年 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 | 画像 |
1863 | . | 11月11日 | パリのヴィヴィエンヌ街33番地に生まれる。父ジュール・シニャックは高級馬具商で、母エロイーズ・ドゥドンの間に生まれる。ポールは一人息子。 | . |
1879 | 16歳 | . | ピラミッド街で開催された第4国印象派展でドガの作品を模写しているところをゴーガンに見られつまみ出される。 マネを尊敬する。『現代生活』誌を創刊号より熱心に講読する。 |
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1880 | 17歳 | 3月 | 父が亡くなり、母は家業を整理し、パリ郊外のアニエールの実家にポールを伴って移る。 | |
6月 | 『現代生活』社で開かれたモネの個展により、印象派絵画に対し瞠目の開眼をする。 | 《ジャンヌヴィリエの道》 |
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1882 | 19歳 | . | 成績優秀にもかかわらず大学入学資格試験の受験を拒否し「印象派絵画」の道に進むことを決意、母に宣言する。戸外、ことにセーヌ河畔やモンマルトルで描き始める。 | |
1883 | 20歳 | . | モンマルトルのエミール・パンのアトリエにしばらく通う。そこで、画商のタンギー爺さんと知り合い、セザンヌの《オーヴェール風景》を買う。 | |
. | カイユポットに勧められて最初のヨット(生涯で32艘のヨットを所有)を買う。 | |||
1884 | 21歳 | 1月 | モネに助言を求めるべく書簡を送る。 | |
. | セーヌ河畔で制作中に知り合ったギヨーマンに励まされる。 | |||
. | ルドン、スーラ、アングラン、デュポワ=ピエ、グロスらと「独立(アンデバンダン)芸術家協会」の創設に参加する。4歳生長のスーラとの出会いはシニャックの芸術に決定的な影響を与え、親密な関係が始まる。 | |||
1885 | 22歳 | 1月 | 「白い光の考察についてのいくつかの簡潔な試みに立ちあう」ために、ゴブランの王立タピスリー工場に赴く。 | |
4月 | ギヨーマンを介してピサロに会う。 | |||
夏 | ブルターニュ地方のサン=プリアックで制作する。彼の作品は補色によって得られる色彩の効果への新しい関心を示している。 | |||
秋 | パリに帰り、ほぼ完成したスーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を見て衝撃的感銘を受け、スーラの理論への確信と共感を深め、ともに展開する決意をする。 | 《婦人帽子屋》 |
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1886 | 23歳 | 冬 | 最初の分割描法の作品を描く。 | |
3〜4月 | 最初の完全に点描による作品《コロンプの森の鉄道支線》《クリシーのガスタンク》《ピュイ・ベルタンの通り》を描く。 | |||
5〜6月 | 印象派画家たちの反対のなかベルト・モリゾの仲介で、ピサロに招かれ第八回印象派展に《婦人帽子屋》と《クリシーのガスタンク》を出品する。 | |||
クリシー街のアトリエで象徴派の作家や批評家、新印象派の画家たちがしばしば集う。 | ||||
ポール・アレクシスやアナーキストと交友をもつ。 | 《クリシーのガスタンク》 |
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6月 | パリより下流にあるセーヌ河畔のレ・ザンドリーに落ち着く。 | |||
8〜9月 | 第2回アンデパンダン展(テュイルリー宮殿)が開催される。シニャックは《コロンプの森の鉄道支線》《クリシーのガスタンク》《ビュイ・ベルタンの通り》、そしてレ・ザンドリーの風景を公開する。 | |||
1887 | 24歳 | 1月 | ピサロと互いに訪問しあい、アニエールで再会する。 | |
2月 | ブリュッセルの20人会の展覧会にスーラと同行し、レイセルベルへとヴァルハーレンを知る。プリュセルからの帰り道、スーラは、シニャックのベルギーへの熱狂的な関心に苛立ち、しばらく会うことを拒否する。 | |||
3〜5月 | 第3回独立芸術家協会展(パヴィヨン・ド・ラ・ヴィル・ド・パリ)が開催される。シニャックはリュスの《化粧》を購入する。 | |||
リュス、グロス、ゴッホと親交をもつ。 | ||||
5月23日 | シニャックはコンブラ=ル=シャトー(オーヴェルニュ地方)に出かけ、7月にそこで制作する。 | |||
7〜10月 | 南仏のコリウールに滞在して、海景を描く。 | |||
1888 | 25歳 | 2月 | 20人会が初めてシニャックを彼らの展覧会に招待する。 | |
7月 | ポルトリュー(ブルターニュ地方)に滞在し、リュッセルベルク、ファン・デ・ヴェルデ、ヴェルハーレンと交友する。 | |||
8月 | ピサロからスーラと一緒にエラニーに招待される。 | |||
10月 | シャルル・アンリの色環を水彩で描き、1888年から1889年のシーズンの自由劇場(テアトル・リーブル)のプログラムの背面に同じシャルル・アンリの環をリトグラフで描く。 | |||
1889 | 26歳 | 3月 | 南仏のアルルに寄り入院中のゴッホを訪れた後、カシスで制作する。 | |
8〜9月 | エルプレーで制作し、そこにリュスが来訪する。 | |||
9〜10月 | 第5回独立芸術家協会展(アンデパンダン展)。シニャックはボルトリュー(ブルターニュ地方)とカシスの風景を出品する。 | スーラ画《シニャックの肖像》 |
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1890 | 27歳 | 1月 | シニャックはロートレックとともに『20人会』の展覧会の開会式に立ちあうためにブリュッセルに赴く。シニャックは12点の絵画を出品する。協会初の外国人会員に選ばれる。 | |
3〜4月 | 第6回独立芸術家協会展(アンデパンダン展)が開催され、共和国大統領カルノが展覧会を訪れ、スーラと共に新しい技法を説明する機会を得る。 | |||
4月 | 南仏とイタリアを訪れ、フィレンツェでレイセルベルへと再会する。 | |||
6月 | フェネオンが『現代人』誌に『シニャック論』(画家の肖像はスーラによる)を発表する。フェネオンにお礼を言い、彼に肖像画を描きたいと伝える。 | |||
. | 浮世絵と美学者シャルル・アンリの理論の関心の深さを示す《フェリックス・フェネオオンの肖像》を制作する。 | 《フェリックス・フェネオオン の肖像》 |
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1891 | 28歳 | 3〜4月 | 第7回独立芸術家協会展(アンデパンダン展)が開催され、シニャックは《フェネオンの肖像〉、エルブレーの風景画、そしてブルターニュの海景画を出品する。 | |
3月29日 | スーラが死去し、盟友の急死に深い打撃を受ける。 | |||
夏 | ブルターニュのコンカルノーに滞在し大作の連作を制作する。 | |||
1892 | 29歳 | 5月 | 初めての水彩を試みる。 | |
3〜5月 | 愛用のヨット「オランピア」号で大西洋から南仏を縦断する運河を通って地中海に下る大巡航を試み、当時まだ知られていなかったサン=トロペを発見、以後20年にわたってこの地を訪れる。 | |||
11月7日 | ピサロの遠縁の従姉妹ベルト・ロブレと結婚し、ピサロとリュスが証人となる。 | 《サン=トロペ港の夕暮れ》 |
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12〜1月 | プレバン邸(ポワソニエ大通り)で新印象派の絵画の最初の展覧会が開催される。 | |||
1893 | 30歳 | . | サン=トロペに別荘を建てる。アナーキスト的理想社会を象徴する大作《調和の時代に》を制作する。 | |
. | しばしば手がけてきた水彩画への関心をますます深める。 | |||
1894 | 31歳 | 1月 | ミルポーが新印象主義、特にシニャックについて『エコー・ド・パリ』誌で批評する。 | |
2月 | ブリュッセルで20人会の展覧会を引き継ぐ「自由美学」の最初の展覧会が開催される。 | |||
1895 | 32歳 | . | アンリが『形態の美学の追求−シニャックのデッサンと計算』を出版する。 | 《パラソルの婦人》 |
. | ブリュッセルの自由美学展に一連の水彩画を初出品する。 | |||
1896 | 33歳 | 2月 | レイセルベルへとアムステルダムとアントウェルペンに旅する。 | |
. | 点描の筆触が大きくなり、スーラの様式から離れ、より自由で独自な様式を展開、色彩画家としての資質が一層のびやかに解放され、以後ますます色彩を追求することになる。 | |||
1897 | 34歳 | . | サン=トロペに新しい別荘を貫い、マストの上部の名称をとって「★椿楼」と名づける。スーラの追憶と、自身の20蔵代の熱い信念だった新印象主義の「擁護と顕揚」として『ウ−ジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』の執筆に着手する(〜98)。 | |
1898 | 35歳 | 3〜4月 | ターナーを見るためロンドンへの旅行中にリュシアン・ピサロと会う。 | |
10月 | クロスとともにマルセイユを訪れる。 | ライセルベルグ画 《ヨットに乗るシニャック》 |
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10〜12月 | ベルリンのケラーとライナー画廊で新印象主義の展覧会が開催される。この横にシニャックの「ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで」が雑誌『パン』に連載で翻訳される。 | |||
1899 | 36歳 | . | 『ウージェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』マティスらやがて「フォーヴ」(野獣派)と呼ばれる若いフランスの画家たち、クプカ、カンディンスキーら未来の表現主義者となるドイツの画家たちに読まれ、大きな影響を与える。 | |
3月 | デュラン=リュエル画廊で印象主義の大きな展覧会が開催され、一部屋が新印象主義に割り当てられる。 | |||
4月 | クロスと一緒にルーアンでアングランと再会する。 | 妻ベルザとシニャック |
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1900 | 37歳 | 3〜4月 | スーラの回顧会がフェネオンによって『ラ・ルヴュ・プランシュ』の一部屋で組織される。フェネオンは《アニエールの水浴》を購入し、シニャックは《サーカス》を安値で購入する。 | |
1903 | 40歳 | 年末 | ヴェネツィアに赴き、翌年にかけて滞在、モザイクを思わせる風景画を描く。 | |
1904 | 41歳 | 2月 | 印象主義と新印象主義の大規模な展覧会が「自由美学」の展覧会の際にオクターヴ・モウスによって開催される。 | |
7〜10月 | マティスがサン=トロペのシニャックを訪ね、《豪奢、静謐、悦楽》の習作を制作する。分割描法を試みる「生まれようとするフォーヴ」の慎重な制作態度に驚かされ、クロスとともに暖かく見守る。 | |||
1905 | 42歳 | 3〜4月 | 独立芸術家協会展(アンデパンダン展)でゴッホとスーラの回顧展。マティスは《豪奢、静謐、悦楽》を出品され購入する。 | 《アンティーブの朝》 |
夏 | 将来フォーゲイストとなるカモワン、マンギャン、マルケなどの若手画家がサン=トロペを訪れ、マティスを囲み、シニャックやクロスの助言を得る。 | |||
1906 | 43歳 | . | 翌年に掛けて、一連のロッテルタム風景を描く。 | |
1907 | 44歳 | . | 長年夢みていたコンスタンチノープルに旅行する。遠洋航路船で途中ナポリとギリシアをちらと見てオリエントの古都に入港、滞在中水彩による多数の習作を描き、帰国後アトリエで美しい一連のコンスタンチノープル風景を制作する。 | |
1908 | 45歳 | . | 「アンデバンダン協会」の会長に選ばれ、死の一年前までその椅子にとどまる。 | ジャンヌ・ゼルマースハイム=デグランジュとシニャック |
1911 | 48歳 | . | ラ・ロシュルに滞在する。 | |
. | パリのベルネーム・ジュヌ画廊で水彩画の展覧会を開く。 | |||
1913 | 50歳 | . | 最初の妻ベルトにサン=トロペの「★栂楼」を残し、新しい妻の宝石デザイナーで画家のジャンヌ・ゼルマースハイム=デグランジュとアンティープに住む。 | |
. | 一人娘ジネットが生まれる。 | |||
1914 | 51歳 | 5月 | スタンダールの熱烈な讃美者であったシニャックは、4頁のパンフレット『スタンダール=ベィル備忘録』を匿名で出版する。 | 《ヴェネツィア 大運河の入口》 |
. | 国際主義者、平和主義者である画家は戦争の勃発に心を痛めロマン・ロランやアンリ・バルピュスの反戦運動の呼びかけにただちに応じる。 | |||
1917 | 54歳 | . | ロシア革命に心から共鳴する。 | |
. | 大戦中アンティープに住む。 | |||
1919 | 56歳 | . | パリにもどりアンデパンダン協会の再編成にに尽力する。 | |
. | ラ・ロシュルに滞在する。 | |||
1920 | 57歳 | . | 大戦後最初のアンデパンダン展を開催する。 | |
. | ベルネーム=ジュヌ画廊で個展を開く。(以後23〜25,27,30年にも同画廊で個展を開く) | 《グロイクスの灯台》 |
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1921 | 58歳 | . | ラ・ロシュルに滞在する。見る喜び、描く喜びを直載に託せる水彩にますます魅せられ、晩年の15年間、フランスのほとんどすべての港の風景を水彩で描く。 | |
1922 | 59歳 | . | サン=ポール・ド・ヴァンスに滞在する。 | |
1923 | 60歳 | . | 1929年まで、毎年、ブルターニュのレザルデュウに滞在する。 | |
1927 | 64歳 | . | 『ヨンキント』を出版、同著中で「水彩画論」を論じる。 | |
1932 | 69歳 | . | 1934年まで、ノルマンディーのバルフルールに滞在する。 | |
1933 | 70歳 | 夏 | 「ボナール展の喜びを胸にバリを発った。同展は描きたい思いを与えてくれた。 絵のための絵、他の何物でもない。愛すべき何かをもったときを過ごした」と日記に書く。 |
アトリエのシニャック |
12〜翌1月 | ボ・ザール画廊で「スーラと友人たち−印象派の後継者展」を開催する。 | |||
1934 | 71歳 | . | パリ市の主催によりこれまでの画業を集大成する大回顧展がプティ=パレ美術館で開かれる。 | |
. | 「反ファシスト知識人委員会」の集会にアンドレ・ジイド、ポール・ニザン、ウージェーヌ・ダビ、ヴェイヤン=クーチュリエらとともに出席する。 | |||
1935 | . | 春〜夏 | コルシカ島に滞在、帰路不快に襲われ、1ヶ月の療養する。 | |
8月15日 | 尿毒症のため死去。 |