1841[リモージュ]  1919[カーニュ]

フランス印象派の代表的画家。13歳でパリのレヴィ陶磁器工房の見習いになり、1858年まで修業する。1862年に国立美術学校に入学し、学業のかたわら画家グレールのアトリエに通いモネやシスレーと知り合う。

 1864年には、モネやシスレーとともにフォンテーヌブロー周辺を訪れ、バルビゾン派にならい風景のスケッチを始めた。モネは風景に強い関心を示したが、ルノワールは戸外人物に惹かれる。同年のサロン初入選作《狩猟のディアナ》は物語性が強く、人工的な不自然さを残すが、1868年の《日傘の女》では、戸外に立つ白い服の女性に当たる光と影の効果を、極めて自然なままに追求して新しい一歩を開いた。

 1874年の第1回印象派展では、《桟敷席》を発表した。この作品からは、パリに暮らす人々と光の研究に対するルノワールの二面の興味が感じられる。また、光あふれる戸外での幸福そうな人々の集いを描きつづけ、ドガと並んで印象派における人物画家として《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》《シャンパルティエ夫人と子供たち》などを制作し、画家としての不動の地位を確立した。

 ルノワールは、刺激を求めて何度も小旅行に出かけ、1881年のアルジェリア旅行のあと、イタリアに旅立ちラファエッロの作品に強い感銘を受け、彼自信が言う「厳格な様式」が生まれたが、明らかに新古典主義のアングルの影響を受けている。この頃の作品は、正確で無駄のないフォルム、極めて精密なデッサン、落ち着いた暗い色彩が特徴である。

 晩年、ルノワールはリウマチ性関節炎を患い、数年後には車椅子の生活を余儀なくされる。しかし、病をおして制作を続け、ティツィアーノとルーベンスの色調の影響を思わせる、肖像画や《浴女たち》など豊満な裸婦像を柔らかく流麗な筆遣いで描き、人物と背景を完璧に調和させた。

ルノワールのタイトル・カラーは、木漏れ日の色使いをイメージしました。】