1863[パ  リ]  1935[パ  リ]

 フランスの新印象派の代表的な画家。1863年パリに生まれ、モネを早くから崇拝し影響を受けていた。友人で印象主義の主流から離れた美術家ギヨーマンと共に、印象主義的な方法で静物画やパリ近郊の風景を描いていた。
1884年にはシニャック自身も創設者の一人だった『アンデパンダン展』でスーラと出会い、その視覚混合の理論に基づいて純色を点描していく新印象主義の方法と理論に深く共鳴する。

1886年に開催された最後の印象派展にはピサロの推薦で、スーラとともに新印象主義の最初の作例を出品する。この時シニャックは、主にサン・プリアグのプルトン港とパリ郊外の風景を出品している。1885年の大作《2軒の帽子屋》は、分割派技法を、屋内の主題に応用した最初の例である。

 1891年にスーラが没するまではその強い影響下にあり、点描を用いた厳格な分割主義を採用、1、2年に一作の大画面による人物画と、彼は毎夏パリを離れ、南仏コリウールの村やサン・トロペに滞在、家を買い、友人たちを招き多くの風景画を描いた。1889年3月彼はアルルにゴッホを訪ねている。翌年イタリア小旅行をし、ジュノヴァ、フィレンツェ、ナポリを回る。

 スーラの死後、新印象派運動の主導権は今や自分自身にかかっていることを彼は感じ、1899年に新印象派運動の信念と理論の要約を、「ドラクロアから新印象主義まで」を著わすなど、新印象主義の擁護者として活躍するが、徐々にスーラの影響を脱し、1900年以降、大きめで方形に近い点描を用いて、モザイク風の装飾性の強い画面を描くようになる。

 晩年は油彩よりも水彩画を多く描いた。人物画は94年以降描かなくなったが、モティーフとしてはブルジョワの生活を好んで取り上げ代表作に『フェリクス・フェネオンの肖像』(1890)がある。また、風景画では、海や川を描いたものが大半を占めるが、とりわけ均衡感あふれるなかにも,動きのある晴朗な海景画を得意とした。1908年からは『アンデパンダン展』の会長を務めた。

 シニャック方法は、スーラのものより正確で科学的であり、絵画も遥かに色彩が豊かで明るい。このように、フォーヴィスムの発展に決定的な役割を演じた彼は、マティスとドランに影響を与えている。しかし、1935年にパリで没した時、彼が一身を捧げたこの様式は、もう革命的な力を失って既に久しかった。

シニャックのタイトル・カラーは、夕暮れの海をイメージしました。】