年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1859 | . | 12月2日 | パリのボンディ街60番地に生まれる。父アントワーヌ・スーラは下級官吏、母はエルネスティーヌ・フエーヴルでパリの裕福な中産階級の家柄であった。兄と姉が各一人。4年後、弟が生まれるが幼少時に死去。 | 父アントワーヌ・スーラ |
1862 | 3歳 | . | 一家はマジャンタ街110番地に転居する。 | |
1870 | 11歳 | . | パリ・コミューンの間、一家はフォンテヌブローに疎開する。 | |
1875 | 16歳 | . | 母方の叔父でアマチュア画家だった織物商のポール・オモテ=フェーヴルに励まされて、幼時よりの絵画への趣味を深め、パリ市立デッサン学校に入学、校長で主任教授の彫刻家ジュスタン・ルキアンの指導を受ける。 | |
. | ここで終生の友となるエドモン・アマン=ジャンに会う。 | |||
1876 | 17歳 | . | おそらくこの年から国立美術学校の補充講座に出席したものと思われ、シャルル・ブランの『デッサン術の基本法則』を研究する。 | |
1878 | 19歳 | 2月 | エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の絵画科に入学を許可される。 | |
5月19日 | 同時に合格したアマン=ジャンとともに、アングルの弟子で讃美者のアンリ・レーマンの教室に入り、アングルや古典の作品の模写やデッサンをするが、目立たない学生で試験の成績は80人中47番であった。 | 母エルネスティーヌ・フエーヴル |
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. | 熱心にルーヴル美術館に通いつめ、色彩、光学、美学に関する理論書を読み、特にシュグルールの『色彩の同時対照の法則について』に関心を抱く。 | |||
. | エルネスト・ロランを知る。 | |||
1879 | 20歳 | . | アマン=ジャン、ロランと共同でアルバレート街32番地にアトリエを借りる。 | |
5月 | 彼ら三人の若い画学生はオペラ街で開催された第4国印象派展を訪れ、ピサロ、ドガ、モネの作品に激しい衝撃を受け、美術学校をやめることに決める。 | |||
10月 | プレストで1年間の兵役に服し、2冊のスケッチブックに、多数の人物像、海、海岸、船などを描き集める。 | |||
1880 | 21歳 | . | ドーヴ、ヘルムホルツ、マクスウェルの著作を読み、特に、シュテルとシュベルヴィルの著作を研究して理論的知識を深める。 | スーラの肖像 |
11月 | 兵役を終えてパリに戻り、マジャンタ街の両親の家のすぐ近くのシャプロル街19番地にアトリエを借りる。 | |||
1881 | 22歳 | . | ミレーらバルビゾン派、ドラクロワ、シャヴァンヌに関心を抱き、ことにドラクロワを研究、その作品に関する試論を3編書く。 | |
. | またコロー、クールベ、印象派からも刺激に満ちた影響を受ける。 | |||
. | ルードの『近代色彩論』を読み、交差する大きなタッチで、翌年にかけて多数のエスキスと習作を描く。 | |||
夏 | アマン=ジャンとともにプルゴーニュのポントーベールに滞在、2か月の休暇を心ゆくまで楽しみ、青春を謳歌する。 | |||
1882 | 23歳 | . | 前年よりこの年にかけて、次第に自己の作風を練り上げる。 デッサンはすでに深い独自性と巧みな仕上がりを見せ、翌年にはもはやこれ以上の進展はないほどの完璧の域に達する。 |
《アニエールの水浴》習作 |
1883 | 24歳 | . | サロンにデッサン《アマン=ジャンの肖像》が初入選する。批評家ロジェ・マルクスは「素晴らしい明暗配合法の研究であり、すぐれた手腕のデッサンで、初心者の作品といったものではない」と絶賛する。 サロンへの入選出展は、これが最初で最後となる。 |
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春 | 最初の大作《アニエールの水浴》のための習作に着手、多数のデッサンやクロクトーン(油彩習作)を描く。 | |||
. | サン=モール=デ=フォッセンの市庁舎装飾コンクールに応募したロランの色彩分割を用いた作品に注目したシャヴァンヌの知己を得て、ロラン、アマン=ジャンとともにしばしば巨匠のアトリエを訪れる。 | |||
1884 | 25歳 | . | 《アニエールの水浴》を完成、サロンに送るが落選する。「落選組」の若い芸術家たちグループ「独立(アンデパンダン)芸術家集団」に加わり、カフェ・マレンゴに集う。 | 《アニエールの水浴》 |
5月15日 | テュイルリー公園内の小屋を借りて開かれた最初のアンデパンダン展に《アニエールの水浴》を出品、この絵を高く評価したシニャックと知り合い、間もなく親交を深める。 | |||
夏 | クリシー街128番地にアトリエを借りて移る。 | |||
12月 | グループは正規の協会「独立芸術家協会」として発足、スーラは会員となり、シャンゼリゼ街で開かれたアンデパンダン展に、再び《水浴》と《グランド・ジャット島の日曜日の午後》のための習作などを出品する。 生涯、同協会の忠実な会員として留まることになる。 |
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1885 | 26歳 | 3月 | デュラン=リュエルによるニューヨークでの印象派展に《アニエールの水浴》を出品する。 | 《グランド・ジャット島の 日曜日の午後》 |
5月 | 第8回で最後となる印象派展に、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を出品する。 | |||
. | 同展はスーラを中心に生まれつつある新印象派への関心を呼び起こし、この機に、フェネオンをはじめ、アレグサンドル、クリストフ、アレクシスら批評家と知り合う。また『科学的美学入門』を出版したばかりのシャルル・アンリに会う。 | |||
夏 | ノルマンディー地方のグランカンで制作する。この頃描かれた作品としては《オック岬、グランカン》があるが、小さなタッチの様々な試みがされ、より小さな点で引き立たせており、新印象主義の幕開けを告げるものであった。 | |||
8月 | パリに帰り、アンデパンダン展に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》と風景画など10点を出品する。 | 《ポーズをする女たち》 |
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10月 | ベルギーの詩人ヴェルハーレンがアトリエを訪れ、オンフルールの風景1点を買い、翌年の「二十人展」に招待する。 | |||
秋 | クリシー大通りの新しいアトリエで、《ポーズをする女たち》のための習作に着手する。 | |||
1886 | 27歳 | 夏 | スーラは8月中旬までオンフルールに滞在する。 | |
8〜9月 | 第2回アンデパンダン展(テュイルリー宮殿)が開催され、再び《グランド・ジャット島の午後》とグランカンの風景を出品する。。 | |||
1887 | 28歳 | . | ピサロを介してナントでの美術展に2点を招待出品する。 | |
2月2日 | スーラはシニャックと共に、ブリュッセルで「二十人展」の展覧会開幕に立ち会う。ここで《グランド・ジャット島の日曜日の午後》と風景画など7点が展示される。 | |||
. | グリシー街のレストランでゴッホに会い、アマン=ジャンとともにゴッホのアトリエを訪れる。 | |||
. | シニャックの先導により、リュス、アングラン、ピサロ父子等の点描画家が集結し、新印象主義グループを結成する。 | 《ポーズする女たち》 |
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3〜5月 | アンデパンダン展に《クールプヴォワの橋》《ポーズする女たち》の習作《ポーズする女・正面》他オンフルールの風景6点とエスキスー2点を出品する。 | |||
夏 | パリにとどまり《ポーズする女たち》アンリの美学に影響を受けた作品《サーカスの客寄せ》を制作する。 | |||
秋 | 《パレード》に着手する。 | |||
11月 | グラン・ブイヨンの展覧会(クリシー通りのレストラン)でゴッホと知り合う。 | |||
1888 | 29歳 | 1月 | デュジャルダンとフェネオンが主宰する「ルヴュ・アンデパンダント」でマネ、ピサロ、モリゾ、アンクタン、シニャックらとともに作品を展示する。 | |
3月 | テオ・ファン・ゴッホが慈善売立てでスーラのデッサンを1点入手する。 | 《パレード》 |
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3〜5月 | 第4回アンデパンダン展に《ポーズする女たち》と《パレード》を出品する。同展は大成功を収め、このとき以降、独立芸術家協会は確立される。 | |||
春 | 再びグランド・ジャッ・ト島で制作する。 | |||
夏 | テオ・ヴァン・ゴッホらの主宰によるアムステルダムのオランダ版画グラブ第2回展に招待出品する。 | |||
8〜9月 | ノルマンディーのポール=タン=ベッサンに滞在し、海景画を多数制作する。 | |||
8月23日 | 『パリ』紙上にアレクサンドルが発表した論評がシニャックの誤解を招き、新印象派の画家たちの間に意見の相違と離反が生じる。 | |||
1889 | 30歳 | 2月 | ブリュッセルの「二十人展」に《ポーズする女たち》など12点を出品、同地に赴く。 | 《化粧する若い女》 |
. | ベルギーより帰国後、20歳のマドレーヌ・ノブロックに会い共同生活に入る。これ以後友人たちを避け、アマン=ジャンとさえあまり会わなくなる。 | |||
6月 | ル・クロトワに数日滞在するがマドレーヌの妊娠でパリに帰る。 | |||
9月 | アンデパンダン展にル・クルトワの風景2点、ポールタンベッサンの風景6点を出品する。 | |||
10月 | マドレーヌとともにエリゼー=デ=ポザール街39番地に移るが、両親にも友人たちにも新住所を知らせない。 | |||
. | マドレーヌをモデルに《化粧する若い女》《シャユ踊り》に着手する。 | |||
1890 | 31歳 | 2月16日 | 息子のピエール・ジョルジュが誕生する。 | |
. | 《サーカス》に着手する。 | 《シャユ踊り》 |
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3月 | アンデパンダン展に《化粧する若い女》《シャユ踊り》など11点を出品するが、批評は好意的ではない。 | |||
. | 前衛的な『レ・ゾム・ドージェルドゥイ(現代人)』誌の主幹となったフェネオンは、同誌に発表した『シニャック論』でまったくスーラの名に触れず、スーラは抗議の手紙を送り、両者の間にはしこりが残る。ジュール・クリストフは、スーラに関する小冊子を執筆する。これらはグループ内にわだかまりを残し、スーラは一層孤立し友人たちから離れる。 | |||
夏 | ベルギー国境に近い海辺の町グラヴリーヌに滞在し、ボーブールに宛てた手紙で、自己の芸術原論を概説する。 | |||
1891 | . | . | マドレーヌの新たな懐妊し、憑かれたように《サーカス》の制作に没頭する。 | |
2月 | 「二十人展」に《シャユ踊り》とクロトワの風景2点、グラヴリーヌの風景4点を出品する。 | 《サーカス》 |
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3月〜4月 | 第7回アンデパンダン展に未完の《サーカス》他4点を出品する。 | |||
3月26日 | 過労から伝染性の扁桃腺炎をこじらせ、おそらくジフテリアを併発する。 | |||
3月27日 | マドレーヌ、息子ピエールを伴ってマジャンタ街の母の許を訪れ、はじめて2人を母に引き合わせる。 | |||
3月29日 | 死去。 | |||
3月31日 | パリのベール=ラシューズ墓地に埋葬される。間もなく、息子のピエールが同じ伝染病で死亡する。 | |||
5月3日 | シニャック、リュス、フェネオンが、スーラのアトリエで遺品目録を作成する。マドレーヌは、そのうちの何点かを遺産として受け取る。 いさかいの未、マドレーヌは、その後一切、スーラ家と関わりを持たなくなる。 |