冬場の多くを南仏で過ごす。 | 版画を眺める若い娘 |
6月 | ロンドンのギルド・ホール・アートギャラリーで作品が展示される。 | |||
7月〜9月 | ジュリー・マネとともにディエツプの近くのベルヌヴァルへ行き、シャレー風の別荘を借りて夏を過ごす。 | |||
9月 | エッソワに滞在する。 | |||
10月22日 | デュラン=リュエルの息子ジョルジュとともに、アムステルダムヘ大規模な「レンプラント展」を観に行く。この旅行の間にハーグも訪れる。 | |||
12月12日 | カイユポット・コレクションのなかからルノワールに贈られたドガの《踊りの稽古》を売却する。これで得た金でコローの風景画を購入する。その結果、ルノワールとドガの仲は冷ややかになる。 | |||
1899 | 58歳 | 2月 | リューマチが再発して、右腕が全く動かなくなる。寒いパリを離れて、冬は南仏カーニュで過ごす。エクス=レ=バンで温泉治療を試みるが回復の見込みはない。 | ジャン・ルノワール |
4月 | デュラン=リュエル画廊でルノワール、モネ、ピサロ、シスレーの展覧会が開催され、42作品を出品する。 | |||
6月1、3、4日 | ヴイクトール・ショケ・コレクションの競売。その中にはルノワール作品11点が含まれる。 | |||
6〜8月 | サン=クルーに滞荏。ヴュイヤールの訪問を受ける。 | |||
9月16日 | ジュリー・マネの日記によると、ルノワールとドガが仲直りしている。 | |||
12月22日 | 南仏のグラッスに滞在する。 | |||
12月下旬 | 《子どもの頃のジャン・ルノワールの肖像》をリモージュ市立美術館に寄贈する。作品は1900年2月24日に登録される。 | |||
1900 | 59歳 | 1月 | パリのベルネーム=ジュヌ画廊で個展を開催し、作品59点を出品する。 | フォンティーヌブローの パヴィヨン・ド・ベルリュンヌで |
1月5日〜 5月中旬 |
アリーヌが南仏に来る。マガニョスク近郊に家を借りる。この頃から「ばら」がしばしば画面に登場しはじめる。ルノワールは「ばら」が裸婦の肌の色調に合うと考えたからである。ガブリエルともう1人のモデル、ラ・プーランジュールがこの時期の大きを裸婦のためにポーズをとる。 | |||
4月3日 | 当初参加を断っていたパリ万国博覧会の企画展に作品11点を出品する。パリ万国博覧会はシャン=ド=マルスを主会場としており、その入場者数は4800万人を数える。 | |||
8月16日 | レジオン・ドヌール五等勲章(シュヴァリエ章)を受章する。モネへの手紙に共和国政府からの突然の和解申し込みに対する戸惑いがみれる。 | |||
8月 | ルーヴシェンヌに滞在する。 | |||
11月 〜翌年4月 |
南仏のマガニョスクに滞在する。 | クロードとルネ |
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1901 | 60歳 | 1月 | リヨン美術館が《ギターを弾く婦人》を購入。 | |
2月下旬 | ルドンが訪れる。 | |||
4月 | サン=ラファエル近郊のル・トレイエで復活祭をアリーヌと息子のピエールとで過ごす。アリーヌはエッソワに、ルノワールはマガニョスクに帰る。 | |||
8月4日 | 二男クロード(愛称ココ)が生まれる。生まれたばかりのクロードとの生活は、彼にとって新しい喜びと活力の効果をもたらすことになる。少しずつ生活に目覚めていく愛らしいモデルを前に、生き返ったようにルノワールは制作に打ち込む。 | |||
9月 | ベルネーム兄弟の婚約者アドラー姉妹の肖像画を描くためにフォンティヌブローに滞在し、パリに帰る。 | |||
10月 | コランクール街43番地に転居。アトリエを同街73番地に借りる。 | |||
1902 | 61歳 | . | リューマチはルノワールの手足を徐々にだが確実に硬直させていく。ロシュフーコー街の家の四つの階段を登るのが困難になり、コーランクール街43番地に引越すことになる。そして住いから500メートルほどの所にアトリエを借りる。アトリエからはすぐ小さな庭に出られた。いやおうなしに毎日少しずつ歩くことは、彼のリューマチにとって、かなり理想的をことであった。 | 61歳頃のルノワール |
1月〜4月末 | アルベール・アンドレとカンヌの近くのカソネに滞在する。 | |||
6月 | エッソワに滞在する。隣家を加えてエッソワの家を大きくする。 | |||
デュラン=リュエル画廊で個展を開催。作品40点を出品する。 | ||||
9月 | ドレスデンの展覧会に3作品を出品する。 | |||
1903 | 62歳 | 2〜3月 | ル・カンネとカーニュに滞在する。 | カーニュ風景 |
8〜10月 | エッソワに滞在する。 | |||
11月 | マルセイユに立ち寄る。ピサロの死を知り葬儀に参列するためパリに戻る。 | |||
12月 | カーニュに落着き、自分と家族のために郵便局の建物の中に広い部屋を借りた。ここは今では市役所になっている。その部屋の窓からは、広々としたカーニュの街と海を見渡すことができた。彼はここで、海の反射を受けて、いよいよ明るく輝くカーニュの街を完全に描出している。しかし、彼が絵画への情熱を最もよく満たすことができたのはやはり家庭においてであった。彼の妻と3人の息子、そしてガブリエル、これらの人たちが彼にとって何よりも貴重なモデルであり、繰り返し彼の作品に登場してくる。 | |||
1904 | 63歳 | 2月〜4月 | ブリュッセルの自由美学展に12作品を出品する。 | エドゥアール夫人像 |
3月初旬 | カーニュに滞在し、復活祭の間、家族がやってくる。 | |||
4月〜5月 | エッソワで夏を過ごすため南仏に出掛ける。アンドレとロードゥンに滞在する。 | |||
春 | カーニュに滞在の間、きびしい病苦に悩み、あまりにも激しいやせ方のために、長く座っていることさえ不可能になった。しかしルノワールは、やせた体と歪んだ両手で、描きつづける。絵画と家族、数人の親しい人々の集まり(ポール・ベラール、ルイ・パルタ、ジョルジュ・リヴィエール、セザンヌの息子、アルベール・アンドレ)が、病む彼の心に穏やかを信頼感を育んでいく。こうしたなかでルノワールの仕事の成果はますます高まり続ける。 | |||
6〜7月 | パリに滞在する。 | |||
8、9月 | エッソワに戻ったあと、ブルボンヌ=レ=バンで治療する。 | |||
10〜11月 | サロン・ドートンヌで一室が与えられ、作品35点を展示する。 | 鏡を手にするガブリエル (ココの肖像とともに) |
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10〜12月 | パリに滞在する。 | |||
1905 | 64歳 | 1月〜2月 | デュラン=リュエルがロンドンのグラフトン画廊で大規模な印象派展を開催し、ルノワールの作品59点を展示する。 | |
春 | リューマチが悪化し、1909年までカーニュに滞在する。ここに「ヴィラ・コレット」と呼ばれる別荘を買う。 | |||
5月8日〜9日 | 3月に死去したポール・ベラールのコレクションの競売会が開催される。 | |||
夏 | エッソワに新しくアトリエを建てる。 | |||
10〜11月 | 自らが名誉総裁となったサロン・ドートンヌで作品9点を展示する。 | |||
晩秋 | ガブリエルとカーニュに滞在する。 | |||
1906 | 65歳 | 2月 | 画家モーリス・ドニがカーニュのルノワールを訪れる。 | マレックとガブリエルの間の ルノワール |
8月 | エッソワに滞在する。 | |||
10月〜11月 | サロン・ドートンヌに作品5点を出品する。 | |||
11月 〜翌年5月 |
カーニュに滞在する。 | |||
1907 | 66歳 | 4月11日 | シャルパンティエ・コレクションの競売で《シヤルパンティエ夫人と子どもたち》が84000フランの値でメトロポリタン美術館に購入される。この相場は彼の絵にとっては当時最高の金額である。 | |
6月28日 | カーニュの丘、レ・コレットに家を持つ。周囲にはオリーヴの林とオレンジ畑しかをかった。この高台の家を改造して、立派を石造りの住いとアトリエをつくる。 こうしてルノワールは、カーニュに定住することになる。南仏の豊かで明るい自然の中で、ルノワールは自己の最高の芸術を開花させていく。 |
カーニュのテラス |
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. | プラハ、ストラスプール、ベルネム=ジュン画廊などで個展を開催。 | |||
1908 | 67歳 | 3月24日 | ブリュッセルのロイヤル・ソサエティ(王立協会)の会員になる。 | |
5月 | カーニュに訪ねてきたヴォラールに励まされて、柔らかいロウの彫刻を手掛ける。2点のココの彫像のうち、ルノワールの手で完成されたのは1点のみ。 | |||
5月〜6月 | パリのデュラン=リュエル画廊でのモネとルノワールの風景画展に37作品を出品する。 | カーニュのヴィラ・ド・ラ・ポストの 前で描くルノワール |
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7月 | ジョルジュ・リヴイエールによると、ルノワールの胸像を造るため、彫刻家マイヨールが彼のもとに滞在する。マイヨールはルノワールが描いているあいだ、ずっとアトリエで仕事をしたという。 | |||
秋 | レ・コレットの新築した家に入る。 | |||
11月 | ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で作品41点のルノワール展が開催される。 | |||
12月 | モネがカーニュのルノワールを訪れる。 | |||
1909 | 68歳 | 1月 | アルベール・アンドレがカーニュのルノワールを訪れる。 | |
2月上旬 | 梅原龍三郎がカーニュのルノワールを訪れ、以後師事する。 | |||
3月 | ポール・デュラン=リュエルがカーニュのルノワールを訪れる。 | タンバリンを持つ踊り子 カスタネットをもつ踊り子 |
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. | カーニュの洗濯女やガブリエルを素材に、裸婦を描く。 | |||
. | 『アナクレオンの牧歌』に感銘を受け、ルノワールは神話の主題に興味を持つ。そしてモデルにオリンボスの神々の気高さを与えることにより、神話の世界を甦らせようとした。「パリスの審判」等の作品に、古代彫像の均整のとれた美しいポーズと豊かを形態を表現している。 | |||
夏 | エッソワに滞在する。 | |||
9月 | 山下新太郎がカーニュのルノワールを訪れる。 | |||
1910 | 69歳 | 3月10日 | ドニがカーニュのルノワールを訪れる。 | |
夏 | 健康状態はやや快方に向かい、ミュンヘンに旅行する。帰国後、リューマチの悪化にともない歩行困難となり、車椅子での生活を余儀なくされる。 | |||
10月 | ヴイクトル・モッテが翻訳した15世紀の絵画技法の手引き書、チエンニーノ・チェンニーニの『芸術の書』のために序文を書く。 | 風景のなかの裸婦 |
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サロン・ドートンヌに作品1点を出品する。 | ||||
1911 | 70歳 | 1月 | セザンヌの未亡人と息子がカーニュのルノワール家に滞在する。 | |
. | リューマチの激しい発作が起こり、歩くことが出来ず車椅子に頼る毎日になった。硬直した指はリンネルの包帯で保護される。しかし、ルノワールは、親指と人差指の間に絵筆を縛りつけて描きつづけた。画家のアルベール・アンドレは、病いの進展と時を同じくして、彼の芸術が開花していった、と述べている。 | |||
6〜7月 | バレー・リュス(ロシア・バレー団)のパリ公演を観に行く。 | |||
10月20日 | レジオン・ドヌール四等勲章(オフィシェ章)を受章する。 | ルノワール、妻アリーヌと 息子クロード(愛称ココ) |
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10月 | ロシュシュアール大通り38番地にアトリエを借りる。 | |||
秋 | 南仏に滞在する。 | |||
. | この年、ドイツ人美術批評家ユリウス・マイヤー=グレーフエによるルノワールの最初のモノグラフがミュンヘンで刊行される(翌年フランス語版が出徹される)。 | |||
1912 | 71歳 | 1〜3月 | ニースに滞在する。 | |
. | 画商ベルネームに呼ばれた専門医の1人が彼を歩かせることに成功する。しかし彼は1歩歩くために使い果たす意志力を、すべて描く方に向けようと決心する。その後彼は二度と立たなかった。この重大を決意の後、ルノワールは最後の命を燃やす。ますます簡素になった彼のパレットから、眼もくらむようを色彩や、大胆を極めたコントラストが溢れ出るのである。 | |||
5月 | カーニュに滞在する。 | ブーローニュの森の朝の乗馬 |
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7〜10月 | パリとエッソワに滞在する。 | |||
12月 | アンリ・ルアール・コレクションの競売。《ブーローニュの森の朝の乗馬》が95000フランで売却される。 | |||
秋 | 南仏に滞在する。 | |||
1913 | 72歳 | 2月 | ドニがカーニュのルノワールを訪れる。 | |
2〜3月 | ニューヨークのアーモリー・ショーで作品2点が出品される。 | |||
3月 | パリのベルネーム=ジュ列画廊で個展を開催。作品42点を出品する。カタログの序文をオクターヴ・ミルポーが執筆。 | |||
8月 | 彫刻を始める。リシヤール・ギノが制作に携わる。 | |||
1914 | 73歳 | 3月 | ロダンがカーニュのルノワールを訪れ、肖像画のポーズをとる。 | |
晩春 | 息子ピエールの子で、孫のクロードが生まれる。 | |||
4月 | ブランシュがカーニュのルノワールを訪れる。 | |||
6月4日 | ルノワールの作品3点を含むイザーク・ド・カモンドのコレクションがルーヴル美術館入りする。 | |||
8月 | フランスがドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参戦。二人の息子ピエールとジャンが徴兵される。ルノワールにとって重苦しい不安を時が続く。 | |||
9月 | ピエールとジャンが2人とも重い傷を受けたという報せが入る。 | |||
10月 | 二人の息子が負傷する。 | |||
. | ガブリエルが結婚する。 | |||
1915 | 74歳 | . | 全快したジャンは再び前線へ出発するが、再度負傷する。アリーヌは糖尿病に苦しめられていたが、最初の負傷のときと同様に現地の息子の許に駆けつける。このためアリーヌ自身が参ってしまう。 | 車椅子に座るルノワールと アンドレー・フーシュリング (愛称デデ) |
6月27日 | すっかり衰えていたアリーヌは治療の効果もなく、ニースの病院で死去した(享年56歳)。エッソワに埋葬される。 | |||
7月下旬 | アリーヌの墓をつくるためにギノとエッソワに滞在する。その後パリに戻る。 | |||
. | 新しいモデル、デデを雇う。 | |||
秋〜 | カーニュに滞在する。 | |||
1916 | 75歳 | 6月15日 | リモージュ市立美術館に《コロンナ・ロマナの肖像》を寄贈。 | |
6月 | パリに滞在する。 | |||
. | この年からギノに依頼して、自分の素描をもとにした、尊敬する偉大な芸術家たち、ロダン、マネ、セザンメ、アングル、コロー、ドラクロワの肖像を彫刻したメダルを制作し始める。 | 浴女たち |
||
. | ヴォラールが、パリのトリエンナーレに《ヴェニュス・ヴィクトリックス》の原型を出品する。 | |||
秋〜 | カーニュに滞在する。 | |||
1917 | 76歳 | 1月 | アルベール・アンドレ夫妻がカーニュに滞在する。カーニュのこの病める画家は、今や有名な存在となり、コレット荘には外国から多くの見舞客が訪れる。外国から来た崇拝者と知り合いになることは、彼にとって楽しみの一つであった。 | |
7月下旬 | パリに滞在する。 | 闘牛土姿の アンプロワーズ・ヴォラール |
||
8月 | エッソワに滞在する。 | |||
9月27日 | ドガの死の報せが入る。 | |||
1918 | 77歳 | 3月中旬 | メアリー・カサットがカーニュのルノワールを訪ねる。 | |
4月13日 | リュクサンブール美術館で《コロンナ・ロマナの肖像》が展示される。 | |||
. | ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で個展を開く。 | |||
. | ルノワールは異常をまでにやせおとろえ、骨だけといった状態だったが、話をしたり、描いたりする時には、その生命力が突如として湧きあがるようだった。 冬の間はジャンがコレット荘で過すようにをる。 |
|||
. | この年、ヴオラールによるカタログ・レゾネが刊行される。 | |||
1919 | 78歳 | 2月12日 | ルーヴル美術館友の会が同美術館のために《シャルパンティエ夫人の肖像》を購入する。 | シャルパンティエ夫人の肖像 |
2月19日 | レジオン・ドメール三等勲章(コマンドウール章)を受章する。 | |||
5月 | アルベール・アンドレによるモノグラフが刊行される。 | |||
7月 | エッソワに滞在する。 | |||
8月 | 美術総監ポール・レオンは、ルーヴル美術館を彼一人だけのために開館して招待した。そこで展示されている《シャルパンティエ夫人の肖像》と長年の念願であったヴェロネーゼの《カナの婚礼》を車椅子で鑑賞する。 | |||
秋 | コレット荘に戻る。 | |||
11月 | 急に熱が出て全身が衰弱する。 | |||
12月3日 | 肺充血により午前2時、息をひきとる。最後の昏睡状態の中でも、デッサン用の鉛筆を求め続けていたという。享年78歳。 | . | ||
12月6日 | エッソワの共同墓地にアリーヌと並んで埋葬される。 |