年齢 月日 主な出来事 画像
1839 0歳 10月30日 パリのトロワ・ボルン19番地に生まれる。両親はイギリス系フランス人の従兄弟同士のウイリアム・シスレーとその妻フェリシア・セルで、4人兄弟の2番目であった。父のウィリアムはダンケルクに生れ、一時ロンドンで絹織物業を営んだ後、パリに永住し南米向けの造花の輸出業を始めた。また、母親は音楽の才能があり、その影響で画家も音楽を好んだ。
ウイリアム・シスレー
1857 18歳 4月 英語の上達と実業家としての修業をするため、両親の意向でロンドンに4年間滞在するが、大方の時間を美術館で過ごし、コンスタブルやボニントン、ターナーらの作品により強く関心を示す。
1862 23歳 10月 実業家としての見習いをやめ、イギリスから帰国したシスレーは、当時評判だったスイス出身の画家シャルル・グレールの画塾に通うことを両親に承諾を得る。
そこでルノワール、モネ、バジールらと出会い、未来の印象主義者たちは意気投合し、親交を結ぶ。
1863 24歳 3月 戸外でモチーフに即して描くためにグレールの画塾をやめて、シスレーはモネ、ルノワール、バジールと共にバルビゾンの近くのシャイイ=アン=ピエールに移り、フォンテーヌブローの森の眺めを描く。
フェリシア・セル
1864 25歳 7月 パリの北西端ポールト・マイヨーの近くのヌイイ通り31番地にアトリエを借り、当時貧しくてアトリエを持てなかったルノワールにも提供する。
1865 26歳 4月 マルロット村でルノワールと共同で、また5月にはセル=サン=クルーで制作する。 
7月 ルノワールとともにヨットでセーヌ河を下り、ルーアンを経由してヨットレース見物のためル・アーヴルまで赴く。
1866 27歳 5月 《森に行く女たち、風景》 と 《フォンテーヌブロー近郊、マルロットの村の通り》の2点をサロンに出品し入選する。この時申請した住所はモンセー街15番地で自らをグレールの弟子と名乗った。
6月2日 モンセイ通り15番地に、ムールト=エ=モゼール県トゥール出身の花屋に勤める22歳のパリ娘マリー=ウジェニー・レクーゼクとともに住む。
《ラ・セル=サン=クルー近郊の
栗の並木道》
8月 ルノワールとともにベルクのル・クール家に滞在する。
1867 28歳 . モンセイ通りのアパルトマンを離れ、パリのシテ・デ・フルールに移り住む。
. 印象主義者たちの作品を拒絶したサロンの審査員の決定に抗議し、ルノワール、パジールなどと落選者展の開催請願書に署名するが、彼らの声は聞き届けられず徒労に終わる。
6月17日 長男ピエールが生まれる。
7月 妻子を伴ってオンフルールに短期間滞在しモネとしばしば会う。その後、シャイイ=アン=ピエールでルノワールに再会する。 .
ルノワール画 シスレー夫妻
1868 29歳 年頭 手狭になったモンセー街のアパルトマンからラ・ペ街9番地に移る。
4月 シャイイ=アン=ビエールに滞在し、ルノワールと共に制作する。ルノワールはシスレー夫妻の全身像の肖像画を描く。
5月 サロンに《ラ・セル=サン=クルー近郊の栗の並木道》を出品する。
1869 30歳 1月29日 娘ジャンヌ=アデルが誕生する。
. バティニョール大通り11番地のカフェ・ゲルボワに出入りし、印象派の画家やその仲間の批評家たちと知り合う。
1870 31歳 5月 《サン=マルタン運河の平船》と《サン=マルタン運河の眺め》の2点がサロンに入選する。サロン目録による住所はシテ・デ・フルール27番地であった。
11月26日 第3子ジャック・シスレーが誕生するが、幼いうちに死去。
《サン=マルタン運河の平船》
. パリ・コンミューンの間、画家とその家族はルーヴシエンヌのブランセス街2番地に住む。近くにルノワールがいた。このあたりは1870年代初めのシスレーの絵にしばしば登場している。
. 父の財産のお陰で、趣味として描くことを楽しみ、生活を優雅に美しく飾ることのみに心を砕くまで恵まれた数年間であり、制作量も数少ない。
1871 32歳 . 普仏戦争の影響で父の事業が不振に陥り、同年末、父は破産状態で死去。シスレーは画業で生活していかねばならなくなる。
1872 33歳 1月 ピサロとモネの紹介で画商のポール・デュラン=リュエルと知り合う。
《レッスン》
3月12日 デュラン=リュエルが初めてシスレーの作品《雪景色》を、画商ルイ・ラトゥーシュから買い上げる。数日後、デュラン=リュエルは直接シスレーから《教会の道》を購入し、その後20年間にわたり、シスレーの画商となる。
9月 シスレーは家族とともにパリを離れ、パリの西にあるルヴシエンヌに接する小さな集落ヴォワザンのブランセス通り2番地に移り住む。
1874 35歳 1月13日 印象派の絵の最初のコレクターの1人であるエルネスト・オシュデのコレクションの売立てがあり、その中に3点のシスレーが含まれていた。
4月15日〜  5月15日 パリの写真家ナダールのスタジオで第1回印象派展(キャプシーヌ大通り35番地)が開催される。シスレーは5点を出品したが、油彩のうち2点はデュラン=リュエルが所有するものだった。住所としてルーヴシエンヌ、ア・ヴォザン、ブランセス街2番地を登録する。
《ハンプトン・コートのテムズ河》
7月 オペラのバリトン歌手ジャン=バティスト・フォールの招きによりイギリスへ旅行し夏をハンプトン・コートで過ごす。フォールは印象派の初期のコレクターの1人で、シスレーのイギリス時代の絵を5点もっていた。
10月末 主にハンプトン・コートの公園を描いた15点ほどの油彩を携えて帰国する。
1875 36歳 年頭 ルーヴシエンヌ近郊のマルリ=ル=ロワに移り、プラス・ド・アブルヴォワールに家を借りてここに1877年まで住む。
《ルーヴシェンヌの雪》
3月24日 経済的窮状の打開策として、オテル・ドゥルオで「モネ、ベルト・モリゾ、ルノワール、シスレーによる油彩と水彩画」の即売会が開くが、印象派展にもまして人々の非難を浴びる。一番売れ行きが良かったのはシスレーで、21点の油彩が合計2455フランで売れたが、デュラン=リュエルが12点の油彩を購入する。
. 同年、経営状況の悪化のため印象派の作品買入れを中断せざるをえなくなり、1880年に再開するが、そのときまず買い入れたのはシスレーの作品であった。
1876 37歳 . セーヌ河が増水し、シスレーはこのとき、最も有名な作品の一つ《ポール=マルリの洪水》を制作した。
《ポール=マルリの洪水》
4月11日〜
5月9日
デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展(ル・ペルティエ通り11番地)が開催され、シスレーが出品した8点の油彩は、エミール・ゾラに注目される
1877 38歳 4月4日
〜30日
デュラン=リュエル画廊の近くのアパートで開催された第3回印象派展(ル・ペルティエ通り6番地)に、シスレーは《アルジャントゥイユの橋》など17点の風景画を出品し、テオドール・デュレやジョルジュ・リヴィエールから、シスレーの作品の繊細さ、静謐さ、溢れる魅惑的な詩情を称賛される。
5月28日 再び、シャルル・ピェによる印象派の売立てが開催されたが、売立は惨々な結果で、シスレーの作品は11点が売れたが、売上げは1387フランだった。
マルリ=ル=ロワから、パリの西にあるセーヌ河畔のセーヴル(ベルヴュー街7番地)に移転する。
《アルジャントゥイユの橋》
. 経済的にはますます困窮し、収入を維持するための絵の売立てや借金のため、以前にもまして友人、知人に頼るようになる。中でもミュレル、デュレ、シャルパンティエ、ペリオ、ヴイオなどは当時およびそれ以後もシスレーに何かと援助の手を差し伸べた人々であった。
1878 39歳 6月5−6日 再びオシュデのコレクションの売立てが行われ、その中の13点のシスレーの絵は安値ではあるがすべて売れた。
8月18日 経済的に困窮したシスレーは、30点の油彩と引き換えに半年間、毎月500フランを支払う注文主を探すよう、デュレに依頼する。
《パリ郊外の春、
花咲くリンゴの木》
10月 セーヴルのボン通り7番地に転居する。
1879 40歳 4月初旬 セーヴルのベルヴュー街7番地の家の立ち退きを迫られ、同じ村のグラン=リュ164番地に移る。400フランを必要としたシスレーは、シヤルパンティエに6点の油彩の売却を申し出る。
4月10日〜
5月11日
第4回印象派展(オペラ座大通り28番地)が開催されたが参加せず、再びサロンに出品するが落選。
1880 41歳 4月1日
〜30日
第5回印象派展(ピラミッド街10番地)が開催されたが、シスレー、モネ、ルノワールはドガと意見が対立し参加しない。
. パリ南東のフォンテーヌブローの森のはずれ、モレ=シェル=ロワンの近くのヴヌー=ナドンのビイ通り88番地に引越し、ここに1882年の9月まで住む。ロワン河とそのほとりのモティーフが登場し始め、やがて彼の作品の中心となる。
《ビィのセーヌ河岸》
. デュラン=リュエルが再びシスレーの作品を扱い始める。
1881 42歳 4月2日
5月1日
ドガを中心とした第6回印象派展(キャプシーヌ大通り35番地)が開催されるが、シスレーは出品しない。
. パリのイタリアン大通りにあるシャルパンティエ主宰の「ラ・ヴイ・モデルン」誌のオフィスで個展を開き14点の絵を展示する。
6月 イギリスの南岸のワイト島に短かい旅行をする。しかし、経済的事情で画材を取り寄せることができなかったため、ここでの制作は実現しなかった。
《サン=マメスの眺め》
1882 43歳 3月1日
〜4月2日
第7回印象派展(サン=トノレ街251番地)はデュラン=リュエルが率先し開催され、再びシスレーも27点を出品する。
印象派の画家たちのほとんどが参加し、みな印象派のスタイルで描き、それぞれ相当数の作品を展示する。その結果、今まで以上に均質化された展覧会となる。批評も以前に比べ好意的なものになった。
9月 ヴヌー=ナドンからモレ=シュル=ロワンに移る。その費用の600フランをデュラン=リュエルに頼む。シスレーは彼にしばしば金銭的な援助を頼んでいる。
1883 44歳 6月1−25日 パリのマドレーヌ大通り9番地にあるデュラン=リュエルの画廊で、シスレーの油彩70点を集めた個展が催される。この個展はこれまでのグループ展中心から印象派画家たちの個展重視への方向転換を印すもので、この間題は印象派の面々によっても広く論じられた。結果的にはグループ展を主張するシスレーの意見とは逆の方向に落着いた。
《モレ近くのロワン河岸》
10月 シスレーは再びモレ外れヴヌー近くのレ・サブロン村に移る。
1884 45歳 . サブロン近郊のセーヌ河畔やロワン河畔の水辺の風景を描く。
1885 46歳 . デュラン=リュエルは後援者の破産で窮状に陥り、毎月約束通りに絵を送るにも関わらず、画商からの送金は僅かとなり、生活の不安に脅かされる。
. グーピル画廊の責任者であったテオ・ファン・ゴッホが、初めてシスレーから作品を購入し、同じ日のうちにコレクターのデフオセに転売する。
1886 47歳 . ヴヌーに戻り、ナショナル通り32番地に住む(現在のフォンテーヌブロー通り35番地)。
《サン=マメス、運河に沿って》
2月8日 デュラン=リュエルが《サン=マメス、運河に沿って》を購入する。ごれが、彼が購入したシスレー作品の最後の一点となる。
2月 生活のため副業として扇に絵を描くことを試みるが、肌に合わず放棄する。
4-5月 デュラン=リュエルはニューヨークで、シスレーの作品多数を含む印象派展を開催し、大成功を収める。
5月15日
〜6月15日
最後となる第8回印象派展(ラフィツト街1番地)が開催され、シスレーはピサロやスーラの呼び掛けを拒絶し、参加しない。
1887 48歳 5月 ジョルジュ・プティ画廊で行われた第2回国際絵画彫刻展に参加する。シスレーの作品の批評家の受けはいく分上向くが、彼の才能を生前に認めていた批評家はリヴィエール、アレクシス、デュレ、タヴェルニエ、ジュフロワ、アレタサンドルなどの少数者に限られていた。
《九月の朝》
10月 アクレシスが論文「ミュレル・コレクションの印象派画家たち」を発表し、28点のシスレーの作品を称賛する。
. テオ・ファン・ゴッホ、ブッソ・ヴァラドン画廊がシスレーの作品を何点か購入する。
1888 49歳 2−3月 デュラン=リュエル画廊でルノワール、ピサロとグループ展を開催し、シスレーは27点出品する。その内の《九月の朝》は1000フランで政府買上げとなり、この作品はのちにアジヤン美術館に収蔵される。
. フランスに帰化しようと試みるが、手続き費用に後込みし断念する。
《モレ=シュル=ロワン、夏》
夏−秋 ロワン河畔で制作する。 
12月 パリのゴドー=ド=モロワ通り12番地のジョルジュ・プティ画廊でシスレーの作品展を開催する。
1889 50蔵 2〜3月 デュラン=リュエルがニューヨークに開設した画廊で「アルフレッド・シスレー作品展」として、1872−88年までの28点の絵の個展を開催する。モレの町なかへ引っ越す。
6月 相変わらぬ苦しい経済状態にあってやむなく、ド・ペッリオ博士宛その甥に作品を売りたい旨の手紙を書く。
11月 レ・サブロンから再びモレ=シェル=ロワンのモンマルトル通り19番地に戻り、ここが終の住処となる。
《ロワン河の水路》
1890 51歳 2月 フランス芸術家協会から分裂して設立された、ソシュテ・ナショナル・デ・ボザール(国民美術協会)のメンバーに、アルフレッド・ロルの推薦により選ばれ、以後死ぬまで毎年5月にシャン・ド・マルスで開かれたこの協会の展覧会に7〜8点ずつ出品する。
. モースによりブリュッセルの「20人展」に参加を要請されるが行き違いが重なり、選び出された5点の絵は送られなかった。
3月 デュラン=リュエル主催の第2回「画家兼版画家」展に油絵2点とエッチング1点出品する。
1891 52歳 . ジョルジュ・プティがシスレーの専売画商になる。
《モレ=シュル=ロワン:
ポート・ブルゴーニュ》
3月 デュラン=リュエルの肝煎りでアメリカのボストンでピサロ、モネとの三人展が開催される。
5月 第3回美術国民協会展に際し、「ル・フィガロ」紙掲載のオタターヴ・ミルポーのシスレーに対する酷評に対して、傷心の画家は公開の手紙でこれに抗議する。
1893 54歳 3月13日−
 4月1日
ヴァラドン画廊でジョワイヤンが行ったシスレーの個展は、批評家の間である程度の成功を収める。タヴェルニエが「フランス芸術」誌にシスレー論を掲載し、19世紀風景画家の巨匠の一人として絶賛する。
1894 55歳 4-5月 第5回美術国民協会展に《モレの教会》の連作など8点を出品する。
《モレの教会》
ルーアンのミュレル所有のドーファン・ホテルに滞在後、ルーアン近郊のメニエール=エスナールの実業家フランソワ・ドゥポー宅に滞在する。ドゥポーは晩年のシスレーの最も熱心なパトロンであった。
モレ=シュル=ロワンに帰ったシスレーは、レグリーズ街を去って同じモレのモンマルトル街1番地に最後の引越しをした。
1895 56歳 . 病気の兆候があらわれ後に喉頭癌と診断される。そのためシスレーの制作は捗らず、経済的にも逼迫する。
雪の中で長時間描き続けたことが原因でリューマチに冒され、顔面神経痛も出始める。
1896 57歳 5月 ミュレルはルーアンの自分のホテルで、シスレーの作品数点を含む印象派展を開催する。
《ロワン河の平船》
12月 プティの申し出で翌年2月の大回顧展開催の運びとなり、直ちに準備にかかる。
1897 58歳 2月5−28日 ジョルジュ・プティ画廊での個展に、146点の油彩と5点のパステルが展示されるが、アレクサンドルとタヴェルニエの批評を除いて、新聞や一般の受けは悪く、プティは絵を売ることも出来ず、とどめの一撃とも言うべき打撃を受ける。
7〜10月 ドゥポーの招きで、イングランドと南ウェールズに滞在し、ペナース、カーディフの海岸を何点かの絵に仕上げる。
8月5日 マリー=ウジェニー・レクーゼクとカーディフで正式に結婚する。
10月1日 モレに戻る。
シスレー肖像
1898 59歳 1月 再びフランスに帰化するための手続きを始めるが失敗する。それというのも、シスレーは生涯の大半はフランスですごしたものの、父からイギリス国籍を継承していたからである。役所の煩雑な手続と悪化する健康が、最終的に帰化をあきらめさせることになった。画家の苦しい痛いの経過については彼がパトロンのジョルジュ・ヴイオ博士にあてた手紙の中に語られている。
10月8日 妻のマリーが舌癌のため死去。
1899 60歳 1月 死期の近いことを感じて、最後の別れを告げ、二人の子供たちの後事を頼むためにモネに来てもらう。
1月29日 モレ=シュル=ロワンで喉頭癌のため没する。
2月1日 モレ墓地に埋葬される。葬儀にはパリからかけつけたモネ、ルノワール、カサン、タヴェルニュなどが参列した。
1911 . 7月11日 モレ=シュル・ロワンで画家の記念碑の除幕式が行われる。