1839[パ リ] 1899[モレ=シュル=ロワン]

 フランスで活躍したイギリス人の印象派画家。父は貿易商を営んでおり、1857年から1861年の間、商売の見習にとロンドンに留学させたが、シスレーがそこで学んだのは母国のターナー、コンスタブルらの風景画であった。
帰国後の1862年にグレールのアトリエに入ると、バジール、モネ、ルノアールらと知りあい、風景画の戸外制作に励むこととなる。
 早くからコローやドービニーの影響を受け、戸外制作を始めた。モネを模範とし、1874年から印象派展に出品した。

 普仏戦争の際に父は破産し、はじめて経済的苦労を知るが、シスレーは、セーヌ川の上流にあるフォンテーヌブロー近くのモレ=シュル=ロワンを中心に数年毎に転居を重ね、セーヌ川の上下流およびロワン川の周辺の田舎に住み、生涯穏やかな光に満ちた地方の田園風景を描きつづけた。

多様な印象派の中でも、独特な光の効果で異彩を放っている彼の様式は、イギリスの風景画からの影響が濃厚である。低い地平線によって空の大気の微妙な状態や雲の力強い動きを伝えようとし、かつその自然の堂々たる威容を安定した構図で表現した。しかし、フランスの空気が彼の神経質な主知主義を和らげ、より穏やかな写実性へと向かわせていった。

 実際、年代順に見ると、1876年の《ポール=マルリの洪水》に見られるように、当初の作品にはごく淡い灰色、ブルー、グリーンといった薄い寒色系の色使いが目立つが、やがて、1893年の《モレの聖堂》のように、鮮やかなオレンジ色や紫色を大胆な筆触で厚塗りするというドラマティックな手法へと変化している。

 彼は同じような題名で 同じ情景を繰り返し何度も描いている。しかし、モレ=シュル=ロワンの教会を描いた連作の例を除けば、モネのように連作という意識を明確に打出した訳ではない。
 内向的な性格であり、ごく少数の画商や愛好家と取引があっただけで、経済的には恵まれなかった。しかし、印象派の中ではモネ、ピサロとともに風景画家グループをなし、1870年代の印象派の画風を最後まで変わらず持ちつづけた唯一の画家である。

シスレーのタイトル・カラーは、セーヌ河の水辺と空をイメージしました。】