画家たちの主要な制作地


外光派とも呼ばれた印象派
 印象派の画家たちは光を求めて戸外に出て、広々とした大気の中にカンヴァスを据えた。彼らを『外光派』と呼ぶのはそのためである。風景は全て太陽に照らされており、昼間の光の微細な位相が次々に見えてくる。建物の壁も屋根も、地面も森も、太陽の光を受けてさまざまに変化している。それが一番はっきりと感じられるのが池や川の水面である。
セーヌ河など水辺を好んだ印象派
 こうして彼らは水辺に吸い寄せられて、セーヌ河やオワーズ川の川岸など、より近づき易い場所を選んで描くようになる。また水が海浜の空や流れる雲のように、彼らに自然の分解と絶え間ない形と色の変化を描き表すことを可能にした。
セーヌ河は、葡萄酒で名高いフランス中東部ブルゴーニュ地方の標高471mのサン・セーヌ・ラベイに源に、パリ・アルジャントゥイユ・ヴェトゥイユ・ジヴェルニーなど14の町を通過し、多くの支流を集めて河口の町ル・アーヴルで英仏海峡に流れこむまで、776kmキロメートルの長さに及ぶ。

風景画のなかの時代反映
 印象派の画家たちは、海岸の保養場や帆をはったヨットが群がる川の情景など、休養のために戸外に出掛ける人たちの娯楽として「田舎の生活」を描き、都市生活者の眼で風景を眺めた。また、彼らは文明化された「家庭的」な自然を好み、郊外の庭のレストラン、家が散在する村の外れ、それに工場の見える風景まで描いた。印象主義が発展していた時期に、画家たちが相互に接触し、互いの作品を識ることが大切であったから、彼らの描く自然は、都市の近くの風景であった。
印象派誕生の地
 印象派の誕生の地は、ノルマンディーの海浜とパリの周辺であった。戸外の絵画は、画家が制作した天候によるという異なる特徴を持っている。北ヨーロッパの野性的で荒い色彩、中部ヨーロッパの平坦な大地の柔らかな明るいパステル・カラー、イタリアの海辺の湿った空気、これらは大きな違いを示し、印象派の画家たちの目的は、これらの制作地のもつ地方的特徴を正確に表現することであった。


アニエール ASNIERESスーラ アニエールの水浴    スーラ、ゴッホ、シニャック

 セーヌ河の行楽地で最もパリに近く、サン・ラザール駅からの鉄道が通じ、1856年には1、200人であった人口は、1886年に15、200人に増えた。作家のポール・アレクシスやアルマン・シルヴェストルがここに住んだ。モネは特にこの地に魅せられ、またスーラはこの付近で《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を描いた。
 特にスーラをはじめとした新印象派の画家たちに近代生活のさまざまなモチーフを与えた。






アルジャントゥイユ ARGENTEUILモネ    モネ、マネ、ルノワール、シスレー
マネ 
 パリから10kmのセーヌ河上流の幅が広がる地点に位置し、パリからの鉄道路線が1841年に完成した後、人気のあるレジャーの中心となった。
 カイユポット、マネ、モネ、ルノワール、シスレーは皆1870年代にここで重要な絵画を描き、モネが1873年に水上アトリエを作ったのもここである。

 アルジャントゥイユは画家たちがくつろいだ雰囲気の中でアイデアを交換できる場所だった。







アルル ARLES     ゴッホ、ゴーガン

 リヨンの南、ローヌ河沿いにあり、麦畑、ひまわり畑、糸杉、オレンジ色に光る屋根など、太陽とミストラルの南仏プロヴァンスにある。アルルの駅から旧市街へ入る城壁の殺風景な広場が、ゴッホとゴーガンが共同生活した《黄色い家》のあった所だが、第二次大戦の爆撃で失われた。有名な《ラングロワ橋(はね橋)》はアルルの南のはずれにあった。









ヴィル・ダヴレー VILLE-D'AVRAYモネ 庭に立つ婦人   モネ
モネ 庭の女たち
 ヴィル・ダヴレーは、静かな池と森に囲まれ、コローが過ごした町。
 若き日のモネもここに住み《庭の女たち》を完成させている。













ヴェトゥイユ VETHEUILモネ ヴェトゥイユのひなげしの野    モネ
モネ ヴェトゥイユの教会
 パリから北西に約50キロ、メダンとジヴェルニーの間、セーヌ河の湾曲部にある小さな町で工場もなければ鉄道もない、アルジャントゥイユに比べはるかに鄙びていた。モネは1878年ここに家を借り、 1883年まで住んだ。モネはこの地に大層魅せられ、自宅の庭を描いた絵を含む数点の作品を描く。その後、ジヴェルニーに住んでいた時、再びここを訪れて教会とその周辺を描いた。









ヴェルノン VERNONモネ ヴェルノンの古い橋の上に建つ家     モネ、セザンヌ
モネ ヴェルノンの教会の眺め
 ノルマンディー地方の古い町で、14世紀の教会と木骨造りの家がある。ジヴェルニーのモネの家から約5キロのところにあり、彼のいくつかの作品に題材を与えた。その中には教会の姿を、様々に異なる大気の条件と変化する光のもとで描いた一連の作品がある。










エクス・アン・プロヴァンス AIX-EN-PROVENCEセザンヌ サント=ヴィクトワール山   セザンヌ、ルノワール、ピサロ
セザンヌ サント=ヴィクトワール山
 中世にはプロヴァンス伯領の首都であり、19世紀においては今日と同様、大学、美術学校、所蔵品の多い公共の美術館を持つ文化の中心であった。
 エクス出身のセザンヌは、人生の大半をこの都市と周辺で過ごし、地元の風景から題材を得た。特に《サント=ヴィクトワール山》の角張った輪郭は彼の多くの風景画に登場する。
 ルノワール、ピサロらもジャス・ド・ブッファンのセザンヌ家に滞在した時、この地域の魅力的な田園風景を描いた。







エスタック L'ESTAQUEセザンヌ エスタックの海    セザンヌ、ルノワール、モネ
セザンヌ エスタックの漁村
 エクスの南約30km<マルセイユの西約6キロ離れた地中海に面した温泉地、漁村。セザンヌと内縁の妻オルタンス・フィケが1870年に移り住む。セザンヌはこの村と周囲の風景に心奪われ、 1886年に父が死んで最終的にエクス・アン・プロヴァンスに住み着くまでは、断続的にこの地で過ごした。ルノワールは1882年にこの村に滞在し、肺炎で倒れるまでセザンヌと一緒に近辺を描いていた。








エッソワ ESSOYESルノワール エッソワヘの道     ルノワール
ルノワール エッソワの農園
 トロワの南東約20キロにある小さな村で、ルノワールの妻アリーヌの生地。ルノワールは1885年に初めてこの村を訪れ、 1895年にはアリーヌに勧められてこの地に家を買う。家は別荘として使用され、 1905年、彼はここにアトリエを建てた。










エトルタ ETRETATモネ エトルタの断崖      モネ
モネ エトルタの日没
 ル・アーヴルから北へ約20kmのノルマンディー海岸の、壮大な壁と岩門がある美しい漁村。既にドラクロワとクールベが描いており、モネはこの地に強くひかれていた。1885年、モネは歌手ジャン=バティスト・フォールのエトルタの別荘に滞在した。オフェンバックやミシュレもこの地に別荘を持っていた。やはり別荘を持つモーパッサンは、時折モネが戸外で描いているのを見て、 1885年の『ジル・ブラス』誌の記事に彼の制作活動を記述した。







エラニー・シュル・エプト ERAGNY-SUR-EPTEピサロ エラニーの秋    ピサロ、モネ
ピサロ エラニーの夏の風景
 ディエップから約32km南にあるエプト川沿いの当時は人口500人足らずの小さな村。1884年ピサロは、それまで住んでいたポントワーズと比べて2倍以上パリから離れているにもかかわらず、エラニー近くのバザンクール・シュル・エプトに家を借りる。ゴーガンはここにピサロを訪れたが、ピサロがファン・ゴッホを泊めようと申し出た時は、彼の妻が反対した。 1892年、ピサロはモネに借りた金でこの家を買い取り、以後の人生をここで過ごした。エラニーと周辺の農村風景は、彼の多くの絵画に描かれている。








オヴェール・シュル・オワーズ AUVERS-SUR-OISEゴッホ オヴェールの教会   ゴッホ、セザンヌ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ
セザンヌ 首吊りの家
 オワーズ川沿いにある緑につつまれた静かなたたずまいの小村。 1850年代、ドーミエ、コロー、ドービニーがここで制作し、この地域は芸術家に知られるようになる。ベルト・モリゾは姉イヴを訪ねてよくこの村へ来た。1872年、ガシェ医師がオヴェールへ転居してセザンヌ、ギヨマン、ピサロ、ルノワール、シスレーら印象派の友人を頻繁にもてなし、画家たちは皆、この地域を描いている。 セザンヌは村の西側の丘の道や家を描き《首吊りの家》《ミレー通りの十字路》など多くの作品を残している。1890年代、ミュレルはホテル業を退き、ルーアンからこの地へ移った。また、フアン・ゴッホはこの村で過ごしたわずか65日の間に《オーヴェールの教会》《烏のいる麦畑》など100点近くもの絵を描き続け、1890年7月ガシェ家のそばの野原でピストル自殺した。








オスニー OSNYピサロ オニーの水飲み場近くの風景     ピサロ、ゴーガン
ピサロ オニーからポントワーズへ向かう道−霜
 ポントワ-ズ近郊の北にある小さな村。
ピサロ家は1882-83年、エラニー・シュル・エプトに移るまでの2年間ここに住んだ。彼のオスニーでの絵画は、ポントワーズでの絵に認められるような風景への情熱をほとんど示していない。ゴーガンは、株式仲買人を辞めて画家になる決心をした数ヵ月後、 1883年夏にこの地のピサロを訪ねた。








オンフルール HONFLEURモネ サン・シメオン農場の道   モネ、ルノワール、シスレー、スーラ
モネ オンフルールのセーヌ河口
 セーヌ河口、ル・アーヴルの対岸にある古い漁港でブーダンが生まれた町。画家たちに人気があり、 「ノルマンディーのバルビゾン」として知られるようになる。ブーダン、コロー、ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、ヨンキントは1850年代60年代、オンフルールを出て、グラス海岸へ通ずる道の河口を一望できる崖の上の《サン・シメオン農園》に滞在して制作した。1864年の夏、モネはブーダン、ヨンキントとともにこの地域で描き、後に来たバジールとともにパン屋に部屋を借りた。






カーニュ・シュル・メール CAGNES-SUR-MERルノワール カーニュのラ・メゾン・デ・ラ・ポスト   ルノワール
ルノワール カーニュ付近
 ニースに近い小村で、 19世紀末に行楽地へと変化した。 1907年、ルノワールはこの村のレ・コレットという名の土地を買い、ヴィラ・ド・ラ・ポストと呼ばれる家を建てて余生のほとんどを過ごした。











コロンブ COLOMBES    モネ、シニャック

 コロンブはセーヌ河を挟んで、アルジャントゥイユの対岸の地域にあたる。












サン・タドレス STE-ADRESSEモネ サン・タドレスの浜辺   モネ
モネ サン・タドレスのテラス
 ル・ア-ヴルに近い漁村で、 1820年代イギリスの行楽客に人気の場所となる。コローとヨンキント、また、ル・アーヴルに両親が住んでいたモネもここで描いた。 1867年、英仏海峡を展望できる別荘を持っていた叔母を訪れ、モネは様々な絵画を制作した。その一つ《サン・タドレスのテラス》では、別荘のテラスでくつろぐ叔母の家族とモネの父アドルフが描かれている。








サン・トロペ SAINT-TROPEZ    シニャック

 コート・ダジュールにある小さな漁港。19世紀末には船遊びファンや地中海の明るい光の中で作品を制作したいと望むシニャック、デュラン、クロス、マティスらの画家が集まった。














サン・マメス SAINT-MAMMES    シスレー

 サン・マメスはセーヌ河とロワン川の合流点にある場所で、シスレーが制作地として好んだ場所の一つ。並木や点在する栗の木はサン・マメスの特徴となっている。










ジヴェルニー GIVERNY     モネ、セザンヌ、ピサロ、ルノワール

 セーヌ沿岸、ヴェルノンから約5キロの小さな村。セーヌ河の渓谷とエプト川の合流点にあり、とりわけ光と影とが微妙に変化し、モネの心を捉えた。モネは1883年、この地に果樹園つきの農家を借りる。 7年後、彼は土地の権利を買い取り、すぐに庭の改造に着手した。
 モネはその後の生涯をジヴェルニーで過ごし、カサット、セザンヌ、ピサロ、ルノワール、ロダン、さらに近所に住んでいたクレマンソーなどの有名人の訪問を受ける。1914年、モネは敷地内に《睡蓮》円形パノラマに合わせた特別のアトリエを建てた。 1966年にモネの息子ミシェルが亡くなった際、邸宅と庭は国家に遺贈され、現在公開されている。








シャイイ CHAILLYモネ シャイイの道   モネ、ルノワール、シスレー

 バルビゾンのすぐ北のフォンテーヌブローの森の端にある村は早くから画家たちが集まった。
教会の墓地にはバルビゾンで亡くなったルソーとミレーの墓が並んでいる。1863年5月にモネとバジールがまず訪れ、ついで6月、グレールのアトリエが閉鎖された後、モネはバジール、ルノワール、シスレーを連れて行き、森で描いた。 モネの《草上の昼食》はここで生まれた。1880年代にはスーラが好んでよく訪れた。






シャトゥー CHATOUルノワール シャトゥの舟遊び    ルノワール、ドガ
 アルジャントゥイユから約5キロ下流にあり、サン・ラザール駅から15キロのシャトゥーは、ルノワールが制作していた頃、まだ心地よい田舎だった。シャトーの中州は美しい公園になっている。パリからの鉄道が開通してからは、舟遊びで知られる場所として、飲食店やダンスホールが激増し始めた。セーヌ河はここで2本に分かれ、一方は商業交通に、他方は遊覧船に使用された。村に面して小さな島があり、ルノワールはそこで1879年の《シャトゥーの漕ぎ手》と、1880-1年にはフルネーズ親父のレストランで《舟遊びの人々の昼食》を制作した。シャトゥーとその周辺は、全部でルノワールの9点の人物画、 6、 7点の川景色の背景として描かれている。







ディエップ DIEPPEモネ ディエップの断崖    モネ、ルノワール、ドガ、ゴーガン、ピサロ
モネ ディエップの断崖
 1870年代、普仏戦争とコミューンの時代の避難場所として知られる前に、この地は16世紀から造船所で栄え、パリから最も近い海水浴場としても賑わっていた。ルドヴィック・アレヴィーとジャックニュミール・ブランシュはこの近くに家を持っており、ドガは頻繁に訪問した。ゴーガン、エヴァ・ゴンザレス、モネもこの港町を訪れ、周辺で描いている。町のすぐはずれにはベラール家の別荘、ヴァルジュモン城があり、ルノワールは何度もここを訪ね、 1879年から1884年までに多くの絵画を制作した。







トゥルーヴィル TROUVILLE   モネ

 英仏海峡の流行の行楽地。この地が芸術家に人気があったのは、将来のパトロンに出会う機会を持てたことによる。クールベはここにアトリエを持っており、そこでモネはクールベと初めて会った。 1863年、ホイッスラーが《育と銀色のハーモニー》で、海岸に立つクールベを描いたのもこの地である。 1870年、モネはカミーユと幼い息子ジャンとともにここに滞在して《オテル・デ・ロシュ=ノワール》や《トゥルーヴィルの海辺にて》を、この行楽地の休日気分を強調して描いた。











フェカン FECAMPモネ フェカンの海    モネ、ドガ、モリゾ
モネ フェカンの荒海
 ル・アーヴルから北東へ30kmほど離れたノルマンディー海岸沿いで景勝地が多い。ベネディクト派の修道院として建てられた12世紀のトリニテ教会は、パリのノートル=ダム寺院に匹敵するほどの大きさをもつ。古く落ち着いた町並みと、白く光る断崖が美しい町。










フォンテーヌブローの森 FORET DE FONTAINEBLEAUモネ フォンテーヌブローの森   モネ、セザンヌ
モネ フォンテーヌブローの森 シャイイの道

 この広大な森は、周囲の私有林を含めると25,000haにもなる。古くから狩の地としていた起伏のある森は、カバやナラの自然林に加え、カシワ、ブナ、マツなどが長い間かかって植林され、表情豊かな森になった。森の中に露出した大小の岩が、この森の風景を、さらに魅力的にしている。森の周辺には、フォンテーヌブローやバルビゾンをはじめ、画家たちが描いた場所がいくつもある。







ブージヴァル BOUGIVAL   モネ、マネ、ルノワール、シスレー、モリゾ

 アニエールに人が集まり過ぎた頃、印象派の画家たちはパリからさらに離れたこの土地へ退いた。ここでは、製材所、ドック、石切場などの産業活動と、純粋な田舎、行楽地の一帯とが共存していた。 1860年代後半ピサロとシスレーは、産業と自然が同居するこの地域を描き始め、モネも1869年の晩春に村のすぐ北にある村落サン・ミシェルに移り住み、この辺りを描く。同年、モネ、ピサロ、ルノワールは皆、クロワッシー島にある人気の遊泳場《ラ・グルヌイエール》で制作した。そこはブージヴァルから歩いてすぐの所で、食事やダンスができるよう改装された船があった。その後、 1881-4年にべルト・モリゾはブージヴァルに別荘を借り、川の景色や家族の肖像を描いた。







プティット・ダル PETITES DALLES    モネ

 エトルタから北東へ約30kmのノルマンディー海岸沿いの保養地。モネの兄のレオンが別荘を持っており、モネは何回か訪れ描いている。










プールヴィル POURVILLE    モネ

 プールヴィルはル・アーヴルから北東に約80kmのディエップから、西に5kmほど下った場所にある。モネはプールヴィル滞在中に税官吏の小屋などを含む100点近い海景画を描いた。











ブーローニュ・シュル・メール BOULOGNE-SUR-MERドガ 海辺にて  マネ、ドガ
マネ プーローニュ・シュル・メール沖のキアセージ号
 英仏海峡のリアヌの口にあるリゾート及び港町で、1870年代までにパリから汽車で行けるようになり、休日の行楽地として次第に栄えていた。
マネは1864年の夏、ブーローニュを訪れて《戦艦キアセージ号》をスケッチした。また、 1873年には港を題材に数点の絵を描くが、その幾つかは一般の市場をあてにしたものと思われる。 1869年、この地で休日を過ごしていたマネ家は、ドガの訪問を受ける。ドガは滞在中、多くのパステル画を描き、翌月から2点の油彩に取り組んだ。








ベリール BELLE-ILE    モネ

 ブルターニュ半島の南にある周囲わずか数キロの小さな島で、荒波に削り取られた入り組んだ断崖と、海中から突き出した数多くの奇岩がある。











ベルヴュ BELLEVUE    セザンヌ

 エクスの南西に位置し、そこは結婚したセザンヌの妹ローズとマクシム・コニルが1885年頃に手に入れた領地。セザンヌは1880年代前半からこの地でサント=ヴィクトワール山を何点か描いている。











ポン=タヴェン PONT-AVENルノワール ポン=タヴェンの近郊    ゴーガン、モリゾ、ルノワール
ゴーガン 説教の後の幻影
 ブルターニュ地方、ロリアンの近く、台地から深い入江に向かって落ち込むアヴェン川の河口の谷に寄り添うようにある村。1860年代に芸術家村となり、ベルト・モリゾはたびたびここで描いていた。20年以上後にこの村は画家集団ポン=タヴェン派の名称の由来となる。その主導者ゴーガンは1886年に初めてこの地で制作。 1888年、 2度目の滞在中にエミール・ベルナールと出会った。ルノワールもボン=タヴェンをしばしば訪れ、 1893年夏には家族と2週間過ごしている。








ポントワーズ PONTOISEセザンヌ ポントワーズのマテュランの庭(エルミタージュ)    ピサロ、セザンヌ、ゴーガン、シニャック
ピサロ ポントワーズのエルミタージュの丘
 ポントワーズは歴史のある町で、サン=マクルー聖堂は12-16世紀にかけて建設されたオワーズ川流域のオヴェールに近い村。バルビゾン派の画家たちに「発見」されていた。ピサロはその風景を大層気に入り、1866-68年この地に住んだ。この時期彼は、この地域で既に制作していたドービニーと出会い、 2人は同じ場所をしばしば描いている。 1872年8月、ピサロはセザンヌとともに再びポントワーズへ行き、一緒に制作する間に、セザンヌは印象派の技法を使い始めた。 1873年、グループ展を開くために協会を設立する案が出された時、ピサロはボントワーズのパン屋組合を手本にした綿密な規約を推奨した。都市化に侵されてきたことから、 1882年ピサロは結局この村を離れる。






マルリー MARLYシスレー マルリの冬、雪景色    シスレー

 サン・ジェルマン・アン・レーとヴェルサイユの問にある、ルーヴシエンヌにほど近い村。シスレーは1876年からセーヴルへ移った1879年までここに住んだ。この期間、彼は周辺の田園風景や近くの川景色を多数描き、その中には1876年のポール・マルリーの洪水を題材に描いたものもある。 1872年にセーヌ河の堤防が決壊した時に、彼は《マルリーで洪水》の最初の連作を描いている。









マルチニック島 MARTINIQUE    ゴーガン

 西インド諸島、小アンティル諸島中央にあるフランス領の島。ゴーガンはシャルル・ラヴァルとともに1886年にパナマとマルチニック島に旅行している。ゴーガンはマルチニック島で、サン・ピエール湾やペレー山などの自然や、原始的生活風景を題材とした作品を多く描いた。









マルロット MARLOTTEルノワール アントニー小母さんの宿    モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、セザンヌ

 フォンテーヌブローの森の南にある小村。よくここを訪れた『ボエーム生活の情景』の作者アンリ・ミュルジエールによって、 1850年代この村は大きな名声を得る。ルノワール、シスレー、ル・クールが1866年にこの近辺で描いた時は、ミュルジェールがひいきにしていた《アントニー小母さんの宿》に泊まった。ルノワールがその内部を描いた絵では、背景の壁にミュルジェールの似顔絵が見える。ルノワールは最初のモデル、リーズに会った。バジール、クールベ、モネ、ピサロもこの宿に泊まった。ゴンクール兄弟もここに滞在し、『日記』にそのボヘミアン的雰囲気を叙述している。










メダン MEDAN      セザンヌ
セザンヌ メダンの館(ゾラの家)
 パリの北西にあるセーヌ河沿いでポントワーズから約15km離れた村。ゾラの小説『居酒屋』は1877年に刊行された時、上流社会に衝撃を与え、皆が買い求めた。その儲けでゾラは翌年、ポントワーズから約15キロ、シャトゥーをさらに越えてセーヌ河が湾曲したところのこの地に田舎の家を購入する。彼はそこで印象派の友人を頻繁にもてなした。特にセザンヌは毎年数週間この家に滞在し、それは1886年に2人の友情が終わるまで続いた。









モレ・シュル・ロワン MORET-SUR-LOING    シスレー、ピサロ

 フォンテーヌブローに近いセーヌ河の支流のロワン川流域の美しい歴史のある村。シスレーは1880年にここへ移り住み、生涯の後半20年間を送り、1899年この他に葬られた。彼はここで《モレの橋》《モレのロワンの河岸》など村の景色を数多く描き、モネのルーアン大聖堂の絵画に倣って印繁深い中世の教会の連作も制作した。ピサロも1901-2年にこの地で描いている。








モンフーコー MONFOUCAULT    ピサロ

 ブルターニュ地方とノルマンディ地方の間にある、当時は人口100人にも満たない小さな村。ピサロは画家リュドヴィク・ピエットの家に居候して、海に近いため新鮮な緑と澄んだ空の鄙びた農村を主題にして何枚も描いた。











ラ・ロシュ・ギュイヨン LA ROCHE-GUYON     セザンヌ、モネ、ピサロ、ルノワール
 
パリとルーアンのほぼ中間、セーヌ右岸にある小村で、ピサロとセザンヌは一緒に制作した。










ル・アーヴル LE HAVREモネ ル・アーヴルの海景    モネ、マネ、ピサロ

 ノルマンディーのセーヌの河口に広がるフランスの第二の港町で、多数の英国人が居住していた。1860年代、アメリカへの定期運航汽船が導入され、この港は新たな重要性を得る。モネはこの地で育ち、画歴の最初期にこの周辺地域から多くの着想を得た。彼がブーダンとヨンキントに初めて会ったのもここである。近くのモンティヴィリエ出身の地元実業家ルイ=ジョアシャン・ゴディベールは、最初にモネのパトロンになった一人で、 1868-9年、彼に金銭援助を与えた。印象派という名のもとになったモネの《印象、日の出》は最初《ル・アーヴルの日の出》と題されていた。






ルーアン ROUENモネ ルーアンのセーヌ河    モネ、シスレー、ルノワール、ピサロ、ゴーガン

 ノルマンディー地方北東部の中心都市。ジヴェルニーから汽車で約60キロ、パリからはその倍ほどの距離にある。街の中心にそびえるノートル=ダム大聖堂は12-16世紀にかけて建てられたゴシック様式の代表的な建物。モネはよくこの都市を訪れ、1870年代にいくつかの風景を描いた。《ルーアン大聖堂》は彼が1892-94年に制作した有名な連作の題材となったが、それまでにもターナー、ボニントン、ビュヴィス・ド・シャヴァンヌら、様々な画家が描いている。1883年ウジューヌ・ミュレルはここにホテルを買って印象派の作品を陳列し、しばしば印象派画家を招いてボントワーズ泊めた。ゴーガンもルノワールもルーアンで描き、ピサロも1896年の春と秋、さらに1898年に数週間ここで制作した。









ルエル ROUELLES    モネ

 ル・アーヴルの北東に接した小さな村で、ルエル川という小川が流れている。モネはこの地で最初に風景画を描いた。モネに風景画を描くことを勧め、師ともいわれるブーダンも描いている。










ルーヴシエンヌ LOUVECIENNESシスレー ルーヴシエンヌのプランセス通り   ピサロ、ルノワール、モネ、シスレー
ピサロ ルーヴシエンヌのヴェルサイユ街道
 パリの西約25キロのブージヴァルとヴェルサイユの間にあるセーヌ河左岸の村で、ピサロは普仏戦争勃発までの1869-70年と、その後18771-2年に住んだ。ピサロとルノワールの住んだ"ルート・ド・ヴェルサイユ"はサンジェルマンアンレイの城とヴェルサイユ宮殿を結ぶ、王の馬車行列の道筋だった。 1868年、ルノワールの両親がこの付近に隠居し、そのためルノワールは後の数年間、ここで多くの時間を過ごした。ピサロ、ルノワール、そして当時ブージヴァルに近いサン・ミシェルに住んでいたモネもこの地域で描いた。1871年にこの地へ移ったシスレーはラ・プランセス通りに住みここで制作した。









ル・プルデュ      ゴーガン

 フランス西部、ブルターニュ地方の田舎町。ゴーガンは1889年にセリュジエらとともに、ポン・タヴェンで試みた異国的で原始的な精神を盛り込もうとブルターニュ地方でもっとも僻地のこの地を何回も訪れ制作した。












ロリアン LORIENT    モリゾ

 プルターニュ地方、スコルフ川とブラヴェ川の合流点にある海軍基地、造船所のある漁港。モリゾ家は頻繁にここに滞在し、 1869年のベルトの《ロリアンの港》という楽しい作品では、姉エドマ(海軍将校アドルフ・ポンティヨンと結婚)が高い帆柱を持つ船を背景に、川の堤防に座っているところが描かれている。