印象派時代の画家たちのミューズ


画家のミューズ
 画家は自らの愛情を画布の上に描いた。いわば美術史とは画家たちの恋愛史の変奏なのだともいえる。美術館の暗がりで、今なお生けるがごとき微笑を湛える女性たち。彼女たちは、その天与の肉体で画家に啓示を与え彼らを導いた。彼女たちこそが画家にとってのミューズだった。
画家の恋人たち
 画家たちは数多くの女性たちに霊感を受けるが、傍から見ていれば、華麗な女性遍歴に見えるかもしれない。しかし、画家にとっては、恋愛こそが、自らの生を確認するための生の彷徨。自らの芸術を深めていくための神聖なる営みとしての愛に、画家は魂を焦がしつづける。
画家の愛人たち
 道ならぬ恋ゆえの魂の交感、愛人こそが画家を啓発するのだが、愛人という言葉には、どこかうら哀しい響きがある。誰からも祝福されることのない間柄。それゆえに男と女、二人だけの世界を築くことが出来るのだともいえ、そこには深々とした魂の交流がある。
画家とモデル
 画家たちは、地上の天使のごとき女性たちの姿をキャンバスに輝かしく描き出す。彼女たちに「生命」を吹き込むのは、画家とモデルという関係を超えて、画家の絵筆が、時にはひそやかな思慕を、あるときは嵐のような激情を愛情という絵具で作品を仕上げるからだ。
モデルから妻へ
 モデルから妻になった例が多いのは、その行為のあとモデルは画家の望むままにポーズをとり、絵となるような顔、特に瞳に変わる。ゆえに画家の妻にとって、夫の仕事はなんと心騒ぐ要素をもっていたことだろう。
画家の妻たち
画家たちの伴侶として、ほとんど語られることのない妻たちであるが隠れた貢献者であることが多い。夫より先に亡くなった妻が多く、夫の画業が世に認められ、苦闘の刈入れが実現するときに出会えなかった妻は多い。いま、彼女たちは画家が残した作品の世界で生きている。

 印象派の画家たちは、どのような女性関係を持ち、どのような結婚をしたのかを記述しています。

マネ
 裕福な高級官僚の息子だったマネは、20歳の時、ピアノの名手でマネ家の個人教授をしていた2歳年上のシュザンヌを妊娠させてしまう。産まれた子は母の取り計らいで里子に出されるが、父は謹厳な法曹界の人間であったため、亡くなるまで13年間も秘密が保たれた。その後マネはシュザンヌと結婚し、この子の後見役をつとめるのだが、最後まで認知しないままでいた。
 シュザンヌは聡明な女性であり、「ブロンドの髪、乳色の顔色、ふっくらとした頬、陶器のような目、フランドル女性らしい健康でがっしりとした肉体、ピアノの鍵盤の上を敏捷に走る小さな手」の女性であったという。
 マネは、ベルト・モリゾ、エヴァ・ゴンザレス、ヴィクトリーヌ・ムーラン、ニーナ・ド・カリアスなど、様々な階層の女性を描いているが、彼女たちの共通点は才気あるタイプで、かつ魅力的である。しかし、妻シュザンヌの印象は才気煥発という感じではなく、愛情はあるが、輝いている人間としては描かれていない。
 マネは良家出身の品位と魅力を持つパリジャンで女にもて、彼の方も女好きで誠実な夫とは言えないが、シュザンヌは詮索するタイプではなかったため、マネとの夫婦仲は良く聡明な女性で、家庭でサロン的な音楽会を開くなど、マネにとってかけがえのない女性であった。
ソファのブルーの色の美しさ、柔らかな質感のある《青いソファのマネ夫人》は、生活の一部になりきり、泰然としたシュザンヌが描かれ、心の安らぐ「妻の肖像」である。

ドガ
 ドガは貴族の称号を持つ銀行家の家に生まれたが、生涯独身を通した。独身であることは、当時、独身者の投票権を奪う法案がまじめに審議されていたくらい(実現しなかったが)に、今日よりもはるかに社会的に居心地の悪いものだった。彼は女性と冗談を言い合ったりするのが嫌いではなかったが、基本的に女嫌いだったようである。
 印象派の女流画家たちにも辛辣で、ベルト・モリゾについては「帽子を作るかのように絵を描いている」とか、カサットについては「女がこれほど上手く描けるとは認めたくないな」などと言っている。












ルノワール
 ルノワールの恋人の中で最も早く彼の絵に姿を現すのは、リーズ・トレオで、二人が出会ったのは1865年頃で、ルノワールは24歳、リーズは17歳くらいだった。フォンテヌブローの森の近く、マルロットに家を持つ画家ジュール・ル・クールの愛人がリーズの姉だったことから、二人は知り合った。サロン入選作の《日傘をさすリーズ》《夏、習作》《水浴の女とグリフォンテリア》に出てくるのはすべて彼女である。リーズはある時には貴婦人の役を演じ、ある時にはヌードになった。《夏、習作》はジプシー女と受け取られることもあるが、乱れた髪、肩からずり落ちたブラウスなどは、ルノワールとリーズの間の親密な感情を活き活きと伝えている。ルノワールとリーズは1871年頃に別れた。

 《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》で踊っているマルゴ(本名:アルマ=アンリエット・ルブフ)は、1875年にモンマルトルのコルトー街に家を借りた直後、二人は知り合いルノワールは34歳、マルゴは19歳で、恋人だったらしい。彼女は《ココアのカップ》など、この時期のルノワールの作品10数点に登場する。二人の関係は、彼女が1879年に腸チフスで命を落とすことで突然の終幕を迎える。ルノワールは病気になった彼女を友人の医師に治療させたり、葬式の費用を出してやった。

 婦人向けの帽子を商う母のもとに私生児として生まれ、舞台で端役を演じる女優としてデビューしたアンリエット・アンリオ夫人は、ルノワールの作品の中に多く登場し、あたかも貴婦人か大女優であるかのようにふるまい、ヌードになることはなかった。彼女は「夫人」を名乗っていたものの、当時まだ20歳にも達していなかった。そしてまた、一生結婚しなかったが、自分もまた21歳で父の知れない娘を産んだ。しかし、実際の彼女とルノワールの関係については、何も分かっていない。

 《ブージヴァルのダンス》のモデルを務めた当時、18歳のシュザンヌ・ヴァラドンは身ごもっていたが、父の名前は分かっていない。もしかするとルノワールとも言われる。そして生まれたのが、後の画家モーリス・ユトリロである。シュザンヌ自身、絵を描くことが好きで、モデルを務めながら画家たちの技術を観察し、ついに画家になる。
ヴァラドンも南仏の小さな町で、家政婦をする母のもとに私生児として生まれた。やがて母とともにパリに出て、モンマルトルに住む。婦人服の工房、花屋、露天商、そしてサーカスのアクロバットなどを経て、15歳頃からモデルを務めるようになる。

 マルゴと死別した後、モンマルトルの婦人服のアトリエに働く、後の妻アリーヌ・ヴィクトリーヌ・シャリゴと出会う。当時ルノワールは38歳、アリーヌは20歳の時で、打算的な都会の娘にはないアリーヌのブルゴーニュ訛りを隠す気もない素朴さと純真さ、そして豊かな胸と雀蜂のような腰をもつ魅力はルノワールの心を虜にした。
彼女が初めてルノワールの絵に登場するのは、《シャトゥーの舟遊び》であり、続いて翌年の《舟遊びの昼食》に、小犬を抱いた姿を見せている。この舞台となったシャトゥーのレストラン・フルネーズには、二人してよく出掛けたという。
 二人が結婚したのは1890年のことで、ルノワールは親しい友人には、早くからアリーヌを紹介していた。同じように籍を入れないまま子供をもうけたセザンヌとは、家族ぐるみで付き合った。しかし、ブルジョワジーに属する親友たち、自宅でサロンを開くような女流画家のモリゾ、詩人マラルメらには、結婚するまでアリーヌや子供のことを隠していた。ルノワールの家庭は、温かい雰囲気だったが、芸術論が交わされるなどというものではなかった。
 多くの画家はしばしば妻の肖像を描いているが、《アリーヌ・シャリゴの肖像》ほど率直に二人の間の愛情を表したものは数少ない。
ルノワールが終生愛したものは「若い娘の、薔薇色で、血が健康に経巡っているのが眼に見えるような肌」であり「晴れやかさ」であったというが、彼女はまさにそういう女性として画家の人生に登場し、欠かせないモデルとなった。

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モネ
 モネは25歳の頃、モデルをしていたカミーユと恋に落ち、2年後に息子が産まれるが、正式な結婚はその3年後だった。カミーユはしかし、1878年の次男出産後の肥立ちが悪く、翌年亡くなる。モネ アリス・オシュデ夫人の肖像
 しかし、その2年前よりオシュデ夫人が子供6人とともにモネの家に入む込んで来ている。夫のオシュデはかつてモネのパトロンだったが、破産してやがてベルギーに逃れる。カミーユの死後、そして1891年のオシュデの死後、モネとオシュデの妻アリスは結婚する。 病気がちな妻を抱えたモネが、健やかな女盛りのオシュデ夫人に心を惹かれたとしても不自然ではないが、それまで長い間の不安定な関係は、モネを苦悶させたたようである。
 最初の妻カミーユはモネの絵の中ではブルジョワ婦人として描かれるが、実は庶民的な女性であり芸術を深く理解することもなかった。それに比べてアリスは教養に溢れ、活気があり、会話を楽しんだ。後半生のモネの良き理解者となるが、アリスは妻としての肖像画は残っていない。 モデルを雇おうとしたモネに「モデルが家に入ってくれば出ていく」と言ったという。アリスの娘以外は人物を描かずに、外光のもとの風景へ向かう契機は、妻アリスと上手くやっていくための、「人生の知恵」の要素もある。アリスの言葉には前妻の小柄で美貌だった前妻カミーユへの嫉妬が感じられる。



シスレー
 シスレーは、自然の冷静な観察を示すその風景画からは想像をつかないが、印象派の仲間の中で最も女好きだった一人である。ルノワールに言わせると彼は、「女を見るとじっとしていられなかった。よく僕たちが一緒に道を歩きながら天気の事や、どうでもいいことを話していると、ふと彼は姿を消してしまうんだ。すると彼はきまって女といちゃついている」。
 1867年、シスレーが27歳のとき、恋人だった花屋のユジェニーが最初の子を産んでいるが、二人が正式に結婚するのは1897年のことで、シスレーの死の2年前、妻の死の1年前のことであった。










ピサロ
 1855年南米からパリに移り住んだピサロが、ピサロ家のメードとして住み込んでいたジュリー・ヴェレーとの関係は、ピサロは30歳、ジュリーが21歳の1860年頃から始まった。彼女に対する愛情は深かったが、身分違いの結婚であった。長男ルシアンと長女のジャンヌが生まれてからもピサロが結婚の手続きを1865年父の死後まで先延ばしにしたのは、遺産相続を失うことを嫌ってのことであった。
 ピサロは妻ジュリーを理想化していたし、農家の娘との関係が、ピサロが次第に軽蔑しはじめていたブルジョワ社会に対する反抗の印であることを、彼は無意識に感じていた。











セザンヌ
 南仏エクス・アン・プロヴァンスの銀行家の息子セザンヌは、1869年に36歳のときパリの製本屋で働いていた19歳のマリー・オルタンス・フィケに出会い、3年後に息子を産ませる。しかし、父からの仕送りが絶たれるのを恐れて、父にはその母子のことを一切秘密にしていた。ほぼ15年後の父の死の直前になり、打ち明けて結婚する。
 オルタンスは黒い瞳の美しい身体つきのブロンドの髪をもつ快活な娘で、パリの製本屋の女工をする傍らモデルをして収入を補っていた。女性に対する強い執着と臆病さとをあわせもつセザンヌが、オルタンスとの同棲生活を始めたきっかけなどは分かっていない。
 セザンヌは女性に対して打ち解けない性格で、ヌード・モデルを目の前にすると、どうしても筆が自然に運ばなくなってしまうのだった。彼が数多く描いた女性水浴のモティーフは、ルーヴル美術館での古典研究を転用したものだった。
 妻オルタンスの肖像には人間的な関心が示されていない。無表情に描かれ感情の入り込むことを意識的に拒否している。オルタンスは夫の仕事に理解を持たなかったと言われているが、激情的なプロヴァンス人の性格を持つセザンヌに従い、内縁関係のまま生活に耐え、画家の貪欲な注文に従う従順さと、尋常ではない忍耐力をもっていたものと思われる。彼女の肖像は30枚ほどあるが、《温室内のセザンヌ夫人》は40歳の妻を描いているが、もっとも魅力的に描かれている。
 セザンヌはオルタンスと正式に結婚する前年、46歳の時に女性関係に悩んでいたようであるが、名前は特定できていない。17年間も父親の詮議から妻子を守ったセザンヌを思うと、男の誠実さを感じるが、息子ポールがいなければ解消されかねない、時間の経過から愛の少ない結婚であったとも言える。それゆえに、セザンヌは晩年、重い糖尿病を患っていたが、夫を仕事場に残したまま、パリ暮らしを続けるオルタンスは優しくはない。




ゴーガン
 画業のためなら、家庭の崩壊に耐えることの出来る画家だったと言う点で、印象派には見られなかったタイプといえる。ゴーガンは有能な株式仲買人として25歳の時、デンマークの裁判官の娘メット・ソフィエ・カージと結婚する。メットはフランス語が話せ、家庭教師をしながらでも生活できる自立型の女性で、容姿は色の白い整った顔立ち、冷静な、しかし少々気取った女性と感じられる。その後、画家として自立すべく仕事を辞めたのは35歳の時で、それ以後、窮乏と放浪の日々を送り、妻メットとの別居生活も長引き、その間に数多くの女性を遍歴している。ゴーガンにはメットとの5人の子の他に、4人の女性が5人の子を産んでいる。

 ポン=タヴェンでは、仲間たちの間で女神的存在になっていたベルナールの妹マドレーヌに恋をし、パリでは、古くからの友人で恩人のシュフネッケルの妻を寝取ってしまい、シュフネッケルとの交際が終わる。また、《純潔の喪失》のモデルになったお針子のジュリエット・ユエと同棲し、身籠もったジュリエットを残して1891年4月にタヒチ島へ渡った。

 タヒチで現地妻となった13歳テフラは2年間同棲し子を産むが、ゴーガンがパリに戻った後、島の男と結婚する。一方、パリに戻ったゴーガンはアトリエを借り、ジャワ女アンナと暮らすが梅毒をうつされ、アンナは絵だけ残し一切を持って失踪する。1895年からの二度目のタヒチ滞在時には、新しい現地妻の13歳のパウラ・ア・タイと暮らし、パウラは2人を産み第一子は数日後に死亡するが、4年後にエミール・ア・タイが生まれる。1901年にはヒヴァ・オア島に移り住み、14歳のマリー・ローズ・ヴァエホホと内縁関係になり、娘のタヒアチカオマタが、ゴーガンの死の8ヶ月前に生まれる。




ゴッホ
 ゴッホは、また、親しい人たちの肖像画をよく描いた。シーンはハーグの街の娼婦だった。
父親の判らない子供がすでにいて、ゴッホと出会ったときも身ごもっていた。短かったけれど、ゴッホと生活を共に過してくれた唯一の女性だった。ゴッホはシーンを抱擁し、シーンの娘や母親とも親身に交流し、彼女たちも描いた。
 《カフェ・デユ・タンブランの女》のモデルのセガトリーヌもパリ時代のゴッホの身近にいた女性店主である。
「マルグリット・ガッシュ」は、そのオーヴュルへ、ゴッホを受け入れるきっかけを作ってくれた美術愛好家のガッシュ医師の愛娘。ゴッホはマルグリットが好きになり、ドクトルの心証を悪くしたなどという言い伝えもある。
 それぞれにゴッホの傍らを走り抜けた女たちである。その一つ一つを見ていると、しかし、ゴッホは、女たちを描いて愛を告白したり女たちの美しさを称えようとしたりはしていない。絵筆をとると、彼は、そのモデルを描き切る可能性への挑戦しかなくなってしまうかのようだ。
 ここに並んだ女たちのうち、ゴッホと性的交渉があったのは、、シーンとセガトリーヌの二人で、マルグリットについては裏付けができない。




ロートレック
 1886年夏から秋にかけて母の住むマルロメの館で、アンドレ=ド・フロントナク男爵の18歳の娘デニーズと交際し、プロポーズするが断られている。
 シュザンヌ・ヴァラドンとは、彼女は当時マリアと呼ばれた売れっ子のモデルであった。私生児として不幸な少女時代を送った彼女は、お針子、女中などの職業につき、さらに曲芸師になるが墜落事故を起こし廃業したが、画家シャヴァンヌに見出されモデルとなり、ルノワール、ドガ、ゴッホなどの印象派の画家たちのモデルを務めた後、ロートレックのモデルとなった。20歳のヴァラドンは彼にひとかたならぬ魅力を感じていたに違いがない。
この美しく意志の強い女性は愛人関係になって2年後に、ロートレックを結婚する気にさせようと狂言自殺を試みるが、逆に二人の仲は急速に冷め別れることになった。ヴァラドンをモデルとした《二日酔い》では、場末の居酒屋で丸テーブルの上のアプサントの入った瓶とグラスを前に、放心状態で頬杖をつく横向きの女性として描いている。



 1888年には、「エリゼ・モンマルトル」という店にいた《赤毛のローザ》ローザ・ラ・ルージュがおり、この女性から性病をうつされたといわれるが、彼の奔放な行動を考えればその確証はない。
 25歳のロートレックと19歳のマリー・シャルルとの出会いは、路上で男に追われたマリーを庇護した時で、彼は彼女に一目惚れする。しかし、彼女は街娼であり男は警官であった。これが縁でマリーは画家のアトリエに住み着くが、性格が悪く他の男に貢ぐためにロートレックから散々無心をされたことなどから8ヶ月で別れた。
 1897年から翌年にかけて、21歳のファッション・モデルのミリアムと愛人関係に入り、有頂天になるが、ロンドンの個展を終えパリに帰ると置き手紙があり、彼女は別の金持ちの男と駆け落ちされた。
 ロートレックの相手は良家の子女というケースは少なく、一般にプロの女性ということになる。従って彼が精神的な恋愛を楽しんだ形跡はなく、あるとしても片思いであった。そのため、欲望を満たすために彼はパリの中心街の高級娼家を訪れた。娼婦たちはベッドを共にすると同時に素晴らしいモデルでもあった。そんな彼女たちのために、時には泣き言を聞き、手紙の代筆をしてやり、酒も奢ってやったことから、娼婦たちは客には見せない姿をさらした。




シニャック
 シニャックはピサロの遠縁の娘ベルザ・ロブレスと29歳の時に結婚したが、50歳で離婚するまで二人の間には子供は産まれなかった。最初の妻ベルトにサン=トロペの別荘を残し、新しい妻の宝石デザイナーで画家のジャンヌ・ゼルマースハイム=デグランジュとアンティープに住み、一人娘のシネットが生まれる。
 ベルザ・ロブルスはピサロの遠縁の従姉妹で、1889年までパリの婦人帽子屋として働いており、シニャックとは1882年に出会った。1892年にシニャックが母親にベルザと結婚する意向を手紙を書いたとき、彼女の特徴について「ベルザはクレオール人とジププシーのハーフで、小柄でふくよかな体型で真っ黒な縮れた髪に綺麗な顎と美しい目、そして、パリっ子と異なる顕著な東洋タイプの物腰で、世界中で最も優しい女性です。よって、彼女は芸術家たちのお気に入りです」 と記述している。
 シニャックは度々、ベルザをモデルとして描いていたが、はっきりベルザの顔を描いたのは、結婚して10年後に印象派的な主題の《パラソルを持つ女》を描いている。






スーラ
 禁欲的で折目正しい生活を送っていたスーラが、おそらくはサーカス小屋の芸人仲間の一人であったと思われるマドレーヌ・ノブロックと密かに結ばれて、子供まで作っていた。マドレーヌは、アルザス地方からパリに移って釆た貧しい下町女の娘ということ以外は何も分かっていない。スーラは1888年頃から彼女と親しくなったことと思われるが、何よりも個人的なことを知られるのを極度に嫌うスーラの秘密主義が、このような不自然な状態を生んだ。
 マドレーヌをモデルにした《化粧する女》は淡い色調でまとめられた喜びの雰囲気に満ちた作品であるが、マドレーヌの胸元を走る熱のこもった執拗なタッチは、スーラの真意を隠しきれずに見せている。 また、最初は画面左上の窓のところに、スーラ自身の顔が描かれていたが、後で花瓶の花に直された。マドレーヌをモデルとした絵に自分の顔を描くことは、精一杯の愛情の表現であった。
 マドレーヌは孤独な画家の私生活を垣間見させる唯一人の女性である。